都市徘徊blog

徒然まちあるき日記

同潤会清砂通アパートメント 5号館

2019-03-20 | 江東区  
同潤会清砂通アパートメント 5号館(左奥は7号館)
所在地:江東区白河4-2
構造・階数:RC・4F(一部3F)
建設年:1928(昭和3)
解体年:2003〜04(平成15〜16)
Photo 2002.11.6

 5号館は1号館の2ブロック東側の白河4-2にあり、やはり清洲橋通りに面して建っていた。そしてこの棟も1階は店舗になっていた。また、こちらは2002年時点では通り沿い部分の外壁が白く塗り直されていた。

 建物内に入っていないので、入口や階段室、廊下、間取りなどのレイアウトは把握しないままに終わった。関連する資料をあたっていないので、そのあたりは今も把握していない。写真で見る限りでは、清洲橋通り沿いの1階は全て店舗で、通り沿いには建物への入口はなかったようだ。


 東南側から Photo 1996.5.12

 当時の住宅地図を見たところ、5号館はロの字型の平面型をしていたようだ。表通り側は4階、後方は3階建てになっていた。

 5〜10号館が建っていた街区は再開発の際に一つの街区にまとめられ、そこにイーストコモンズ清澄白河セントラルタワーが建てられた。このため写真中の左へ向かう道も右奥へ向かう道も、現在は無くなっている。


 西南側から Photo 2002.11.6

 上2枚の写真には屋上に四角い構造体が写っている。5号館は東南角と西南角のパーゴラが特徴的だった。複数の集合住宅が建ち並ぶため、それぞれの建物を少しずつ異なる形にして、画一化しないよう配慮したのだろうか。規模が大きな住棟ではこのようなシンボリックなデザインが施されているようだった。


 東側から Photo 1996.5.12

 手前左側の塔屋になっている部分が、建物入口と階段室。大通りに面した部分以外は、1階も普通の住宅だったようだ。写真奥の高層マンションは、清洲橋通り北側のプラザ元加賀。


 5号館東側の入口部分 Photo 1996.5.12

 入口を入ってそのまま奥へ行くと中庭に出られるようだった。訪問時はなぜかそのことに気付かず、中庭の方も確認しなかった。建物内のレイアウトも把握しないままになってしまったのは残念。


 入口上部の住棟プレート Photo 2002.11.6


 住棟入口の階段室 Photo 2002.11.6

 入口扉はなく、そのまま階段を上って行く構造だったようだ。床面はコンクリート打ち放し、壁面もコンクリート壁にペイントされているだけで、いたって地味。窓があまりなく照明も小さいので、玄関室はやや暗かった。

廃景録同潤会 清砂通アパート
ぼくの近代建築コレクション
  同潤会清砂通りアパートメント5号館/白河4丁目
同潤会清砂通アパートメント
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 11、12、14号館  16号館

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同潤会清砂通アパートメント 1〜3号館

2019-03-18 | 江東区  
同潤会清砂通アパートメント 1号館
所在地:江東区白河3-4
構造・階数:RC・4F
建設年:1927(昭和2)
解体年:2002(平成14)
Photo 1994.7.13

 同潤会清砂通アパートメントは比較的規模が大きく、白河3、4丁目と三好4丁目に、計16棟の建物が残されていた。なかでも1号館は、清州橋通りと三ツ目通りが交わる白河三丁目交差点に面しているため、シンメトリーなデザインで塔屋があり象徴性のある姿を見せていた。


 Photo 1996.5.12

 コーナー部分が建物の入口で、階段室になっている。

 塔屋のある1号館は角地にあり、角の部分はカーブを描いている。ただその両側に角張った部分があるため、やや鎧のように厳めしく、屋上の塔屋は船の艦橋のようでもあった。交差点に向かって前進してくるのではないかと思わせる迫力のある形。


 清州橋通り側の側面 Photo 1996.5.12

 幹線道路に面した1号館の1階には店舗が入っており、いわゆる下駄履きアパートになっている。同潤会アパートはRC造集合住宅として初期のものだが、店舗付き集合住宅としても初期のものになるのではないかと思う。


 左:1号館、右:2号館 Photo 1994.7.13

 L字型の1号館の裏側には同じくL字型でやや小規模な2号館があり、二つの間には四角い中庭があった。斜めになった奥の壁面は1号館コーナー部の裏側にあたる。


 1号館裏の中庭的なスペース Photo 1994.7.13

 左が1号館の南側翼部。2棟あるように見えるが、採光と風通しを良くするために裏側は出入りのある形にしていたようだ。右は2号館。


 1号館階段室見上げ  Photo 1994.7.13

 少々凝ったデザインの階段室も他の同潤会アパートにはおそらくなかったもの。丸い角を持つ三角形の吹き抜けが印象的だった。



同潤会清砂通アパートメント 2号館
所在地:江東区白河3-4
構造・階数:RC・3F
建設年:1927(昭和2)?
解体年:2002(平成14)
Photo 1994.7.13

 2号館は1号館の西南側裏にあった。写真は南側の東西方向道路に面した部分。物干しのベランダなどがないため、物干し台を増築した部屋なども一部には見掛けられた。



同潤会清砂通アパートメント 3号館
所在地:江東区白河3-4
構造・階数:RC・4F
建設年:1929(昭和4)
解体年:2002(平成14)
Photo 1996.5.12

 1号館の西隣にあった3号館。1号館同様、清洲橋通りに面しており、1階部分は店舗になっていた。1号館に比べると2〜4階の開口部の幅が小さめ。

 戦後の都営住宅や公団住宅そして現在に至るまで、集合住宅は南向きが重視され、そちらに居室の主な窓が配され、階段室や廊下、玄関などは北側に置かれることが多い。大通りの南側にある集合住宅の場合などは、自動車交通の騒音を避けるため通り側に背を向けることが特に多いのだが、初期の事例だったためか、さほど日当たりを気にしていなかったのかとも思える外観になっている。欧米の集合住宅は通りに面した壁面(いわゆるファサード)をきれいにデザインしていることが多いが、その影響もあったのだろうか。

 白河3丁目にあった1〜4号館は2002年に解体。また、東側の白河4丁目、三好4丁目の建物群もその後取り壊されて再開発が行われた。

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食糧ビル その4 その他

2019-03-08 | 江東区  

 屋上には小さな祠があり、ちゃんと神様が祀られていた。万事洋風な建物だが、ここだけ和風で赤い鳥居まであるのが面白い。

 屋上の階段室。当初は窓があってガラスがはめられ、階段に光が差し込んでいたのが、何らかの理由で埋められてしまったのかもしれない。いずれにせよ、屋上の階段室まで、それなりの装飾窓になっているのには少し驚かされる。


階段の手摺

 花か穀物の実のようなものを思い起こさせるデザインがさりげなく付けられている。


窓の鍵

 建設当初からのものだろうか。左のレバーを引き上げると、上下のかんぬきが外れて、ガラス窓を外へ向かって開けることができるようになる仕組みらしい。カーブを描いたノブが印象的。


電話交換機?

 交換手が必要なタイプの交換機であると思われる。一体全体いつ頃まで使っていたのだろうか?。もちろん最後の頃は使われていなかっただろう。どのように使っていたのかもよく判らない・・・。


トイレ
コンクリートのがっちりした仕切が気になる。床面はモザイクタイル。


トイレ床のモザイクタイル

 特別素晴らしい模様であるというわけではないのだが、最近はこのような手仕事自体が少なくなってきているので、トイレ一つにも配慮をして造っていたのだなー、という感慨を持ちました。


中庭側に面している3階洗面所。押し開き窓から外気と光が入る。


地下へ至る階段  地下にはボイラー室、倉庫などがある。


地下室に残されていたボイラー

 いつ頃作られたものなのかチェックするのを忘れてしまった。残念。1階中庭部分に、ガラスブロック製の明かり取りがあるが、照明を点けないと殆ど周囲は見えない。

 Photo 2002.11.6


その1 外観  その2 中庭  その3 内部  その4 その他
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食糧ビル その3 内部

2019-03-06 | 江東区  


3階・講堂 窓から白い室内に明るい光が差し込む。


真っ白な壁が美しい

 3階の窓は上部が半円形をしている。きれいに並ぶこの窓が室内を華やかなものにしている。


3階階段室。中央が講堂入口

 階段を上りきったところは講堂の前室も兼ねて、少し広くなっている。中庭側の窓からも光が差し込み明るい。


講堂のプロセニアムアーチの一部分。

 米穀取引所なので、真っ白なモルタルで、米の花のレリーフが造られている。


講堂入口の扉

 扉及びその上部に付けられた、正円アーチのガラスのデザインが、シンプルで可愛らしい。


会議室

 豪華ではなく、どちらかといえば素っ気ない部屋だが、机や椅子などの調度品が古く、カーテンもクラシックなためか、不思議な味わいがある。


撤去中の事務スペース

 いかにも戦前からある事務所という雰囲気のある部屋。奥には大きな金庫がまだ残されていた。天井から吊された蛍光灯や、後付の配管、グレーの壁板などがちょっと懐かしさを感じさせる。


廊下の様子。

 上部が半円形になった扉が個性的。扉自体は事務所らしく素っ気ない。エリアを仕切るためか、廊下の途中に、観音開きの木製枠のガラス扉が付いている。

 Photo 2002.11.6


その1 外観  その2 中庭  その3 内部  その4 その他
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食糧ビル その2 中庭

2019-03-04 | 江東区  

 中庭部分は建物への採光としてだけでなく、集積する食糧の立ち会い取引の場として利用されていたという。このため中庭2階部分(写真右端)にバルコニーが設けられている。

 1階部分には四方から庇が延びていて、柱廊となっており、半屋外・半屋内空間が造られている。荷物の出し入れの利便性が考えられて造られたものかもしれないが、結果的に魅力的な共用空間ができている。

 柱廊部分から中庭側を望む。アーケード部分が存在することで、アーチによって切り取られる特徴的な視界が得られる。ここだけ見れば、パティオを取り囲んで建つヨーロッパの建物のようである。

 静かな中庭を見下ろす3階バルコニー。四角い中庭の一辺が全てバルコニーになっていて、中庭を独り占めしているようで気持ちよい。

 3階から中庭とバルコニー

 中庭部分には柱廊があり、ちょっと欧米かイスラムの屋敷の中庭のようなしつらえ。四方を囲まれたこの屋外空間には一体感があり、また私的な雰囲気が強く感じられる。

 Photo 2002.11.6


その1 外観  その2 中庭  その3 内部  その4 その他
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食糧ビル その1 外観

2019-03-02 | 江東区  

食糧ビル(旧東京米穀取引所・佐賀町エキジビットスペース)
所在地:江東区佐賀1-8-13
建設年:1927(昭和2)
構造・階数:RC・3F
備考 :2002(平成14)閉鎖・解体
    以下、特記のないものは全て2002.11.6撮影

 もともと米穀取引所として建てられたという建物。
 1990年代は佐賀町エキジビットスペースとなり、演劇の拠点などとして活用されていた。

 1階部分はコンクリートモルタルの外壁。2階以上は光沢のある磁器タイル。銅製の雨樋が光る。


建物1階部分には正円アーチが並ぶ  Photo 1991.8.11


正面左側のファサード

 窓枠などもアルミサッシなどに変更されておらず、当初の姿をよく遺していた。1階の引き違い扉は木製?。モスグリーンの色も意外に馴染んでいた。


正面ファサード中央上部

 中央部のみ3階にアーチ状の装飾が付く。テラコッタだろうか?。○の中にKと書かれたエンブレムがあるが、何故Kなのかは知らず。


正面入口部分

 三方?から中庭にアプローチできるような空間構造になっており、際立った正面性は持っていない。やや地味とも言える玄関部分。写真ではほとんど見えないが、アーチ上部には「食糧ビルディング」の名が掲げられている。


中庭に至る通路に付けられた上階への階段

 1Fの各部屋は、道路側もしくは中庭側から直接入る造りになっていたようで1Fには廊下があった記憶がない。また玄関ホールの類もなく、上の階へは中庭への通路の途中に階段があって、そこから上る構造になっていた。


その1 外観など  その2 中庭  その3 内部  その4 その他
食糧ビル/佐賀1丁目 - ぼくの近代建築コレクション

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フジクラ(藤倉電線)

2019-02-26 | 江東区  
フジクラ(藤倉電線)
所在地:江東区木場1
解体年:1995〜96(平成7〜8)
Photo 1995.7.15

 近代建築というわけではないのだが、昭和30年代ぐらいのいかにもな工場だったので撮ったもの。

 久々に通りかかったら、工場はなくなりイトーヨーカドーになっていた。東京に限らず、大規模な工場跡地は大型ショッピングセンターになることが多い。

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都営古石場住宅

2019-02-24 | 江東区  
都営古石場住宅
所在地:江東区古石場2-14
構造 :1〜4号棟 鉄筋コンクリートブロック造、5号棟 RC造
階数 :3F
建設年:1〜4号棟と浴場・食堂は1923(大正12)
    5号棟は1926(大正15)
解体年:1999(平成11)
Photo 1995.7.15

 東京で初めてのRC集合住宅。ヨーロッパのアパートメントを意識したのか縦長の窓割りになっている。
 行ってみたら、仮設的な増築が激しく、一部屋増やしてしまったりしていた。木造戸建てなどではよくあることだが、下の階に別の住戸がある共同住宅では日本ではあまりお目に掛からない。築後70年の時の経過の中で出来た姿。

 オリジナルの仕様では外に出られるベランダはなかったらしく、植木鉢を置いたり洗濯物を干す程度の張り出しがあるだけだったようだ。

 各戸へのアクセスは階段から左右に分かれる形式だった。かなりプライベート性が高い雰囲気だったため、建物内部には入らず。屋上が物干し場になっているようだったがそちらにも行かず。


後から増築された物干し台。


外部に配管が露出して取り付けられているが、かなり老朽化していた。


初期の窓枠が残っている部屋と、サッシに取り替えられている部屋がある。


建物本体が見えないぐらいに増築がなされた部分もある。


3F部分は鉄骨で支えられた増築、1Fはそれとは構造を異にした増築。


Tokyo Lost Architecture」内の記事として掲載していましたが、都市徘徊Blog内に移設しました。
古石場住宅/古石場2 - ぼくの近代建築コレクション
『戦前公共集合住宅における住環境形成の分析を通した環境運営計画の構築』
 住宅総合研究財団 研究年報 No.24 1997

2022.9.20 追記
 古石場アパートは1973年版以降の住宅地図(注)では、菱光倉庫社宅と記されている。また、かつての市民館の場所は古石場保育園となっている。同アパート解体後、跡地はウェルタワー深川となった。
 戦後、菱光倉庫の社宅となった時期、また市民館が古石場保育園になった時期は未把握。
 注)都立中央図書館で紙面で閲覧できる最古の「江東区」版ゼンリン住宅地図。

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佐賀町の三井倉庫

2019-02-22 | 江東区  
佐賀町の三井倉庫
所在地:江東区佐賀 2-8
備考 :2005(平成17)解体、建て替え
Photo 1996.5.12

 佐賀町にあった三井仲1〜仲4倉庫。かつては舟を用いて荷を運び込んでいたため、運河沿いに建っている。左手には東神橋という小さな橋があり、掘割の対岸の倉庫との行き来に使われていた。
 また、写真ではほぼ見えないがこの他に仲5倉庫もあり、この一角には5棟の倉庫があったようだ(昭和初期には6棟だったらしい)。


 三井仲1~仲4倉庫と東神橋  Photo 1996.5.12


 Photo 2006.9.9

 10年ぶりに訪れてみたら倉庫は建て替えられていた。ただ、水路と小さな鉄橋(東神橋)はまだ残されていた。

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旧カフェー「大賀」

2018-12-26 | 江東区  
旧カフェー「大賀」(旧洲崎遊廓 大賀楼)
所在地:江東区 東陽1-38
構造/階数:木/2F
建設年:戦後
解体年:2011.3の東日本大震災で損壊したため、同年秋に解体。
備考 :洲崎_(東京都) - Wikipedia
Photo 2002.11.6

 洲崎は1888(明治21)に根津から移転してできた遊郭。戦前の建物は第二次大戦時の空襲で焼失したが、戦後は「洲崎パラダイス」として、1958(昭和33)の売春防止法施行まで赤線として存続した。

 Wikipediaによれば、大賀楼は洲崎遊廓の中でも一等クラスの店だったという。戦後は特殊喫茶店として洋風店舗が建てられ、カフェー「大賀」となった。売春防止法施行後は他の店同様、ここも普通のアパート「大賀荘」になった。ただこの建物では屋号の「大賀」の文字がそのまま残されており、写真の頃は区議会議員の事務所としても使われていた。


 Photo 2009.8.1

 1枚目の写真にはわずかに見えているが、ベースは木造瓦屋根の2階建て。コーナー部分はモルタルの壁面を建てて洋風に見せている。


 北側から Photo 2009.8.1

 増改築を経ていたのだろうか、側面から見ると妙に複雑な外観をしていた。複数の入口を持つ建物だったのかもしれない。


 Photo 1995.11.18

 コーナー部には黒い豆タイルを張った丸柱、庇もカーブを描いている。2階壁面にも丸い付け柱があり、洋風のお洒落な外観。

 東日本大震災で損壊したため、その後解体されたそうで、跡地には現在は3棟の家屋が建っている。

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