2 0 1 2 年 3 月 3 1 日 ( 火 )
午 後 1 2 時 1 1 分
岩 手 県 西 磐 井 郡 平 泉 町
毛 越 寺 山 門
観自在王院庭園に隣接する
毛越寺【国指定特別史跡】。
「毛越寺」は「
もうつうじ」と読む。
「越」は「えつ」と読むの一般的だが、「
おつ」とも読む。
(たとえば江戸時代の直訴は、歴史用語で「代表越訴型(おっそがた)一揆」という)
もともと「毛越寺」は「
もうおつじ」であった。
「もうお」の部分の「う」が略されて「もおつじ」「
もーつじ」に。
最初の「もー」とのばす音が「つ」の部分にも影響し「
もーつーじ」。
そして現在は「
もうつうじ」となった。
山門は、明治になって伊達一関藩・一関城の大手門を移したもの。
拝観料500円を支払って、境内に入った。
毛越寺は、天台宗の3代座主にして慈覚大師・円仁が東北を巡ったときに建立した。
慈覚大師がこの地に差しかかると、一面が霧に覆われ周囲が見えなくなった。
ふと足元を見ると、地面に白鹿の毛が点々と落ちていた。
大師が落ちている毛をたどっていくと、白い鹿がうずくまっていた。
大師が近づくと、白い鹿は姿を消し、やがてどこからともなく白髭の老人が現れ、
「この地に堂宇を建立し、霊場とせよ」
と告げた。
大師は、この老人を薬師如来の化身と信じ、お告げのとおりにし、嘉祥寺を建立したという。
そして、奥州藤原氏の第2代・藤原基衡夫妻、および、子の3代・藤原秀衡により、壮大な伽藍が建立された。
鎌倉方の平泉攻めののちも、毛越寺は保護を受けたが、その後の相次ぐ火災や兵火により、土台と礎石を残すのみとなってしまった。
江戸時代には伊達藩の保護を受けるが、寺領はほとんど水田となってしまう。
明治後期に毛越寺の復興が始まり、1954年(昭和29年)に本格的な発掘調査がなされる。
2011年(平成23年)6月、「平泉-浄土思想を基調とする文化的景観」の一部として世界遺産に指定される。
この地を訪れた
松尾芭蕉の句碑。
左が芭蕉本人の直筆といわれ、芭蕉の甥が句碑を立てた。
右の句碑は地元の俳人らが新たに立てたものという。
本堂は、平安当時の様式で1998年に再建された。
本堂で旅の無事を祈願。
毛越寺のメインともいうべき
毛越寺庭園【国指定特別名勝】へ。
奥州藤原氏が治めていたころの毛越寺は、池の中心に橋がかかり、絢爛豪華な伽藍が並び、京をも凌ぐといわれるものであった。
右側にも同様の池と建物があったが、こちらは観自在王院である。
平泉の入口ともいわれた
南大門跡から。
現在は橋もなく伽藍も残っていないが、平安時代の浄土式庭園がよく残っている。
庭園の中心にひろがる
大泉ヶ池。
池は海を表現しており、その水際には海岸を表現した情景がつくられた。
大泉ヶ池を中心に、時計回りで歩いていった。
池の南西にある
築山。
大小の岩石を組み立てて造られている。
海にせり出す岩山や岸壁を表現したものという。
築山の近くに停まっている小舟。
大泉ヶ池の水際は大小の玉石が敷かれて、美しい海岸線が表現されている。
池の西側で、水辺から少し離れて建つ
開山堂。
毛越寺を開いた慈覚大師をお祀りしている。
庭園の北西側から。
庭に刻まれた溝は、かつて存在していた伽藍の位置を表している。
なんとなく美しく感じてしまう。
この付近には
講堂跡や
嘉祥寺跡がある。
かつては橋がかかっていた
中島。
大小の玉石によりつくられている。
山水を池に引き入れる
遣水。
谷山から平野へ、蛇行しながら流れ、海に注ぐ川を表現している。
毛越寺庭園の発掘調査で、往時の姿がそのままに発見された。
遣水の遺構は、じつはかなり貴重な存在で、平安時代の遺構としては唯一なのだとか。
水底には玉石を敷きつめ、各所に水切りや横石などの石を配置している。
これらは、平安時代の作庭技術であるという。
・・・雨が無視できないくらいの強さになってきた。
当然傘など持っていない。
他の観光客は一斉に傘をさしている・・・冷たい雨である。
遣水の近くにある小島。
池の北東から、水際を少し離れて建つ
常行堂。
1732年(享保17年)に再建された。
雨が止んで、心なしか空が明るくなってきた。
大泉ヶ池の南東部にある
洲浜。
砂浜が海に延びる砂洲(砂嘴)を表現している。
大泉ヶ池の背後に立つ山は
塔山。
別角度で洲浜を眺める。
大泉ヶ池は鏡のように、木々と空を対称に映し出す。
池の南東、南大門跡近くにある
出島石組と
池中立石。
大小の岩石を荒々しく配置し、周囲には玉石を敷きつめる。
海に洗われる荒磯の風景を表現している。
平泉のシンボル・
金鶏山と、毛越寺のシンボル・池中立石。
大泉ヶ池を1周。
その後は宝物殿を見学。
毛越寺に伝わる平安期の仏像などを拝す。
※撮影禁止のため画像なし。
納経所でご朱印を拝領。
納経所を見ると
「四寺廻廊」のご朱印があった。
松尾芭蕉が訪れた東北の4寺のご朱印を集めるもので、「四寺廻廊」オリジナルのご朱印とご朱印帳がある。
絵はがきとともに、「四寺廻廊」セットも購入。
こうして、
100名城攻城の目的は色あせ、芭蕉の足取りをたどるという旅になっていった。