鬼ヅモ同好会第3支部・改「竹に雀」

鬼ヅモ同好会会員「めい」が気ままに旅して気ままにボヤきます。

Battle of Sweets 宮城&岩手編

2012-12-22 | 移動の旅

2 0 1 2 年 3 月 3 1 日 ( 火 )

午 後 5 時 0 7 分

岩 手 県 西 磐 井 郡 平 泉 町

J R 平 泉 駅





平泉駅のNewdaysでおみやげを探していた。


小岩井農場牛乳まんじゅう

水曜どうでしょう「対決列島」の岩手牛乳早飲み対決で登場。
安田さんが200cc牛乳を2秒で呑んでいく姿、それも4本立て続けに呑んでいき、そして5本目・6本目の牛乳の行き場がなくなり鼻からあふれ、大リバースする姿はまさにびっくり人間に相応しいものであった。
その陰で魔神・藤村Dも、まんじゅう2個を10秒で食いきっているのだ!

私のおみやげ・岩手県代表はこれにしようと決めていた。

しかしNewdaysの中を3周くらいしても見つからない。
ついでにいうと、中尊寺でもおみやげ店を3軒回ったが、やはりなかった。

・・・やはり小岩井農場ではないと買えないのか。
私は牛乳まんじゅうをあきらめて、別のものを探すことにした。


岩手県のおみやげといえば・・・
・かもめの玉子
・南部せんべい
・岩谷堂羊羹
・ずんだ饅頭

などなどあるが、心の底で牛乳まんじゅうをあきらめきれないのか、なかなか踏ん切りがつかない。


店内で「かりんとうまんじゅう」の試食をやっていた。
かりんとうまんじゅうはホントに岩手の名産なのか?
1個食べてみて、店員の勧めるままに買ってしまった。

岩手県代表はかりんとうまんじゅうで決定。
・・・なんかどこにでもありそうなものだなぁ。



JR平泉駅2番線 17時28分発
  東北本線 普通 一ノ関行き
  一ノ関駅2番線 17時37分着


一ノ関駅で停車時間が20分弱あったので、立ち食いそばをいただく。


JR一ノ関駅1番線 17時55分発
  東北本線 普通 仙台行き
  仙台駅5番線 19時33分着




午 後 7 時 3 5 分

J R 仙 台 駅


仙台駅でもおみやげを探す。
宮城県代表は、仙台みやげの定番「萩の月」菓匠三全)。

萩の月は、他の仙台みやげと比べるといささか割高。
20個入り(3,600円)を職場用に、5個入り(900円)を自分用に購入した。
よくよく考えれば、青春18きっぷ2日分(4,600円)にも匹敵する金額である。

萩の月の紙袋に、この日購入したおみやげをまとめて、ベースキャンプのホテルに戻った。




午 後 8 時 3 5 分

仙 台 市 内 某 所




この日の夜、何があったかはあまりよく覚えていない。



※後日、牛乳まんじゅうについて調べたところ、
 すでに製造中止になっているそうです。




真・平泉ウォーカー

2012-12-22 | 移動の旅

2 0 1 2 年 3 月 3 1 日 ( 火 )

午 後 4 時 1 0 分

岩 手 県 西 磐 井 郡 平 泉 町

高 館 義 経 堂





義経堂にある小さな宝物庫を参観して、高館を下りた。


時刻は午後4時をとうに過ぎていた。
寺院仏閣の拝観は難しい。
そろそろ平泉駅に戻ろうか。

毛越寺から中尊寺へは、「平泉ウォーカー」と言いながら、3.2キロ歩くのがめんどくさくなっちゃって、結局バスを使ってしまった。
高館から平泉駅へは、歩きだけで踏破する。
そう、「真・平泉ウォーカー」である。

まぁ、高館から平泉駅までは2キロもないからね。




午 後 4 時 2 0 分

無 量 光 院 跡




無量光院跡【世界遺産・国指定特別史跡】。
奥州藤原氏3代・藤原秀衡が平等院鳳凰堂を模して建立したという。



案内看板による復元図。



4月と8月には、本堂と金鶏山山頂を結ぶライン上に夕日が沈むように設計されていたという。



平泉の世界遺産の中で、もっとも想像力を要する場所かもしれない。




午 後 4 時 2 6 分

無 量 光 院 跡 付 近


トイレ行きてぇ~

平泉駅と柳之御所とに分かれる丁字路。
平泉駅と柳之御所はどちらが近いか。
すなわちより近いトイレはどちらか。



午 後 4 時 3 4 分

柳 之 御 所 資 料 館


柳之御所資料館に寄り道。

はぁ~~~。

人間の3大欲求のひとつを資料館内の小部屋で満たした私は、館内の展示物を見て回る。
ちなみに資料館は入館無料。

 

柳之御所遺跡からの出土品を展示している。
これらはすべて国指定重要文化財。

館内には私を除く観光客はいない。
職員の方ももうそろそろ閉めようか、という空気が漂っている。




午 後 4 時 5 5 分

柳 之 御 所 遺 跡


柳之御所遺跡は、平泉政権の政庁であったという平泉館の跡地とされる。

 

午後5時前なのに閉園になっていた。





このまま引き下がる私ではない。
敷地の内側に入らなきゃ問題ないはずである。
ロープの外側から、整備された柳之御所を見ていった。




午 後 5 時 0 7 分

J R 平 泉 駅




平泉駅に到着。

列車の発車時刻までの間、Newdaysでみやげ物を探していた。




夢の跡・高館

2012-12-20 | 寺院仏閣

2 0 1 2 年 3 月 3 1 日 ( 火 )

午 後 3 時 4 0 分

岩 手 県 西 磐 井 郡 平 泉 町

中 尊 寺 第 1 駐 車 場



月見坂を下り、中尊寺を出た。
中尊寺から国道4号を越え、青看と地図をたよりに歩く。


中尊寺から徒歩5分、卯の花清水があった。



名もなき湧水であったが、『おくのほそ道』の「卯の花」の句から、いつしかその名がついたという。



現在、湧水は枯れてしまい、水道水で代用しているようだ。トホホ・・・



卯の花清水から歩くと、高台へ行く道に分かれる。
坂を上っていくと・・・



源義経の居館があったという高館義経堂に到着。
拝観料は大人200円。

石段を上って高台に着くと、館を構えるには手狭な印象を受ける。
かつては相当の広さであったが、北上川の浸食により現在の姿となった。






北上川の向こうにそびえる秀峰は束稲山
衣川は、北上川の流れが大きく曲がるところで合流する。

(まづ)、高館にのぼれば、北上川 南部より流るゝ大河也。
衣川は、和泉が城をめぐりて、高館の下にて大河に落入。





義経堂
1683年(天和3年)4代仙台藩主・伊達綱村が義経を偲んで建てた。



堂内に木像の義経像



源義経主従供養塔は、昭和61年の義経800年の御遠忌を期して立てられた。

(さて)も義臣すぐつて此城にこもり、功名一時の(くさむら)となる。
国破れて山河あり、城春にして草青みたりと、笠打敷て、時のうつるまで泪を落し侍りぬ。




芭蕉直筆の拓本をもとに立てられた芭蕉句碑

夏草や兵どもが夢の跡
卯の花に兼房みゆる白毛かな 曽良

  
高館義経堂の見どころは、はっきりいって少ない。
観光客もほとんどいなかったが、義経主従の最期に思いをはせ、芭蕉一行が眺めたであろう景色に共感するには十二分であった。




黄金の秘宝・中尊寺其之弐

2012-12-20 | 寺院仏閣

2 0 1 2 年 3 月 3 1 日 ( 火 )

午 後 2 時 2 8 分

岩 手 県 西 磐 井 郡 平 泉 町

中 尊 寺 讃 衡 蔵



月見坂を上ると、讃衡蔵(さんこうぞう)(宝物殿)が見えてくる。
讃衡蔵と金色堂を見るには、ここで拝観料(大人800円)を支払う。


讃衡蔵に入ると、まず最初にきらびやかな仏像が安置されている。
月見坂を上る途中に建っていた数々の支院のご本尊が、こちらに収められている。
いずれも国指定重要文化財クラス。

讃衡蔵の展示品の目玉は、紺紙金字一切経【国宝】であろう。
通称「中尊寺経」と呼ばれる写経であり、紺色の紙に金文字の行と銀文字の行が交互に並ぶ「金銀字交書一切経」と、紺色の紙に金文字が並ぶ「金字一切経」がある。
前者は藤原清衡、後者は藤原秀衡の発願によりつくられた。

讃衡蔵には、国宝・重要文化財が惜しげもなく??展示されている。

残念ながら撮影禁止のため、画像はありません


讃衡蔵のところで、中尊寺のご朱印と「四寺廻廊」ご朱印をもらった。



このあたりにあるみやげ物店で、ちょっとしたおやつを買ってみた。



南部せんべいを砕いてチョコレートでコーティングした「チョコ南部」

・・・さあ、金色堂に行こうか!




金色堂覆堂は、1965年に建造された鉄筋コンクリート造のお堂。
この中に金色堂【国宝】が納められている。

金色堂も撮影禁止
上の画像でよ~~く見たら金色っぽいところが金色堂ですな。


金色堂は、内側外側ともに総金箔貼りで、扉、壁、軒から縁や床面までも漆塗りの上に金箔を貼って仕上げられている。
さらに内部の装飾にはアフリカゾウの象牙を用いている部分もある。

堂内に安置されている仏像は、阿弥陀三尊像(阿弥陀如来坐像、観音菩薩立像、勢至菩薩立像)、その左右に3躯ずつ計6躯の地蔵菩薩立像(六地蔵)、その手前に二天像(持国天、増長天)を配し、以上11躯の仏像から構成される群像となっている。
中央壇・左壇・右壇の3つの須弥壇があり、各壇に11躯の群像が安置される。

そして、3つの須弥壇には奥州藤原氏当主の遺体が安置されている。
中央壇に初代・清衡、右壇に2代・基衡、左壇に3代・秀衡の遺体(ミイラ)と4代・泰衡の首級。
(泰衡は、平泉攻めの末に家臣に裏切られ首を源頼朝のもとに送られた。大きな釘で首を柱に架けてさらされた後に、首桶とともに金色堂に納められた)

金色堂は、建立当初屋外に建っていた。
建立の数十年後に「霧よけ」のような施設が造られ、1288年に外側からすっぽり包む形で覆堂が建設された。




金色堂覆堂を出たところにある経蔵【国指定重要文化財】。
かつては中尊寺経を納めていた。




経蔵からさらに進むと、松尾芭蕉像

かねて耳驚したる二堂 開帳す。
経堂は三将の像をのこし、光堂(ひかりどう)は三代の(ひつぎ)を納め、三尊(さんぞん)の仏を安置す。
七宝(しっぽう) 散うせて、(たま)の扉 風にやぶれ、(こがね)の柱 霜雪(そうせつ)に朽て、すでに頽廃空虚(たいはいくうきょ)(くさむら)成べきを、四面 新に囲て、(いらか)を覆て雨風をしのぐ。
しばらく千歳(せんざい)記念(かたみ)とはなれり。


五月雨の 降のこしてや 光堂




旧覆堂【国指定重要文化財】は、現在の覆堂ができる前に、実際に金色堂を納めていたお堂である。
室町時代に建てられたものという。



金色堂が移ったあとの堂内には、中央に大きな柱が1本。



“有料ゾーン”を出た。



中尊寺の境内に朱塗りの鳥居がひとつ。
中尊寺の鎮守・白山神社である。



白山神社能舞台【国指定重要文化財】。
1853年に仙台藩によって再建され、近世に残る能舞台としては東日本唯一のものらしい。



中尊寺の奥まで来たので、これにて終了。




月見坂を歩く・中尊寺

2012-12-19 | 寺院仏閣

2 0 1 2 年 3 月 3 1 日 ( 火 )

午 後 1 時 5 9 分

岩 手 県 西 磐 井 郡 平 泉 町

中 尊 寺 月 見 坂





中尊寺の入口から。



中尊寺の参道・月見坂
江戸時代に伊達藩による庇護を受け、整備された杉並木の参道。

この月見坂は案外長く、500メートルほどの長さがあったと思う。

月見坂の左右に、諸々の伽藍が配置されている。
入口に近い方から、八幡堂、弁慶堂、地蔵堂、薬師堂、そして本堂の順である。


伽藍の前に、上り坂の右手側・・・



中尊寺の東側には奥州を貫く大河・北上川が流れる。
その北上川に合流する衣川
この画像ではよく見えないが、川の合流付近は「弁慶衣川の立往生」の地といわれる。


八幡堂は・・・
月見坂の側道に面しているので、私はスルーしてしまいました・・・。




衣川で立往生した弁慶を祀る弁慶堂
源義経弁慶の木像を安置している。

悲運の主従に、しばし合掌。




次は右手側に地蔵堂




坂の左手側に薬師堂

この時点で、財布の中に10円玉、5円玉、1円玉がなくなる。




坂の右手側に、本堂の前に構える中尊寺本坊表門【岩手県指定文化財】。
薬医門という形式の門構え。



中尊寺の本堂
本堂の中には、昭和になって延暦寺から分火された「不滅の法灯」が灯っている。

平泉の寺院は、毛越寺といい中尊寺とくに金色堂といい、浄土信仰に基づく意匠が目立つが、中尊寺も毛越寺も天台宗の寺院なのである。


中尊寺も、毛越寺と同じく、3代天台座主であった慈覚大師・円仁の開山とされる。

中尊寺の本格的な造営は、12世紀初めの奥州藤原氏初代・藤原清衡の手による。
1051年から1062年の前九年の役、1083年から1087年の後三年の役を経て奥州の覇者となった清衡は、合戦で戦死した者を平等に供養し、戦乱のない仏国土を建設するために伽藍を整備し、金色堂を建立した。

源頼朝による平泉攻めのあとも、伽藍は保存されたが、1337年の火災により、伽藍のほとんどが焼失してしまう。

江戸時代になると仙台藩の領内となり、藩主である伊達氏の庇護を受け、堂宇の補修や建立がなされた。

1909年に本堂が再建。
1962年より金色堂の解体修理が行われ、6年後に創建当時の輝きを戻すことになる。


私にしてはめずらしく100円玉!!をお賽銭で奉納した。




不動堂



峯薬師堂は、眼病にご利益があるという。



大日堂



阿弥陀堂



弁財天堂


財布の中に50円以下の硬貨が1枚もなくなってしまったので、本堂より先の伽藍では参拝をとりやめた。
なんと罰当たりな私。


このように中尊寺は、本坊と数々の支院で構成されている。
これらの伽藍の参拝は無料。



金色堂、宝物殿は次回で。




平泉ウォーカー

2012-12-18 | 移動の旅

2 0 1 2 年 3 月 3 1 日 ( 火 )

午 後 1 時 1 1 分

岩 手 県 西 磐 井 郡 平 泉 町

毛 越 寺 山 門



毛越寺を出ると、午後1時を回っていた。



毛越寺前の案内看板によると、次の目的地・中尊寺まで3.2キロ。
交通費節約のため、ここは歩いていく。

「平泉ウォーカー」である。




午 後 1 時 2 6 分

お そ い 昼 食


観自在王院庭園ちかくの「麺房・高松庵」さんにて。



もりそば!  ズズズ~ッ うま~い!




午 後 1 時 3 5 分

中 尊 寺 へ 歩 く


いまにも雨が降りそうだ~。
3.2キロも歩きたくないねぇ~。



午 後 1 時 4 5 分

バ ス 停 を 発 見


時刻を見ると、13時52分にバスが来るもよう。

平泉ウォーカー、終了。
そのままバスに乗車した。
世界遺産である金鶏山は通過。




午 後 1 時 5 8 分

中 尊 寺 第 1 駐 車 場


バスからワラワラと人が降りる。
私もそのひとりであるが。




降りたバス停のそばにある弁慶の墓を拝し、中尊寺へ。




雨降りしきる浄土・毛越寺

2012-12-18 | 寺院仏閣
2 0 1 2 年 3 月 3 1 日 ( 火 )

午 後 1 2 時 1 1 分

岩 手 県 西 磐 井 郡 平 泉 町

毛 越 寺 山 門



観自在王院庭園に隣接する毛越寺【国指定特別史跡】。



「毛越寺」は「もうつうじ」と読む。
「越」は「えつ」と読むの一般的だが、「おつ」とも読む。
(たとえば江戸時代の直訴は、歴史用語で「代表越訴型(おっそがた)一揆」という)
もともと「毛越寺」は「もうおつじ」であった。
「もうお」の部分の「う」が略されて「もおつじ」「もーつじ」に。
最初の「もー」とのばす音が「つ」の部分にも影響し「もーつーじ」。
そして現在は「もうつうじ」となった。



山門は、明治になって伊達一関藩・一関城の大手門を移したもの。
拝観料500円を支払って、境内に入った。


毛越寺は、天台宗の3代座主にして慈覚大師・円仁が東北を巡ったときに建立した。

慈覚大師がこの地に差しかかると、一面が霧に覆われ周囲が見えなくなった。
ふと足元を見ると、地面に白鹿の毛が点々と落ちていた。
大師が落ちている毛をたどっていくと、白い鹿がうずくまっていた。
大師が近づくと、白い鹿は姿を消し、やがてどこからともなく白髭の老人が現れ、
「この地に堂宇を建立し、霊場とせよ」
と告げた。
大師は、この老人を薬師如来の化身と信じ、お告げのとおりにし、嘉祥(かしょう)寺を建立したという。


そして、奥州藤原氏の第2代・藤原基衡夫妻、および、子の3代・藤原秀衡により、壮大な伽藍が建立された。

鎌倉方の平泉攻めののちも、毛越寺は保護を受けたが、その後の相次ぐ火災や兵火により、土台と礎石を残すのみとなってしまった。
江戸時代には伊達藩の保護を受けるが、寺領はほとんど水田となってしまう。

明治後期に毛越寺の復興が始まり、1954年(昭和29年)に本格的な発掘調査がなされる。

2011年(平成23年)6月、「平泉-浄土思想を基調とする文化的景観」の一部として世界遺産に指定される。




この地を訪れた松尾芭蕉の句碑
左が芭蕉本人の直筆といわれ、芭蕉の甥が句碑を立てた。
右の句碑は地元の俳人らが新たに立てたものという。



本堂は、平安当時の様式で1998年に再建された。
本堂で旅の無事を祈願。


毛越寺のメインともいうべき毛越寺庭園【国指定特別名勝】へ。



奥州藤原氏が治めていたころの毛越寺は、池の中心に橋がかかり、絢爛豪華な伽藍が並び、京をも凌ぐといわれるものであった。
右側にも同様の池と建物があったが、こちらは観自在王院である。




平泉の入口ともいわれた南大門跡から。
現在は橋もなく伽藍も残っていないが、平安時代の浄土式庭園がよく残っている。

庭園の中心にひろがる大泉ヶ池
池は海を表現しており、その水際には海岸を表現した情景がつくられた。

大泉ヶ池を中心に、時計回りで歩いていった。




池の南西にある築山
大小の岩石を組み立てて造られている。
海にせり出す岩山や岸壁を表現したものという。




築山の近くに停まっている小舟。
大泉ヶ池の水際は大小の玉石が敷かれて、美しい海岸線が表現されている。




池の西側で、水辺から少し離れて建つ開山堂
毛越寺を開いた慈覚大師をお祀りしている。




庭園の北西側から。
庭に刻まれた溝は、かつて存在していた伽藍の位置を表している。
なんとなく美しく感じてしまう。

この付近には講堂跡嘉祥寺跡がある。




かつては橋がかかっていた中島
大小の玉石によりつくられている。




山水を池に引き入れる遣水(やりみず)
谷山から平野へ、蛇行しながら流れ、海に注ぐ川を表現している。



毛越寺庭園の発掘調査で、往時の姿がそのままに発見された。
遣水の遺構は、じつはかなり貴重な存在で、平安時代の遺構としては唯一なのだとか。



水底には玉石を敷きつめ、各所に水切りや横石などの石を配置している。
これらは、平安時代の作庭技術であるという。


・・・雨が無視できないくらいの強さになってきた。
当然傘など持っていない。
他の観光客は一斉に傘をさしている・・・冷たい雨である。




遣水の近くにある小島。




池の北東から、水際を少し離れて建つ常行堂
1732年(享保17年)に再建された。




雨が止んで、心なしか空が明るくなってきた。




大泉ヶ池の南東部にある洲浜
砂浜が海に延びる砂洲(砂嘴)を表現している。




大泉ヶ池の背後に立つ山は塔山



別角度で洲浜を眺める。
大泉ヶ池は鏡のように、木々と空を対称に映し出す。




池の南東、南大門跡近くにある出島石組池中立石
大小の岩石を荒々しく配置し、周囲には玉石を敷きつめる。



海に洗われる荒磯の風景を表現している。



平泉のシンボル・金鶏山と、毛越寺のシンボル・池中立石。



大泉ヶ池を1周。

その後は宝物殿を見学。
毛越寺に伝わる平安期の仏像などを拝す。
 ※撮影禁止のため画像なし。

納経所でご朱印を拝領。



納経所を見ると「四寺廻廊」のご朱印があった。
松尾芭蕉が訪れた東北の4寺のご朱印を集めるもので、「四寺廻廊」オリジナルのご朱印とご朱印帳がある。
絵はがきとともに、「四寺廻廊」セットも購入。

こうして、100名城攻城の目的は色あせ、芭蕉の足取りをたどるという旅になっていった。




世界遺産・観自在王院庭園

2012-12-18 | 公園・庭園

2 0 1 2 年 3 月 3 1 日 ( 火 )

午 前 1 1 時 4 5 分

岩 手 県 西 磐 井 郡 平 泉 町

J R 平 泉 駅



平泉駅の改札を出て、観光案内所で地図を入手。
最初に向かうは、駅から約1キロのところにある世界遺産・毛越寺(もうつうじ)
なるべく多くの名勝史跡に行きたい私は、颯爽と駅を出ると、風を切りながら迅速に行軍。

多賀城ではいくぶん晴れ間があったが、平泉の天気は今にも雨が降りそう。



毛越寺の山門が見えてきたころ、行く手の右側になにやら広場のようなところがあった。

広場の中央になかなか大きな池がある。
公園かなにかか?

案内看板があったので見ると、ここは観自在王院庭園【世界遺産・国指定名勝】であった。


観自在王院は、奥州藤原氏の2代目・藤原基衡の妻が建設した寺院で、毛越寺に隣接していた。
平安時代後期におこった浄土信仰をモチーフとした浄土式庭園がつくられた。

鎌倉政権による平泉攻めがあった1189年(文治5年)以後は荒廃。
江戸時代になると、あたりは水田になったという。

1973年(昭和48年)から1976年(昭和51年)にかけて発掘、復元されている。
2011年6月、「平泉 - 仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群」のひとつとして世界遺産に指定された。


院の入口であった南門跡から。



パッと見ではただの広場。
しかし奥に入ると、名勝のゆえんが見えてくる。


院の中央を占める舞鶴ヶ池



背後にあるなだらかな山は、金鶏山【世界遺産・国指定史跡】。
平泉の街づくりにおける基準点であったという。

雨が降ってきたが、このまま池を回る。









大小18もの石を組んでできた滝石組からは、素朴さ、力強さを感じる。



遣水跡
毛越寺の池から水を引いていたという。



なんかいいねぇ~
雨が止んでくれればもっといいんだけど・・・。


院の奥には、かつては壮麗な阿弥陀堂が大小2棟建っていた。
『吾妻鏡』によると、仏壇は銀、高欄は金でできていたらしい。



今は素朴で小さなお堂と、



これまた素朴なお地蔵様がたたずんでいらっしゃった。




こごた・しおがま

2012-12-16 | 鉄道の旅

2 0 1 2 年 3 月 3 1 日 ( 火 )

午 前 9 時 5 0 分

宮 城 県 多 賀 城 市

J R 国 府 多 賀 城 駅 ・ 1 番 線 ホ ー ム



多賀城をあとにして、次に向かうは世界遺産・平泉。
当然、東北本線を北上することとなる。


松尾芭蕉は、多賀城から塩釜、松島に寄ってから平泉に向かうのだが、この旅では塩釜、松島を通過して平泉へ向かう。


JR国府多賀城駅1番線 9時56分発
  東北本線 普通 小牛田行き
  小牛田駅2番線 10時27分着


「小牛田」「こごた」と読む。
これを一発で読める人はそうはいないだろう。

「しおがま」もなかなかやっかいだったりする。

地方公共団体名(地名)は「塩竈」市。
JRの駅名は「塩釜」駅(東北本線)、本「塩釜」駅・東「塩釜」駅・西「塩釜」駅(仙石線)。
そして陸奥国一ノ宮の神社は「鹽竈」神社である。


なんだかんだ言いながら、塩釜も小牛田もあっさり通過。


JR小牛田駅3番線 10時44分発
  東北本線 普通 一ノ関行き
  一ノ関駅1番線 11時36分着

JR一ノ関駅2番線 11時36分発
  東北本線 普通 盛岡行き
  平泉駅1番線 11時44分着


世界遺産になったばかりの平泉は、あいにくの曇り空でいささか肌寒かった。




多賀城散策(多賀城其之弐)

2012-12-16 | 城郭【日本100名城】
2 0 1 2 年 3 月 3 1 日 ( 火 )

午 前 9 時 1 0 分

宮 城 県 多 賀 城 市

J R 国 府 多 賀 城 駅



100名城スタンプがある国府多賀城駅の観光案内所が開くのが9時30分。
それまであたりをもうひと回りすることとした。

多賀城跡は駅の西口から出発したので、こたびは反対側の東口へ回る。




東口を出るとすぐにある東北歴史博物館
まだ朝なのでオープンしていない。

博物館に隣接する空き地には、東日本大震災による被災者の仮設住宅が据えられていた。


仮設住宅の反対側には、



移築された豪農の住居・今野家住宅【宮城県指定文化財】。
古民家好きの私はここで少し歩みを止める。


東北歴史資料館から歩いて10分のところに、多賀城跡附寺跡【特別史跡】がある。



多賀城が順調に経営されることを願い、建立されたものらしい。
発掘調査で、多賀城と同様の屋根瓦などが出土した。
おそらく多賀城とほぼ同時期に普請されたものと考えられている。

現在は整備されて開放されている。



礎石からも規模が想像できる講堂跡



高い土台に建っていたという塔跡
ここには三重塔が建っていたという。



再び国府多賀城駅へ戻ってきた。
時刻は午前9時40分。

観光案内所はようやく営業開始。



7番、多賀城!

スタンプと、置いてあった手作りのしおりを5枚ほどもらい、多賀城をあとにした。