井財野は今

昔、ベルギーにウジェーヌ・イザイというヴァイオリニスト作曲家がいました。(英語読みでユージン・イザイ)それが語源です。

楽章間は拍手しても良いことにしよう!

2010-08-10 19:27:32 | 音楽
先日のテレビ番組で,クラシック音楽の聞き方の一つとして,楽章間では拍手をしない,ということが解説されていた。曰く,コース料理でいちいち「ごちそうさま」と言っているようなものだ,と。

大筋において正しいし,筆者もそのように説明していたのであるが,最近(と言っても10年ちょっと前から)少々疑問も持つようになった。なぜならば,昔は拍手をしていたはずだから,である。

ベートーヴェン時代は,楽章間にオペラのアリアをはさんで,また元の曲に戻るなどということが,平気で行われていた。これはクラシック音楽史にちょっと詳しい人ならば,誰でも知っていることだろう。そこで拍手が起きないはずはないのである。こんなことを許したくないから,ベートーヴェンは楽章をくっつけて「拍手なんかさせない!」曲を作ったのだ。

続くメンデルスゾーンやシューマンも,何とか拍手をさせない曲を作ってきた歴史もある。
一方で,全く無頓着だったチャイコフスキーなんて人もいるのだが・・・。

では,いつから拍手をしなくなったか?

記録によると20世紀に変わる頃,ベルリンの評論家が,そのような提言をしたらしい。それから,なのである。つまり20世紀の習慣という訳だ。

道理で,と思うことがある。チャイコフスキーのピアノ協奏曲,ヴァイオリン協奏曲,両方ともベルリンで演奏されると,1楽章が終わった時に盛大な拍手が起きることがよくある。つまりベルリンの聴衆は上述の提言を条件付きで受け入れ,「チャイコフスキーだけは従来通りでいきましょう」という態度に出た訳だ・・・(なんて高度なことを考えるかどうかはわからないけれど)

拍手をしたい気持ちを抑えながら聴くのも不自然ではないだろうか。1975年,チェコからヴァーツラフ・フデチェクというヴァイオリニストが来て,ベートーヴェンのスプリング・ソナタを弾いた時のこと。冒頭,ヴァイオリンが主題を弾き終えた瞬間,拍手を始めた人がいた。1小節分くらいで,すぐに止んだものの「ソナタ」の演奏途中で拍手が入ったのを聴いたのは,後にも先にもこれ一回きり。(宮崎市民会館にて)

これはやはり笑い話として扱わざるを得ない。が,一方で,よくぞやったり,という気持ちもある。筆者にしても,その一節を聴いただけで,至福のひとときだったのだから。

「ソナタ」で起きたから珍事なので,演歌からポップスにいたる商業音楽では当たり前,同じクラシックでもオペラやバレエでは珍しくない。

そう考えると,楽章間で拍手しない音楽というのは,かなり特殊であることがわかってくる。その特殊なことをずっと聴衆に強制し続けて,クラシック音楽は生き延びられるのか?

よく考えると20世紀の音楽で,途中で拍手したくなる曲は少ない。シェーンベルクは終了後の拍手も禁じた演奏会を開いたらしいが,禁じられなくても拍手したくなる曲ではなかったかも。

前述のようにベートーヴェンと続く人々の作品は,拍手しないでほしいというメッセージが作品に込められている。そして,もっと遡ると「そんなの関係ねぇ」という時代(ハイドン,モーツァルト等)のものになる。一概に拍手をしないのがいいかどうか,やはり疑問が残る訳だ。

ということで,井財野からの標記の提言は,21世紀の習慣をそろそろ作りませんか,という主旨。言い方変えれば「好きにしたら?」

実は山本直純さんが40年前から提言している。ウェーバーの「舞踏への勧誘」をやると,ワルツが終わったところで,どうしても拍手が起きてしまう。それならそこで指揮者も振り向いてお辞儀をし,またおもむろにコーダを演奏すれば,みんなハッピーではないか,と。

それを予定のこととしてやってしまうと,曲が2曲に分断されてしまうので,それも居心地悪い。しかし,自然に起きた拍手を制止する居心地の悪さと比べてどうなのか,ということだ。

予定通りの拍手というものは,舞台上の人間にとっても,それほど嬉しいものではない。一方,自然に任せた拍手を嫌がる人は基本的にはいないと思うが,どうだろう。ソナタの途中だとさすがに驚くが,少なくとも井財野とすれば悪い気はしない。

いっそのこと,海老一染之助・染太郎のように「いつもより余計にアルペジオを入れております」みたいな拍手ポイントを入れた協奏曲でも作ってみるか。