春のセンバツが始まっている。
今年の応援では、吹奏楽を使わないことになった。
私は1989年を思い出した。平成元年、昭和天皇崩御の後である。あの時も吹奏楽は使わず、太鼓だけの応援になった。
別に吹奏楽が無くなったからと言って、野球として楽しめないことはない。
ただ、吹奏楽を使わないことが被災者に対する配慮になるのだろうか? そこがどうも腑に落ちない。
実は甲子園、出場するだけで、その高校では一千万以上のお金が動く。同窓会を中心に寄付金がどっと集まる(集める?)。
何をかくそう、野球に全く無関心の私でさえ、母校が出た時は甲子園まで応援に行ったのだ。行くと、入場券を発行する卒業生用の受付があって、「一口○○円です」などと現役女子高生から言われてしまうと、それが正規の入場料の何倍であっても払ってしまうものなのだ。
だから、そんなお金を使うくらいだったら、野球は中止して、全て義捐金に回しましょう、というのならわかる。
でも実際は、野球は通常通り、応援だけ縮小。
高校の吹奏楽部、この時期には3年生がいない。中には手伝ってくれる卒業生もいるかもしれないが、基本的には、ベテランの抜けた、結構不安定な状態というのが通例だ。その苦しい状況の中、何とかやりくりして応援にかけつけているのである。
それに甲子園ともなれば、その巨額なお金が吹奏楽部にも回ってくる。公立高校など、いつまでたっても楽器を買うお金が回ってこないと思いきや、甲子園が決まった途端に、いくつもの高価な楽器が揃ってしまったりする。よし、この期待にこたえねば、と吹奏楽部員も必死にがんばることになる。
吹奏楽以外の事情には疎いのであるが、とにもかくにも高校を挙げて甲子園に懸けているのは間違いない。それを止めさせるには、本来それ相応の理由が必要なはずだ。
吹奏楽を使うと被災者の心情を逆なでするだろうか?
巨額を投じて試合をする方が逆なでするのではないだろうか?
と、少なくとも私は納得いかないところがあるのだが、一方で吹奏楽がない野球も、それはそれで悪くない。私が小学生の頃は無かったと思う。高校の時はあった。いつから吹奏楽は導入されたのかな?
あの、太鼓だけの応援はノスタルジーをかきたてる。玉龍、佐伯鶴城、諫早などという校名は高校野球で覚えたものだ。と、野球が好きでもないのに一応見ていた変な少年だった。
ここでやっと訳がわかってくる。
野球は国技なのだ。野球が嫌いでは、この国では生きていけないから、嫌いでも見なければならないのだ。そこを感じ取っていた少年という訳。敏感なのか弱虫なのか。
国技ということは、日本の象徴でもある。野球を止めるということは、日本を止めることなのだろう。日本のアイデンティティ維持のためにも、野球は続けなければならないのだ。
だから、文部科学省が「ナイト・ゲームは中止してもらえないか」とプロ野球にお願いに行く訳だ。
一方、歌舞音曲は国技に至っていないから、一方的な中止の「命令」が下る。なるほど。
しかし、吹奏楽の応援が被災者の神経にさわるか?
この疑問だけは解けない。