ある指揮者の方とお話していて・・・
「日本人の指揮者って、割とみんな似ているでしょ? OさんとかAさんとか、みんなすっきりした音楽を作るじゃない? そういう音楽を表現するのにサイトウ・メソードというのが合っていると思う」
うーん、Aさんは確かにすっきりしているけれど、Oさんはそうだとは認識していなかったので、この方はそのような認識なのだな、と思ったところで、その場の会話は終った。
ただ、その後「すっきりしている」ことに関して、様々な考えが頭をよぎった。
「すっきり」という言葉は、日本人にとって大抵はほめ言葉だ。「すっきり」の反対を考えればわかる。「どろどろ」「もやもや」「不明瞭」など、いろいろ考えられるが、いずれもマイナス・イメージがつきまとう。
一方「すっきり」とか「端正」、「淡麗」などはプラス・イメージでとらえられることがほとんどだ。
だったら、すっきりサウンドで良いではないか・・・
とはいかないのである。すっきりの反対ではないが、「ねばり」のある表現、これは「すっきり」ではないが、マイナス・イメージでもない。ドイツ・ロマンティシズムやユダヤ的サウンドは「すっきり」ではないし、すっきりしていては物足りないかもしれない。
実際には「波状平均運動」「引き延ばし」「引き出し」等、ねばりの表現もサイトウ・メソードには存在している。が、習得するのがとても難しい。それよりも「わかりにくい棒」の方が所期の目的を簡単に果たしてくれたりする。
ということで、わざと「すっきり」を避ける指揮者もいるのである。
でも、と私は言いたい。
日本人は、やはり「すっきり」が好きなのだと思う。演奏者みんなが「すっきりサウンド」でも良いではないか。それはそれで簡単にできることではないのだから。