井財野は今

昔、ベルギーにウジェーヌ・イザイというヴァイオリニスト作曲家がいました。(英語読みでユージン・イザイ)それが語源です。

カトリック信者が演奏するバッハ

2013-04-18 00:23:22 | アート・文化

歌舞伎に「見巧者(みごうしゃ)」と呼ばれる観客がいる。目の肥えたお客さんで、その人達によって役者達が育てられるという、ありがたい存在なのだが、それをクラシック音楽の世界にあてはめるならば、さしずめ「聴き巧者」ということになるだろうか。

最近では、地方都市でも少しずつ、その「聴き巧者」が増えてきた(と思いたい)。

その方達の会話は、時として大変興味深いものがある。

「そう言えば、この間のデームス、どうだった?」

先日、ピアニストのイェルク・デームスが福岡に来て、その際開かれたレクチャー・コンサートの話題である。

「それが・・・」

私個人としては、ウィーン三羽烏と言われたデームスには、シューベルトとかモーツァルトとか、ウィーンゆかりの作曲家の作品についてのレクチャーが本筋だろうと思うのだが、その日のレクチャーは「バッハ」についてだった。最初から疑念が生じる会だった訳だ。

「バッハについては、与えられた時間も短いし、コンパクトに要領よくまとめたお話で良かったの。ただ、・・・」

とても気になったことが一つ。バッハの平均律の演奏だったのだが、ずっとペダルを踏みっぱなしだったとのこと。

「1番のドミソドミソドミ、これは踏みっぱなしでもOK。でも2番のドミレミドミレミで踏みっぱなし!!これは無いでしょ。」

「しかも、レクチャーの中でフィンガー・ペダルを使って云々と言ってるのよ。」

フィンガー・ペダルとは正式な用語ではないが、指を鍵盤から離さないで音を残す方法を指す。ペダルで音を伸ばすのではなくて指で伸ばすから「フィンガー・ペダル」なのだが、足のペダルを使ったら意味がなくなる。

という次第で、期待した割には意味不明の演奏まで混じってしまい、もやもやの残るレクチャー・コンサート、とこの「聴き巧者」は評価した。

「とても良かった、って別の人からは聞いたけどねぇ。」

と、別の聴き巧者は言った。

「バッハと言えば、この間聴いた○○さん、バッハがあまり良くなかったんですよー。」

○○さんはVPオーケストラ(Wiener Philharmoniker)のコンサートマスターである。そのちょっとした違和感を知人にその場でもらしたのだが、その知人はVPO団員の奥さんで、ご主人が隣に座っていた。御主人はベース奏者なのだが、日本語を理解するようで、一言、

「彼はカトリックだからね。」

と言ったのだそうだ。

「あの、演奏にカトリックとかプロテスタントとかあるんですか?」

とその流れで、私に質問が来てしまった。いやはや、考えたこともなかったな。

ただ、バッハを教会で演奏する時、一応プロテスタントの教会かどうか考える。厳密なところでは断られる、と聞いているからだ。逆にプロテスタントの教会でモーツァルトを演奏できるかどうかも気にはしている。(実際に問題にされたことは一度もない。)

ちなみにデームスを招へいした団体はプロテスタント系だったから、ひょっとしたらその関係でモーツァルトではなく「バッハ」が浮上したのかもしれないが。

でも、カトリックの教会とプロテスタントの教会とを思い浮かべると、答えのようなものは浮かんできた。

教会はおしなべて残響が多いが、さらにカトリック系の教会はプロテスタントの教会よりも残響時間が長いような気がする。

その事に慣れているから、ウィーンのカトリック信者はバッハを弾く時も、残響時間が長いホールのイメージで演奏する、という仮説が考えられる。ペダルの件はそれで説明がつくかもしれない。それを聴き巧者さん達に話すと、

「なるほど、今の説明ですっきりしました。」

うーむ、ヴァイオリンに関しては、あまり説明になっていないんだけれど、残響を自分で弾くべく、ねばねば弾いたのだろうか? これは聴いていない人間には見当もつかないことであった。

第一、カトリックとプロテスタントの違いなんて、表面的なことしかわからないのが本当のところだ。あまりこちらがいろいろ言えた筋合いではない、と八幡宮に縁のある日本人の井財野は思ったのであった。