去る21日、NHKで東京フィルハーモニーの演奏でシェーンベルク作曲「グレの歌」が放送された。
この曲だけは、いつ誰が演奏しても「事件」だと思う。楽譜に指定された編成では史上最大規模、それだけにお金がかかって、滅多なことでは演奏できないからだ。
五管だか六管だかよくわからない膨大な管楽器に第1ヴァイオリンだけで20人必要な山のような弦楽器群、6人の独唱者、3組の男声合唱、混声八部合唱、指定の人数ではサントリーホールだと乗りきれない代物。
筆者が演奏したのは20何年か前、東京交響楽団の創立40周年記念の定期演奏会にエキストラ奏者として参加した。
まずパート譜が違う。冒頭が第1ヴァイオリンも第2ヴァイオリンも実に細かく分かれていて、前方に座る人用のと後方用と二種類に分かれていた。それで、例えば前から7番目に座っていても、6番目や8番目の人とは違う音符を弾き、隣の人とも違ったりする。この異様なきめ細かさに、異常に興奮してしまった覚えがある。
この細やかな部分が、また天上の美しさを醸し出しているところにしびれた。放送においては指揮者の尾高氏もおっしゃっていたが、この大編成でなければ出せないピアニッシモが聞こえてくるのだ。
しかも使われている和音が堂々たる「ドミソ!」(変ホ長調の長三和音、正確には「ラ」が加わった付加六の和音)。使われている和音は「ドミソ」と「ファラド」が交替しているだけなのに、この美しさは何? もうイントロから筆者はノックダウンなのである。
このように、様々な変哲大有りで始まって、ドイツロマン派集大成的な音楽が展開される。そして、これを聞けば、シェーンベルク、実は途轍もないメロディーメーカーであることがはっきりわかる。(ブラームスさん、残念でした。)
そして豪華絢爛なオーケストレーション、これがシュトラウスのようなオルガン的な音もあれば、フランス人好みの色彩的な音もあって、実に多彩。(R.シュトラウスさん、旋律が作れれば互角までいけたかもしれなかったですね、でも作れなかったあなたは負けです。)
長大な構成はマーラーに最も近いだろう。そしてマーラー以上に華やぎがある。
シェーンベルクからすると「もう、これ以上は作れない」という次第で無調、十二音の世界へ走ったのではないか、と当時思ったし、今も思わないではない。
さらに、この曲の演奏が技術的に大変難しい。東響が演奏したその昔は、国内で演奏されたのが、まだ2回目か3回目という時代、定期演奏会のリハーサルとしては異例に長い五日間を費やして練習したのだ。にも関わらず、本番の時も完全には弾けなかった。練習で弾けてたのに本番で弾けなくなった曲、あるいは練習では弾けなかったけど本番では弾けた曲、そういうものはいくつかあるが、練習でも本番でも弾けなかったのは、今までの人生のうちでこの曲だけである。そういう思い出もある。(他の思い出として、現在皇太子の浩宮様が聴きにいらしたこと、それから現在家内が合唱団員として乗っていたこと、というのもある。)
その後、東京交響楽団は「グレの歌」を数回演奏したそうだし、その間にオーケストラの技術も上がった。放送の東京フィルハーモニーも、切れ味の良い素晴らしい演奏だった。
また、放送の解説で、ようやくこの曲のストーリーを知ることができた。実は、テキストの対訳を読んでも、さっぱりわからない、演奏会のプログラム解説を読んでもわからない、その点においては難解な曲だったのだ。
でも、例えば第一部の最後にある「山鳩の歌」など、意味がちっともわからなくても常に感動を呼ぶ。これもスゴイことだと思う。
そのようにスゴイ曲が、大編成という理由だけで演奏されないのは惜しい、小さな編成に作り変えよう、と井財野は試みたことがあったが、それは全く不可能だった。この大編成、上述のピアニッシモのように、かなりの必然性がある。
とにかくこのまま味わうしかない。でも一週間くらいは余韻にひたれそう・・・。
そんな曲を作れたシェーンベルクはすばらしい。十二音なんてくそくらえである。「グレの歌」を聴かずしてシェーンベルクを語るなかれ、だ。未聴の方、是非聴いていただきたい。