オーケストラ連盟ニュースには、標記のシンポジウムの模様も掲載されていた。
英仏独米からジャーナリストを呼んで在京オーケストラ6団体を鑑賞・評価するという試みだ。
ただ、シンポジウムは4オーケストラ(読響、日本フィル、N響、都響)の鑑賞が終わった段階で開かれ、アメリカの方は都響しか聞いていないなど、条件があまり整っていないこともあり、これが普遍的な評価とは必ずしも言えない。
呼ばれた人たちも、一回の演奏会で評価するのは難しいと言っていたそうだし。
日本側はあくまで謙虚に耳を傾けようという姿勢があったような感じだが、欧米側は忌憚のない意見過ぎて、身も蓋もない意見も飛び出していた。
日本のオーケストラをヨーロッパ最高のオーケストラと比べることの意味はない。なぜなら遠く及ばないからで、自身の国イギリスでもごく一部を除いてそれらには及ばない。
N響はロンドンの主要なオーケストラに匹敵し、それ以外はイギリスの地方の主要オーケストラに匹敵する。
この意見には全く賛同しない。ただ、こういう聞き方をする人もいるということは参考になる。
現在の日本のオーケストラで問題にすべきは、表面にはなかなか見えてこない部分にあると思っている。表面的には、かなり整備されていて、レヴェルは決して低くないと思うからだ。私の意見はともかく、注目して良いと思ったのは、以下のもの。
(仏)実に高度な技術を持っている一方、オーケストラに必要不可欠である活気に乏しい。聴衆の高齢化は世界的な問題であり、舞台上に活気が必要。
(独)(オーケストラの良し悪しを一回の演奏会で評価することは難しい、という前置きの後)日本でドイツ・カンマーと都響のリハーサルを聞く機会を得たがドイツ・カンマーはリハーサル中、活発な議論があったが都響では模範的に指揮者の指示していたように演奏していた。
最初これを読んだ時は、フランス人が言っていることもあり「あのフランスのオーケストラのようにぺちゃくちゃおしゃべりをしながら演奏せよということか」という構図がとっさに浮かんでしまったが、ドイツ人の言う「活発な議論」を考えると、本質は以下の発言にあることに気づかされる。
音楽の示す真実より、美が重要視されているのでは?
いつぞやの「らららクラシック」で、ドイツ人は音楽に癒しを求めてはいない、のような話があったけれど、確かに日本人は音楽の示す真実などということを考えることは、あまりないような気がする。(だから日本人はダメとも思わないけれど)
ただ、それがないから舞台上の活気が生まれない訳でもないだろう。
「舞台上の活気」これはかなり重要な課題だと思った。