音楽に国境はない,という有名なフレーズがある。
これは一面で真理,他面でそうではない,ということができるだろう。
外国人と一緒に音楽経験をすると,誰もがこの片方,あるいは両方を如実に感じるはずだ。
外国人の演奏に感動した時,逆に日本人が外国人を感動させた時,音楽に国境はない,と叫びたくなる。
では,音楽に国境がある,と感じる瞬間は・・・。
音楽に感動できなかった時,というのもあるにはあるが,私の場合,どうしようもない「壁」を感じることがあるのは,外国人と共演して,作ろうとする音楽の方向性が全く見当がつかない時,最も「国境」を感じる。
我々日本人と接触のある外国人は,それなりのキャリアを積んだ人間ばかりで,そのお国の中では立派に通用している人達ばかりである。技術の優劣が多少あったとしても,音楽作りに関して文句をつけられるものではない。
と,ここまで書いて気づいた。ここで言う外国人とは欧米人のことである。
アジア人相手だと,大いに文句を言いたくなったり,実際に言ったことも多々あった。
この「差」はどこから来るのか?
と,ここまで書いてさらに気づいた。ここで言う音楽とはヨーロッパ起源のクラシック音楽を中心とするものを指している。
私の経験だと,シンガポール人と中国人に,そのモーツァルトはちょっと違うだろう,と言ったことがある。なぜ,それほど「偉そうに」言えたのか?
それは,「本物はこうだ」とか「それではヨーロッパでは通用しない」などと言われながら,ある種の「型」を叩き込まれた結果である。日本人は「本物は…」というフレーズに弱いような気がする。多分,上述のアジア人は本物っぽさよりも,自分が楽しくある方に忠実な気がする。どちらが良いのかは結論がすぐには出ない。
日本人は,国際的に通用する方に価値を置く人が多いだろう。特に欧米で通用するのが,とても優秀であると刷り込まれている私などは,アジア流モーツァルトは受け付けられない。叩き込まれた「型」が一回でも欧米人に通用したら,これは信念に変わってしまう。
ただ21世紀,欧米の力がどれほどのものか,新興勢力が新しい価値観を作っていくこともあり得る。なので,これを「価値観」で論じてしまうと,多様な価値観があって良い,で終わってしまうことにもなる。
一見それでも良さそうに見えるかもしれない。しかし,私の経験からすれば,それはやはり「惜しい」。なぜか・・・?
A)多様な価値観がある
違う価値観が同時にアンサンブルすることはできない。お互いに「違うねぇ」と思いながら終わる。違うということに対する好奇心は刺激されるだろう。
B)共通の価値観がある
これをクラシック音楽の場合に当てはめると,欧米で一般的な演奏方法を採るということになる。お互いのいわば「共通言語」で会話をするようなアンサンブルだから,これは楽しい。
Bの方が楽しいし,感動するのである。言葉が通じなくても音楽が通じる喜びは,何物にも代え難い。喜びのあまり「音楽に国境はない」などと口走ってしまう訳だ。
この「共通言語」に相当するのが,いわゆる「様式」である。様式を学習することで,最高の喜びが待っているのだから,多様な価値観で終わらせてはもったいない。
ただ,繰り返すようだが,この「様式」は言語と同じで,時代や場所で少しずつ変化する。全ての「様式」を網羅する訳にはいかない。(その必要もないかもしれないが。)あくまで伝えられるのは,そのうちのいくつかでしかない。そのあたりに躊躇がある。
だが先頃,全く知らない外国人といきなりアンサンブルをしなければならなかった時,やはり「様式」の把握が大いに役立ち,結果としてとても喜びが大きかったのである。片言でも「共通言語」を話せると楽しいことを実感した。
という訳で,ポツリポツリと(至極たまに)「様式」について考えることを書こうと思う。
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