楽章間の拍手について書くのは3回目のようだが,今回は「楽章と楽章の間」ではなく,一つの楽章の「中の」拍手,楽章の途中の拍手についてである。
ところで筆者が中学生の時に大変影響を受けた文章がある。故山本直純氏の「ボクの名曲案内」、そこから一部引用しよう。ウェーバーの「舞踏への勧誘」に関するものである。
(最後のコーダの前)あたかも終った風に聞えて、その後エピローグが続くのだが、たいていの聴衆はこのジャン、ジャン、ジャーンのエンディング風コードで、嵐のような拍手をしてしまう。そこで指揮者は、どうやって拍手をさせずに次に進むかいろいろ苦労する。
岩城宏之は、そこで下した指揮棒を揮り上げながら中途で停止させ、聴衆の眼をひきつけておいて、静かにそうっと棒をずり上げコーダに連結させる、といったウルトラCをあみ出したが、それでも田舎へ行くとまだ手を叩くといっていた。近衛秀麿先生なんぞは、頭にきて、そこで曲をほんとうに終ってしまう。その後はカット(演奏しない)という方法をとったことがある。
ボクは一度こんなことをやってみては、と思っている。それは、ジヤン、ジャン、ジャーンで大拍手、ボクは指揮台の上でゆっくりとお辞儀をして、嵐のごとき拍手を受ける。拍手の終るのを待って、再びオーケストラに向い棒を揮り始め、エピローグを演奏するのだ。こうすれば二度拍手をもらえる。あちらも恥かかず、こちらも儲けて、地下のウェーバーも文句はいうまい。すなわち、エブリバディ・ハッピーではないか。
これを読んでからというもの、直純さんはいつこれをやってくれるのかと、ずっと待っていたのだが、ついにやらないまま鬼籍に入られた。
さて先日、長崎県障害者芸術祭という催しが佐世保であり、ベートーヴェンの第九の4楽章のみの演奏があった。佐世保市民管弦楽団の演奏に障害者を交えた合唱が加わり、筆者が指揮をした。
この本番の直前に、伝令が走った。
「障害者芸術祭で第九をやる時は、行進曲の前で必ず拍手がはいるそうです」
合唱の「vor Gott!」のフェルマータの後、ファゴットの「ボッ」の前の休みの部分だ。なるほど。筆者はそこで拍手が起きたのを聴いたことは全くないが、可能性は充分考えられる。
そうかそうか、ではどうしようか、と思案しているうちに思い出したのが前述の文章である。拍手を起きないようにする方法はいくつか考えられるものの、自然に起きた拍手を制止するというのも抵抗がある。感動を表現しないでくださいと言っているようなものだからだ。
考えているうちに、直純さんの果たせなかったことを無性にやりたくなってきた。お辞儀したらどうなるのか、誰もやっていないから見当がつかない。何だかワクワクしてきた。そして十分後には関係各所、ファゴットやらテノール・ソロやらに「拍手があったらお辞儀しますから」と伝えに回っていた。
さて本番。オーケストラは快調(出だしだけちょっと不調だったが)、若手のソリスト達もベストが出てきている。
そして件の箇所「vor Gott!」
案の定、拍手が起きた。嵐のような、ではなかったが、遠慮がちでもなく、「普通の」拍手。おもむろに振りむいて一礼する。拍手は少しおさまりかけたが、まだ続きそうなので、ちょっと手をかざして「もういいですよ」というジェスチャー、これで拍手は止まった。
またおもむろに振りむいて、ファゴットを向き、「ボッ」を吹いてもらう。次のテノール・ソロも最高の出来。以下、その調子で難なく終ってしまった。日本のオーケストラは今やアマチュアでも第九は上手い。
史上初、誰もやろうとしなかったことをやった割には、あまりにもすんなり受け入れられ、何事もなかったかのように終ってしまったのは、やや拍子抜け。終ったあとで、このお辞儀を話題にしたのはオーケストラの一部の人間だけだった。オケの人間も出だしの不調の方をもっと話題にしていたような感じもあったし。こんなことなら、拍手が止まるまで何度でもお辞儀をしてみるのだった・・・。
少なくとも、そこで興をそがれた感は全くなかった。ということは、楽章間で拍手があった場合は、遠慮せずお辞儀をしたがいい、といって良いのではないだろうか。
そのうち楽章間のお辞儀が普通になって、「20世紀の頃は、いかに拍手をさせないかに皆苦労していたんだって」などと言われるようになったりして・・・。
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