件の厳格なるピアニスト、まだまだ言いたいことはあるようで・・・。
ヴァイオリンの世界は、大家とか巨匠の影響が強いのかなあ、なんて勝手に思ったりもします。ラロやチャイコフスキーのコンチェルトでのカットなんて、他ではきいたことない慣習では?シューベルトの幻想曲しかり。そんなものかと思っていることも、ふと立ち止まるとなかなか奇妙な風景だったりします。
あれ、ピアノ協奏曲にはカットないですか?ピアニストは冷静だからカッとしないか…。
大家や巨匠の影響は、確かにヴァイオリン界では強いと思う。なぜならば、ヴァイオリン界は、それこそ「他では聞いたことのない<大家族>」なのだから。
楽器の演奏技術習得方法は、大きく分けて二つある。誰かに教えてもらうか、独習するか、だ。
人に習わないでも、楽器をいじっているうちに段々できるようになってしまったということ、大抵の楽器には、そういうことも起きるのだが、ことヴァイオリンに関しては、あまり弾けるようにはならないのである。先生に習わないと演奏できるようにはならない楽器というのは、結構珍しい方だ。同じ弦楽器でもヴィオラとコントラバスは先生に習わず弾けるようになるケースが存在する。(チェロだけは、よくわからない。)
そのことが大きく作用して、世界中のヴァイオリン奏者の先生は、ずっとたどるとヴィオッティにいきつく、というのがヴァイオリン界の常識である。こんな楽器は、他にないだろう。
正確に述べると、その流れに属さない人々も少しはいる。例えばパガニーニ。弟子をほとんど取らなかったし.その稀少なる弟子、シヴォリも師匠の芸をどこまで継承できたか?
それからジプシー・ヴァイオリンの系列。これは全く独自にして,かなりのハイテク集団である。(でも、あのラカトシュもバルトーク音楽院に通っていたし、7代くらい遡るとベートーヴェンと交流があった家系というから、全く無縁という訳ではない。)
この「ヴァイオリン大家族」を、普段から意識しているヴァイオリン人は皆無だと思うが、大家や巨匠がああしたこうした、というのに逆らえないような時、この大家族の圧力が顕在化するのだと考える。大家や巨匠は皆、先生の先生の・・・(中略)・・・弟子の弟子なのだから。
ヴァイオリン愛好家ならば誰でも持っているDVD「アート・オブ・ヴァイオリン」(モンサンジョン制作)、誰もが認める20世紀の巨匠が紹介されている。それは「ハイフェッツ」「オイストラフ」「ミルスタイン」「メニュイン」、そして「フランチェスカッティ」と「スターン」。
ヴァイオリン人にとって、この巨匠たちは絶対的存在である。逆らおうなどとは誰も考えない。例の一見風変りなカットも、大抵はこの巨匠たちの業績である。だから全て抵抗なく受け入れてしまう。
例えば「ツィガーヌ」の最後の方。楽譜に書いていないのに、なぜかスル・ポンティチェロ(駒の上)で弾く人が多いので、どうしてなのか田中千香士先生に尋ねたところ、
「ハイフェッツがやったから、みんな真似したんじゃないの?」(千香士先生は一回だけハイフェッツにレッスンを受けている。)
そんなもんです、ヴァイオリン界は。ヴァイオリン界から見ると、ピアノや声楽は、ハイフェッツのような神様(=規範)がいなくて、大変だねぇ、と思ったりするのだけれど、これは余計なお世話かな。
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