その代わり、すぐに覚える女であり、一度覚えたら忘れない男でもある。
どちらかが良いわけでも悪いわけでもないし、逆のパターンも存在する。
なので、このように類型化する必要はないはずなのだが、数日前からこの問題が頭から離れず、今日に至っている。
事の始まりは、ある学生のレッスンから。
多くの曲を準備しなければならない状況があり、その中のいくつかは、こちらが弾いてみせて要領をつかんでもらった。(そこまでは普通の話。)
いくつかは以前に弾いたことがある曲。
「やってて良かったね。ちょっと弾いてみてごらん。」
「あ、練習していないので弾けません。」
「いや、別に完全な演奏をしろという訳ではないから・・・」
「いえ、弾けません。」
無理やり弾かせたら、本当に弾けないことがわかった。え゛っ?
「これ、難しい場所で先生が何回も練習させたところですよね。」
正直言って、それは忘れていたが、難しい場所というのは一目瞭然の箇所である。
「今、どのくらい弾けるか、やってみてごらん?」
「いえ、練習していないので・・・」
「いいから」
「えーと、このくらいのテンポでしたっけ」
と、倍ゆっくりひょろひょろっと弾いたら止めてしまった。本当に弾けない。
ちょっと待ってくれ。これでは、何のために様々な曲を練習させているのかわからない。全く役に立っていないように見える。
「いえ、役に立っています!」
とその学生は主張するのだが、私には全くわからない状況が生じているのである。
彼女の説明では、やったことのある曲であっても、常に弾いておかないと忘れるらしい。
私はアルツハイマー病の患者を前にしているような錯覚に襲われた。
逆に彼女にしてみれば、知っている曲を楽譜も見ずにサラサラ弾く私の方がすごいのだそうだが、一般的にはそれを「レパートリー」と呼んでいるはずで、それができない人はレパートリーが無いことになる。
では彼女のレパートリーは何なのだろうか、と思い、矢継ぎ早に問いかける。
「愛の挨拶は?」
弾けない。
「ボッケリーニのメヌエットは?」
「どんな曲でしたっけ?」
「ゴセックのガボットは?」
たどたどしく弾くも、やはり覚えていないのがはっきりわかる演奏だった。
おいおい、全部「梅鶯林書 鶯の巻」に載っている曲だぞ。
初心者の2年生が弾く曲だよ。いつもアシスタントとして教えて回っているはずなのに・・・。
一体どうなっているのか。
すると彼女、
「先生が男だからではないですか?」
と、珍説が飛び出した。
曰く、例えば彼女のお父さんは音楽好きで、彼女より遥かに曲にも詳しく、オーケストラの曲でも鼻歌で歌えるが、彼女自身は歌えないという。
また、別の授業で「名曲クイズ」的なことをされている男の先生がいらして、でも女子学生はほとんど全く曲を当てることができないらしい。唯一の男子学生が、一番の物知りで、一人で答えているとのこと。
女性の知り合いでも、様々な曲を知っていたり歌えたりする人は何人も知っているから、即それが性別に関わってくるとは思わない。
一方で女流ヴァイオリニストの事例を二つ。
某オーケストラのコンミスを務め、数多の曲を演奏したことがあるはずの先輩。ある時、オーケストラの様々な曲をミックスした編曲を渡されて弾いた、リハーサルの時の話である。
「これ、何だったかしら」「これは何だったかしら」って言いながら弾き続けるんだけど、ついに一曲もわからないのよね。
と、その編曲者が首をかしげていた。ちなみにこの編曲者も女性なのだが。
もう一人は後輩。演奏旅行の最中、ホテルの一室からメンデルスゾーンの協奏曲を練習している音が聞こえてくる。よほど余裕がないと見えて、オーケストラの練習の合間、いわゆる隙間時間でも「メンコン」を練習しようとするが、すぐにつっかえるのである。暗譜では弾けないらしい。たまりかねたチェロの先輩「おい、メンコンだろ?そんなんで大丈夫か?」と声をかける。ちなみにそのチェロの先輩は男性だった。そしてメンコンであれば、暗譜を忘れることは私にはあり得ない。
どちらも20年以上前の話。前者は現在もコンミスを続け、某音大の教授でもある。後者はベルリンに本拠地を構えるオーケストラの団員にその後なった。
要するに二人とも一流の、しかも日本を代表すると言っても過言ではないヴァイオリニストになっているのだ。
常日頃「上達は記憶だ」と、私は説いている。覚えていないのは上達がないのとイコールだ、というのが持論のはずなのだが、一方で「記憶」とは疎遠の方々が一流のポジションにいらっしゃる現実が、私を混乱させるのだ。
この現実をも知っている以上、「ゴセックのガボットも弾けないようでは」とは言えない。
私など、例えばオーケストラの曲を鼻歌で最初から最後まで歌えるのは少なくみても200曲はあるだろう。別に自慢するほどのことではなく、そこら辺の中学生でもできることだ。現に、中学の頃、吹奏楽部の先輩達がチャイコフスキーの交響曲第4番のフィナーレをずっと歌いながら町を歩くのについて歩いていった経験もある。(その頃私はそれを歌えなかったのでよく覚えている。)
でも、上述のお二方はできなさそうだし、下手するとゴセックのガボットも弾けない可能性がある。
それが全く問題にならない現実の前に、私は何をしているのか、正直わからなくなっている。教えても教えても、片端から忘れてくれる学生達。こういうのを教えていると言ってはいけないのではないかとすら思えてくる。
ただ、救いは、言葉の方は何回も言うと覚えてくれているようなのだ。以前にも「念仏効果」として書いたが、とりあえず覚えている言葉があるようで、私が以前に言った言葉が、そのままオウム返しに出てくることがある。
なので、私の教育行為、全く無駄にはなっていないのだろう。
ただ「こうするべきだ」と知っていても、それが行動に現れているとは言えないことも多い。
知っているのならば、ぜひそれを実行に移していただきたいものである。
そして、音楽そのものもぜひもっと覚えておいてもらいたいものだなぁ、というのが本音かな。
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