井財野は今

昔、ベルギーにウジェーヌ・イザイというヴァイオリニスト作曲家がいました。(英語読みでユージン・イザイ)それが語源です。

みんな大好き、山本リンダ

2012-01-15 01:47:57 | ヴァイオリン

年始に「ヒットメーカー都倉俊一」という番組があった。昨年の番組の再放送だが、本放送を見逃していたので、これは嬉しかった。

その中で、様々な歌手をどのように売り出していくか、という数々の作戦が披露された。なかなかにして興味深い話の連続だった。

フィンガー5、山口百恵、そして社会現象になったピンクレディーが白眉、という番組構成のはずだったが、私はピンクレよりも断然山本リンダ!

と言っても、「闇夜にドッキリ」以来、世間が忘れていったのと軌を同じくして、私も山本リンダのことは忘れていき、クラシック音楽にはまりこんでいった。

で、大学の3年生の年末、畳の上でごろごろ寝そべっていた時である。突然はじかれたように飛び起きた。その時から十年前の山本リンダがテレビで歌っていたのである「ああドヲニモトマラナイ・・・」

思い出の紅白歌合戦ということで、昔の映像を編集した番組だった。これだよこれ、当時のガキンチョを虜にしたのは。ピンクレも嫌いじゃないけれど、この妖しさはないよ。

この画像は誰かアップしているかと思ったが、誰もアップしていない。これはNHKにとっても貴重な映像で、この「ヒットメーカー」でも使用していた。勝手にアップすると問題があるのだろう。ぜひ、どこかで(?)ご覧いただきたいものである。

とにかく、これに高揚したのだ。その勢いで作ってしまった曲がある。「ペルペトゥウム・モビレperpetuum mobile」という。最初は無伴奏ヴァイオリン曲として、一年先輩の卒業プレゼントだった。

「ペルペトゥウム・モビレは昔、無窮動と言っていましたが、最近では常動曲と訳すことが多くなりました。でも10年前の日本では、どうにもとまらないと言ったんですね。」という説明をつけて。

しかし、誰も弾いてくれた形跡はなく、自分で弾くしかないかと、しばらくたったら時々あちこちで弾いていた。

当時の私の映像が残っている。自分で観るのはかなり恥ずかしいものの動画として公開できるのはこれしかないので、止むを得ない。リサイタルのアンコールで演奏したもので、元歌のメロディーになったところで笑い声が入っているのが聞きとれるだろう。

</object>

実は技術的にかなり難しい。パガニーニ、ウィエニアフスキ、ハチャトゥリアンを引用しており、練習しないと弾けないのだが、練習するのが恥ずかしいという、とんでもない曲である。誰も聞いていない時をねらい、曲と認識できないくらいに変形して、と練習もなかなかできない曲なので、この曲ばかりは本番でも全く余裕がない。

とは言うものの、この面白さを伝えたいという気持ちは同時にあり、当時の仕事場、東京室内管弦楽団にオーケストレーションしたスコアを持ち込んでやってほしい旨、頼んだのである。

もともとそのような提案は歓迎の団体だったので、山形県の南陽市を皮切りに広島県の因島等、首都圏以外でもいくつかやらせてもらった。

その中で極めつけの記録が残っていた。茨城県つくば市の谷田部第1 圏民センターにおける「幼稚園児のための音楽鑑賞教室」での演奏。固定カメラの記録用で、しかも若干映像が傾いているが、とりあえずご覧いただきたい。

ヴァイオリン協奏曲のスタイルなので、オーケストラの音は薄めに書いていた。しかし、オーケストラのメンバーが喜んでしまって、私は書いていない音符をみんなで勝手に付けくわえられてしまい、ヴァイオリンのソロなんて聞こえやしない。映像でもはっきり聞きとれるのは、トランペットパート。楽譜にも原曲にもない3度上の音符が追加されている。

そして、実は幼稚園児、この曲が始まると総立ちだったのである。幼稚園児の身長なので、立ってもあまり変化はないのだけれども。そして、歌いはじめた「もうどうにもとまらない」

この幼稚園児、現在20代後半にさしかかる年代ということになる。

おじさん達も好き、幼稚園児も好き、何だ、みんな好きなんじゃない。

ザ・ビートルズの「キャント・バイ・ミー・ラヴCan't buy me love」に似ているという説もあるが、それがどうした。みんな山本リンダが好きなのさ。

追記 : やっと昭和47年の紅白歌合戦をみつけました。「24才でこんなことできるかい?」とAKBに言ってやりたい!


ドビュッシー:ピアノ三重奏曲

2012-01-11 00:46:07 | 音楽

下関を中心に活動している「アンサンブル・シュヴィュ」が、昨年に続き、1月17日には北九州市戸畑市民会館で、このドビュッシーのピアノ三重奏曲を演奏します。それに際して、筆者が解説を頼まれてしまいました。それで、本番に先立ち、ちょっとここでご紹介。お近くの方は、ぜひご来場を…。井財野友人の「トリプティーク・ナハ」も演奏します。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

ドビュッシー19才の時の作品が、百年以上たってドイツのヘンレ社から1986年に出版された。ヘンレ社と言えば非常にアカデミックな原典版で有名な出版社だ。なので、そこからドビュッシーの若書きの作品が出るということ自体、当時とても注目されたものだ。

しかし中身はというと、やはり19才なのである。楽譜の書き方の怪しげな部分、演奏不可能な音符、そして、弦楽器の扱いはまだまだと言わざるを得ない。

かと言って、音楽史の流れを変えた偉大な音楽家の一ドキュメントとだけみるには、あまりに甘美で切ない音楽が含まれているのも確かである。

だから、つまらないなあ、と思ったら、それはドビュッシーのせいにして、美しいところだけ楽しんでしまおう。

第1楽章

ソナタ形式のようだけれど、テーマがちょいと多めに聞こえる。このあたりは、最晩年のヴァイオリン・ソナタの形式の萌芽がみてとれる。このように次々と旋律が出てくるのが、結局好きだったんだよね、ドビュッシー。

ただ、細かく動き回る音型は実にピアノ的で、チェロ向きじゃないよ。そして、何回も四分休符でストップがかけられるのもいただけませんなあ。

それを除けば、はつらつさわやか、青春そのもの。

第2楽章

三部形式。自然短音階を基調に作られた主部は、同時期に作られた「ジプシー・ダンス(ボヘミア風舞曲)」と同工異曲だが、どちらもかわいらしい。

第3楽章

もう絶品!この楽章が発掘できただけで、この三重奏曲の出版は意味があると言ってよい。書法の問題もほとんどない。やっぱりドビュッシーって天才?

(昨年の演奏をこの楽章だけ紹介します。)

第4楽章

フランスにも演歌があったんだねー、と思わず言ってしまうような主題で始まる。中間部には、小組曲や「春」といったその後の作品を思わせる部分もあり、それはそれで楽しい。

しかし「このエンディングはないでしょう」というあっけない終わり方で曲は閉じられる。いやぁ、それからがんばったんだね、ドビュッシー。




「楽隊のうさぎ」世代も成人式

2012-01-07 12:01:04 | 音楽

ちょうど2年前の大学入試センター試験の国語の問題に「楽隊のうさぎ」の一節が使われていた。音楽を描いた文章としては、なかなか魅力的なものだったので、その頃、本ブログでもとりあげた。

この記事が、今にいたるまで月に一回程度のペースで読まれ続けている。「楽隊のうさぎ」で検索されるだけでなく「和声理論の権化」等、この小説独特の言い回しで検索されて、という場合もある。

最近「具象化した感覚」というキーワードの検索で、この記事がひっかかってきた。こんなこと書いたっけ、とちょっとびっくり。2年前の記事の一部を再掲する。

 例えば「音が音楽になろうとしていた」という文がある。
 私もよく使う表現,「それじゃただの音で,音楽になっていないよ」のように。

 「スゲェナ」「和声理論の権化だ」
 いかにも生意気な中学生が言いそうなセリフ。

 さて,ここで問題です。この二つはどういう意味でしょう?五択です。

 1. 指揮者の指示のもとで各パートの音が融け合い,具象化した感覚を克久(主人公の名)に感じさせ始めたこと。

 2. 指揮者に導かれて克久たちの演奏が洗練され,楽曲が本来もっている以上の魅力を克久に感じさせ始めたこと。

 3. 練習によって克久たちの演奏が上達し,楽曲を譜面通りに奏でられるようになったと克久に感じさせ始めたこと。

 4. 各パートの発する複雑な音が練習の積み重ねにより調和し,圧倒するような迫力を克久に感じさせ始めたこと。

 5. 各パートで磨いてきた音が個性を保ちつつ精妙に組み合わさり,うねるような躍動感を克久に感じさせ始めたこと。

なるほど、問題文に「具象化した感覚」という言葉があったんだ・・・。

ここで、また一つ気になることが出てきた。時間に余裕のある方は「具象化した感覚」で検索してみると興味深い事実が発見できる。なんと、この言葉をズバリ使っているのはネット上では本ブログしか無いのだ。

これは引用であるから、この言い回しを考えた方は「国語」の問題作成者になる。つまり、かなり独創的な問題文と言えそうだ。

問題文が独創的というのはいいことなのかなぁ、と思わないでもない。ただ、この場合、それで意味がわからない、あるいは含蓄があって複数の解釈が成り立つ、という類の言葉ではないから、問題はないということなのだろう。

「具象化した感覚」と同義語は「権化」だろう。逆に述べれば「権化」を説明すると「具象化した感覚」という「独創的」な言い回しになるということだ。問題作成者の苦労がしのばれる。

というように、実は問題を解くカギがここに潜んでいる。実は、その後、答え合わせもしなかったので、正解が何になっているのか知らない。

せっかくだから、この際、この問題を考えてみた。と言っても、筆者としては、正解は1.しか考えられない。

消去法だが、

2.は「本来持っている以上の魅力」ということはあり得ない。

3.は逆に極めて一般的で平凡な「譜面通りに奏でられるようになった」だが、「譜面通りに」とはどういう意味か。譜面も行間を読むことがあり、そこまで含めて譜面に書いてある、と考えると少々「具象化した感覚」に近付くが、一般的に「譜面通り」は「機械的に音符を音にする」作業を指すので、これも違う。

4.の「圧倒する迫力」、5.の「うねるような躍動感」、いずれも和声を具象化すると起きる実体ではない。

という次第で1.になる。

面倒なのは、この問題文の前に「音が音楽になろうとしていた」という記述があり、それだと3.4.5.も正解に近づく。問題文の「この二つ」が、ここを指しているのではないということと、「和声理論」が何か、把握していないと解けない問題とも考えられる。これは結構無理があるのではないか。

では「和声理論の権化」について考えてみよう。

これも「生意気な中学生の言いそうなこと」と書きはしたものの、本当にこんなことを言う中学生は、日本中に百人はいないだろう。

そもそも「和声理論」は、作曲のための理論として教育されることが大半で、演奏と結びつけて教えられることは極めて稀なのである。故斎藤秀雄先生は、それを結びつけていた教育をされていたが、その薫陶を受けた方々から和声の話が出てくることは少ない。本来、結びつけるために音楽大学はいずこも「和声」をカリキュラムに組み込んでいるのだが、作曲の先生が担当するケースがほとんどなので、当然作曲寄りの授業になる。

だから演奏の先生が和声に結びつけたレッスンをすべきなのかもしれない。ところが「ここは何の和音?」と訊いても答えられない学生の多いこと! 挙句の果てに泣きだした人もいた。

そうなると演奏側の先生としては「もっと和声の勉強をしてからいらっしゃい」と言いたくもなる。

演奏と和声を分業でやっている限り、この事態はいつまでも変わらないと思う。

これが実態なので、中学生の段階で「和声理論」が具現化したことに気づく、などということは通常は考えられない。

敢えて中学生らしいところを指摘するならば、こういう「知ったかぶり」をする子はいる、ということかな。それでも相当な「背伸び」発言と言える。

高校3年生で、この問題を解いた人達が、今回成人式を迎える。その間、2年、ずっと話題を提供し続けていた「楽隊のうさぎ」は大した存在だ。想像するに、大学に入っても「和声理論の権化」って何、と思い続けていた人が少なからずいて、内心「中学生でも知っているのに」と焦っていたのではなかろうか。

ご安心あれ。教育システムの問題で、そんなことはわからなくて当然なのが現在の日本だから。

でも、そのうち何とかしたい、と個人的には思っている。




2012年のはじめに

2012-01-04 20:17:02 | 日記・エッセイ・コラム

明けましておめでとうございます。

学問、芸術などは、ずっと突き詰めていくと、どうしてもスピリチュアルな話を避ける訳にはいかないようです。

例えば、ヴァイオリンを生まれて初めて弾く場合、スタートは全く同じかと言えば、そうではありません。生まれながら足の速い子供と遅い子供がいるのと同じで、楽器を構えた時から差はあります。

親が同じ能力を持っていれば、それは「遺伝」で片付く話です。

しかし、実際には、親は大してできないのに子供はできてしまう、ということも時々ある話です。これをスピリチュアルな視点で説明すると「前世で修業を積んでいたから」ということになるとか。

これが本当かどうか、証明する術を持っている訳ではありません。が、絶対この考え方の方が「救われ」ますよね。「今、一所懸命やっていることが、死んだらパーになる」より、「来世で高みに上れるから、まずは一所懸命やろう」の方が幸せになれませんか?

今年はいよいよそのような考え方が盛んになってくるような気がしています。

以下、筆者自身に向けての言葉です。

「苦あれば楽あり」とは昔から言われていることですが、例えば全知全能の神様は全く退屈な日々をおくっているのです。考えたことが瞬時に実現するので苦しいことはないけれど、大した喜びもありません。達成感も恋愛も何もなし。

そう考えると、障害に満ちあふれた人間の世界は何と楽しいのでしょう。

ちょっと皮肉が過ぎたかもしれませんが、今年は梅鶯林道も本格的に始動します。皆さま今年もよろしくお願いします。