司馬遼太郎
『ビジネスエリートの新論語』★★★★
20年ぶりの新刊!初の新書!
初めて司馬遼太郎の本名を知った。
福田定一
(司馬遼太郎)
そう『街道をゆく』で「司馬遷」が出てくると毎度引っかかってた。
ビンゴ
いつか行ってみたい「司馬遼太郎記念館」
次は『梟の城』と決めている。
残念ながら会社員をしているけど、
育った環境も現在の立ち位置的にも理解しがたい。
そうわたしの周りはみんな自由人
先々経営者にある素質がわたしにはあるか?
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サラリーマンへの英雄
人の一生は重荷を負ふて遠き道を行くが如し。急ぐべからず。不自由を常と思へば不足なし、心に望みおこらば困窮したる時を思ひ出すべし。
堪忍は無事長久の基。怒は敵と思へ。勝つ事ばかりを知つて負くる事を知らざれば、害その身に至る。
おのれを責めて人を責めるな。
及ばざるは、過ぎたるより優れし。
<徳永家康遺訓>
どうやらこれをみると、よきサラリーマンとは、家康型であるらしい。そのまま過不足なくこれは完ぺきなサラリーマン訓である。
戦国の三傑をみると、まず秀吉はサラリーマンにとってほとんど参考にすべき点がない。彼はいわば、身、貧より起こしての立志美談型なのだ。
信長が経た人生スタイルも、サラリーマンには有縁のものではない。いわば彼は社長の御曹司なのだ。大学を出るなり親の会社を継いで、奇略縦横、ついに十倍のスケールに仕上げるという鬼ッ子なのである。雇われ者の経験は、一時間もしたことがない。
となると、家康である。
いいジジイになるまで織田、豊臣という親会社に仕えて気苦労ばかりしてきている。下級サラリーマンの味こそ知らないが、それに似た体験をふんだんにもつ苦労人である。啼かぬホトトギスを啼くまで待とうといったほどの無理とケレンと冒険のきらいな仁である。しかも天下の制覇ののちは、武士を戦士から事務次官に本質転移させ三百年の太平を開いたいわばサラリーマンの生みの親みたいな人物だ。
このジジイのいうことなら、まずまず聴いてやるネウチはあろう。秀吉式にやるのもいいが、それはうまく閥に乗ればのことだ。しかも、その閥が末永く続けばのことだ。何しろノブナガというたった一人の急所をつかまえての出世ゲームだから、実に危険きわまりない綱渡りである。彼のようにうまく行くにはほとんど稀有なことで、途中オヤダマが失脚すればモロころがってしまう。
まずはサラリーマンの英雄なら、家康あたりを奉っとくほうがご利益はあろう。
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顔に責任をもつ
四十歳を過ぎた人間は、自分の顔に責任をもたねばならぬ。
<リンカーン>
「顔は精神の門にして、その肖像なり」と、キケロもいっている。青少年時代の顔は、生れ出た素材そのままの顔だ。持主の責任はどこにもない。ところが老いるにしたがい、品性その他すべての精神内容が、その容ぼうに彫塑のノミを振るい出す。
教養、経験、修養、性格、
四十を越してその風ぼうに沈澱する。
ヴァレリーは、この恐るべき顔の再生を、こう表現している。
「人間は、他人の眼から最も入念に隠すべきものを、人々の目に曝して顧みない」
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女性とは悲しい生物だ。彼女らはセックスにコンパスの針を置いて回転した人生以外、いかなる人生も設計することができにくいように仕上げられている。
「あなた、幸福?」
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いかにも・・解放されたい。