★★たそがれジョージの些事彩彩★★

時の過ぎゆくままに忘れ去られていく日々の些事を、気の向くままに記しています。

ヘッドハンティング 1

2012年02月24日 20時45分13秒 | 小説「ヘッドハンティング」
 真田雄二は旧部署での業務の引継ぎを先週で終えて、新しい部署である総務部社史編纂室のドアを開けた。
 4月1日の人事異動の発表からちょうど一週間が経っていた。
 本社ビルの一階の社史編纂室には、正面の窓を背にして室長のデスクがあり、その前に向かい合わせに六台のデスクが並べられていた。
「おはようございます。真田です。今日からよろしくお願いします」
「ああ、こちらこそよろしく」
 真田の挨拶に、課長の本山が物静かに応じた。定年まであと一年の白髪で長身痩躯の学者タイプだ。

「真田係長、おはようございます」
 庶務の中原智子がお茶を運んできた。こちらは白痴美コギャル、20歳だ。
 定刻10分前にもかかわらず、デスクの主はその二人しかいなかった。室長のデスクには出張の札が載せられていた。

 定刻三分前にもうひとりの課長、寺島と、係長の須藤が出社してきた。ふたりは真田の挨拶に儀礼的に答えると、それぞれに新聞や書類に目を落とした。
 寺島は本山より四歳年下の50歳、須藤はそれより三歳若い。どういう経緯でこの社史編纂室へ流れ着いたかはわからないが、ふたりは、枯れた本山とは違った諦観を漂わせていた。


「真田君、時間あるかな?」
 3月中旬のある日、商品台紙のチェックに精を出していた真田に、言葉は遠慮がちながらも、どことなく断りがたい懇願の色を漂わせながら、商品部部長の木村が声をかけた。
「ちょっと、お茶でも飲みに行こう」
 振り向いた真田に弱々しい笑みを投げかけたあと、木村は先に立って5階の喫茶室への階段へ向かった。
 たっぷりコーヒー一杯分の、どうでもいいような世間話では、居心地の悪さが解消できないことを知ると、木村はしぶしぶという感じで本題を切り出した。

 異動の話だった。
 今の部でいかに真田が必要か、異動は決して自分の本意ではない、先方の部署からの懇請に負けた…真田は、木村の白々しい言い訳を、苦々しい気持ちで聞きながら、入社の経緯を思い出していた。


 くそ暑い夏の土曜の午後。
 クーラーもついていない営業車に、クルマの添加剤を積み込んで、ガソリンスタンドや修理工場回りをしていたあの頃…。
 信号待ちで止まった郊外の一本道。
 彼方に陽炎が揺れていた。
 額の汗が目に入った。
 突然、真田はいやになった。
 …何をやってるんだ、俺は。
 もう三年も同じことの繰り返しだ。
 くそ役にも立たない添加剤なんか売るのはもうやめだ。ガソリンやオイルやグリースの臭いはもうたくさんだ…。
 喧嘩の絶えなかった妻とは、一年前に別れていた。学生結婚してから三年半の短い結婚生活だった。
 直接の原因は真田の浮気だった。
 法外な慰謝料も認めざるを得なかった。

 真田はハンドルを切って、そばの喫茶店にクルマを乗り入れた。
 その喫茶店で何気なく見た新聞に、当時売り出し中の人気タレントを起用した、社員募集の全面広告が載っていた。その広告には魅力的な文句が踊っていた。

  《明日のトレンド カタログ通信販売
   企画、制作、開発、仕入担当者 中途採用緊急募集!
   完全週休二日制
   賞与年二回、各三ヵ月、特別報奨制度有り》

 幸運にも中途入社できたその社内は、前の会社とは較べものにならないくらいの活気にあふれていた。
 多くの若い社員、私服の女性社員、出入りのデザイナーやプランナー、ファッション雑誌のようなカタログ…。
 目にするすべてが新鮮だった。
 配属された仕入課で、真田はカタログに掲載する商品を決定して、取引先と仕入折衝をする業務を任された。

 自分が決定した商品がカタログに載る。
 原価交渉をし、商品の供給背景を押さえ、発注する。商品の売れ行きに一喜一憂する。無限の可能性を秘めた、カタログビジネスの未来が、自分の双肩に委ねられているという実感が、確かにあった。
 仕事が遊びみたいに楽しかった。
 そして何よりも、真田は若かった…。
コメント
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