第302話 振り子

2010年08月10日 07時17分14秒 | Weblog
近況2。
大阪西区の2幼児死体遺棄事件。
マンションの一室から「ママー」「ママー」と泣く声がする。
台所には、包丁などの調理器具や食器類が一切なく、冷蔵庫の中も空だった。
幼児2人は全裸で部屋の床に、寄り添うように倒れていた。
幼児は暑さのあまり、自分で服を脱いだ可能性もある。
浴室は長い間、使っていないとみられる。今年4月中旬以降、水道もほとんど使われていない。
食べ物と涼を求めて・・・空っぽの冷蔵庫の扉に子供たちが触ったような跡が残っていた。

どうして・・・
どんなに・・・と思うと、事件の経緯を追わずにはいられなかった。
空腹感や暑さ、暗闇の中でこの子たちは・・・あまりのダメージにしばし呆然となる。
何のために生まれてきたのか・・・
自分の中の答えにあきたらず、主人に問う。
「この事件をきっかけに今後、救える幼い命が確実に増えただろう」
この世に生を受けたことが、意味あることと思いたい。
それでもやはり、どうすれば・・・を考えずにはいられない。
せめて、これからどうすれば・・・にしかならないとしても。

1+1が2ではなく、1なのはやはりそれだけの訳があるのではないか。
(ここではあえて、5つ子ちゃんだったら1+1=5になるではないかという意見はなしにして)
1を生むのに、まずは2ありきで、
色々な事情があって、どちらか一方が欠けたとしても、協力者として祖父母をプラス、
なにも肉親だけではない。地域や社会としても数限りない人(保護者)の存在により、ようやく1が成り立つ。
どうして1だけで乗り越えようとしたのか・・・。

昔は大家族の中の子育て。子育てには、多くの目と手と育児の伝承があった。
何も昔はよかったという話ではない。
近くにある目と手が、手がなくとも祖母から母への伝承が叶わないのであれば、
つまり、悲しくも家庭教育に任せることのできない状況であるならば、
義務教育に組み込むしかないのではないか?
前にも書いたが、授業として「人間」を学ぶ場を。
よかれと思ってしたことをあっけなく拒否されたり、
時間をかけて作ったものをあっけなく無にされたり、
人が理性や我慢を覚えるまでには、いったん対極にあるわがままをとことん押し通さねばならないのかと思うほどのことをやってのける(笑)
それが、人間の成長にとって必要不可欠なものであること、単なる通過点であること、
そして、社会には一時保育施設や赤ちゃんポストなど救済施設があること。
記憶の片隅にでも残ればいい。
教育として学び、行き詰まった時、ふと思い出してくれればいい・・・程度の授業。
子供たちを閉じこめるのではなく、外に解放する選択肢があることを知っていたら・・・。

「自分の時間が欲しかった」「育児するのが嫌になった」という母の供述。
3歳と2歳近くの1歳児。自己主張の芽生えと第一反抗期が重なっているうえ、
自分で生計を立てなくてはならないプレッシャー。大変な毎日だったと思う。が、
これが育児放棄の一線を越える理由にはならないのは、
同じ境遇、同じ子の年齢差で放棄していない人の存在が明らかにしてくれるだろう。
未熟な第一反抗期。子供らにとって、問題は我を通すことではない。(専門家ではない私見)
それでも受け入れられる存在であるか、愛されているのかを確かめる愚行。(だと私は勝手に思っている)
母は疲れ果てるほど、求められているのだと。
「お菓子しか与えていかった」としても、「ママー」「ママー」と叫び、助けを求めていた。
子供にとっては、母は唯一無二の存在。
2人のお子様から無条件に愛されていたのに・・・。
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