歩く・見る・食べる・そして少し考える・・・

近所を歩く、遠くの町を歩く、見たこと食べたこと、感じたことを思いつくままに・・・。おじさんのひとりごと

水海道“化けるサンプル”と“駅前旅館”

2008年02月15日 | 水海道の風景
昨日の続きです。

くねくねと“蛇行”した「絵画の道」を歩き駅に向かって歩きます。


この緩やかなカーブは、何もない草原を人間が無意識に歩く事で造られた、自然の道なのでしょうか?

真っ直ぐに歩くよりも、緩やかな曲線を描いて歩くことの方が、より自然で歩き易い気がします。自然界に直線はありません。

田舎の食堂的“面影”を残す、なかなかいい佇まいです。


こちらの「食品サンプル」も、自然界の法則に任せ、かなりの変化を遂げています。

ビフテキ?カツレツ?天丼?親子丼?カツ丼?チャーシュー麺?ラーメン?何だか判らない麺?

この様に長い年月を経て、埃にまみれ、色褪せ、「化石」に近づきつつある食品サンプルは昔はよく見かけたものです。

このまま後、数十年?時の流れに身を任せていれば、いつかきっと「民俗資料館」の貴重な展示品として、後世に伝えられる筈です?

オムライス?餃子?チャーハン?何だか判らない?月見そば?天ぷらそば?

それに引き替え、こちらの旅館は手入れが行き届き、小綺麗で、こぢんまりで、とても気持ちいいです。

きっと部屋には塵一つ無く、床の間には女将の手で季節の花が飾られていたり・・・・・・。そんな想像をかき立てる、趣のある素敵な駅前旅館です。


代々頑固一徹を貫いている、ご主人と女将が居たりして、こんな旅館に一度は泊まってみたいものです。


そろそろ、駅前に到着します。


この続きは来週の月曜日に。


それでは、また来週。



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水海道 ガンバレ“街角のビーナス” 

2008年02月14日 | 水海道の風景
昨日の続きです。

銀行建築を過ぎたところで、「道端」や商店の軒先に、絵が飾られているのです。絵と云っても名画の類ではなく、その辺の人が描いたそれなりの絵です。


有りました! ここは“絵画の道”だったのです。これは、よくある「あの」、「町の活性化」と云う企てなのでしょう。


昨日触れた、「水海道商人博物館」もそうですが、最近は日本全国、津々浦々で「活性化」が叫ばれています。

活性化を辞書で引くと、「沈滞していた機能が活発に働くようにする」と、有ります。この水海道の町も、沈み滞っているので、何とかしょうとしているのです。

確かに、水海道の中心部の商店街は人通りも少なく、静かで寂しさが漂っています。「中心商店街の活性化」にガンバッテいるようです。

小さな「個人商店」が昔の様に商売するのは難しい時代です。人口は減少し、高齢化し、郊外型の大規模ショッピングモールに客足は向きます。

大駐車場が有り、明るく綺麗で、新しいくて豊富な商品揃え、個人商店はまったくその逆を行っているのですから、勝ち目はほとんど有りません。

まぁ。そんなこんなのご時世に、ささやかな闘いを挑む企画が“絵画の道”なのでしょう。

農機具屋さんの軒先に立てかけられた「絵」。

頑張っている気持ちは「痛い」ほど判るのですが、この風景からは「寒々しさ」とか、「侘びしさ」とか、そんな思いが浮かんでしまうのです。

宝町大通りを左に折れ、駅に向かう道に入ります。この道が「絵画の道」で駅から続く商店街なのです。銀色に輝く「火の見櫓」、懐かしい風景です。


店仕舞いした商店に飾られた“朱い鳥居と寿老人” 兎も角、枯れ木も山の賑わい「シャッター通り」対策と思われます。


仮面建築の石版印刷所です。「石版」を使った印刷? 凸版とか、平版とか、グラビアとかは聞いた事があります。

石の版を使うとなると、相当に古い方式なのでしょうか? 人類が金属を造りだす以前の印刷方式? それは有りません!


みゆきサ~ン! 居ましたよここに! 


あなたが探していた“街角のビーナス”が水海道の絵画の道に居ました。

“恵比寿様”と“朱い鳥居”を背景に間違いなく“ビーナス”です。

この空き地にも、寒い絵が飾られていました。


街角に「絵画」を飾る、ビーナス像を飾る・・・・・・、活性化・・・・・・、気持ちは判ります、アイディアも判ります。

でも、しかしです、現実に「絵」が飾られた町の風景は、発案者も企画段階で思い描いた風景と、かなりの「隔たりが生じてしまった」と、思っている様な? そんな気がします。

この空き地に、その全てが凝縮しているようです。でも、しかし、見方を変えればこれは、これで「面白い」と思いました。

この「寒さ」を突き抜け、みんなが、みんなやりたい事を勝手にやってみる。

『芸術は爆発だ!』と、彼の天才芸術家「岡本太郎さん」も叫んでいます。

「方向性」とか、「まとまり」とか、「コンセプト」とか、そんなの関係ねぇ!でやってみたらどうか? と思ったりして・・・・・・。 

それにしても、“街角のビーナス”は笑えました。

ガンバレ水海道! ガンバレ絵画の道!


それでは、また明日。


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“水海道商人博物館”と“銀行建築”は何処へ?

2008年02月13日 | 建物の話し
昨日の続きです。

諏訪神社の前を通る「宝町大通り」を歩き駅前に向かいます。

これが、「宝町大通り」ですから・・・・・・。


「宝」と「大」の字が寂しそうです。


寂しく、そして寒い「大通り」を歩いていると、銀行らしき建物が見えてきました。


何処から見ても「銀行」だった建物です。庇の下に、金属製看板文字の取り付け跡が残り、“東 陽 銀 行”と読みとれます。


傍らに「高札」が立ち、「銀行建築」とあります。


1923年(大正12年)建築と記されていますから、今から84年前の建物です。



大理石造りとありますが、一見「煉瓦造り風」であり、ただ「素焼きの赤煉瓦」とは異なる「色」と「質感」があります。

たぶんこれは、「煉瓦風」の「タイル」を張ったのでしょう。この「煉瓦風タイル張り」何処かで見たような気がするのですが思い出せません。


この「庇」を支える「金具」が赤錆びていて、なかなか「時代」があり「わび・さび」があります。


正面の「太い角柱」が、銀行への揺るぎない「信頼感」を演出します。


ところが、この銀行、大正、昭和、平成と、時代の波をかぶり、かなり「揺らいで」ここに辿り着いたのです。

   1923年(大正12年)報徳銀行の水海道支店として設立

   1924年 合併で東明銀行

   1929年(昭和4年)昭和恐慌で破産。町営へ

   1935年 茨城農工銀行に吸収

   19??年 日本勧業銀行に吸収

   1951年 下妻無尽

   1952年 下妻無尽が東陽相互銀行へ

   1988年(平成元年)つくば銀行に吸収

   2003年 合併で関東つくば銀行

   2004年 移転 

昭和恐慌、第二次大戦、敗戦、高度成長、バブル崩壊、平成の金融危機、80有余年、いろいろと揺らいできました。看板を「8回」も塗り替えてきたのです。

やっとここにきて落ち着いたのです。空き家になって4年の月日が流れています。このまま、佇んでいるだけではもったいない気がします。

町の中心部に位置しているので、内部を開放して「街角歴史資料館」にでもと、思うのですが、いろいろと問題が“有りそう”なのです。

先ほどの「銀行建築」と書かれた「高札」の上に“水海道商人博物館”とあります。


それで、この何やら企ての匂いのする「商人博物館」をネットで検索すると、「常陽新聞」に計画段階を報じた記事を発見しました。

『2003年6月14日
 現在、市内に残る蔵や屋敷跡を使用し、同市の商業の歴史を紹介する「商人博物館」運営事業、チャレンジショップ推進事業など二十六案が計画されている』

現在の活動状況を伝える記事、運営事業のサイトも有りません。2003年に計画され、その後、何年かは実行に移され、そして5年後の現在“水海道商人博物館”の運営事業は消えてしまったように思われます。

その他にも、「千姫の町」として売り出す計画も、それなりに実行されたのですが、それも「この3月」で消えようとしていたのです。

消えて行く話はこれから触れて行く予定ですが、当日、歩いた順路に従い書いていこうと思います。

“日本初の絵画の道”とか、“21世紀の夢見台”とか、“千姫なごみ館”とか、その他に、神社仏閣の話も取り揃えました。

これから、まだまだ水海道は面白いのです。


それでは、また明日。


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水海道諏訪神社の戦闘的 “狛犬と忠魂碑”

2008年02月12日 | お寺・神社
昨日の続きです。

市庁舎の前の路地を抜け、駅を目指して歩いたのですが、この日はホントに寒く、人通りの少ない路地の日陰には、砂埃にまみれた雪が残っていました。

狭くて陽の射さない路地は、余計に寒さを感じます。広い通りに出ます、先の方に大木が見えてきました。

大木は交差点の処にある神社の境内に聳えていました。


周囲には何も無く、真っ直ぐに伸びても良さそうな環境ですが、何故か傾いています。小さい時に何かあったのでしょう。


神社の境内に立ち、〆縄が飾られているので御神木のようです。


根元に「案内板」が立てられているので、何か謂われでも書かれているかと思ったのですが、全く「宗教色」抜きで、植物としての説明だけでした。

樹齢は不明のようで触れられていません、幹の太さから見て「数百年」は経っている筈です。

鳥居から本殿に向かう参道の石畳ですが、根元の部分だけ不自然に「欠け」ています。石を敷いた後で幹が生長し、剥がしたように見えます。


この神社は「諏訪神社」、ここの町名は「諏訪町」、横の通りは「諏訪通り」です。

神社の「案内板」を見ると、創建の記録は無く、むかしは神木と小さな社があっただけだったようです。神木の樹齢と創建はたぶん同時期かも知れません。


かなり年代が経っている様に見えます。創建当時からの狛犬なのでしょう。


戦闘態勢に入っています。



ケヤキの大木を背にして立つ“忠魂碑”かなり存在感があります。忠魂碑が主役でケヤキは単なる背景に見えてしまいます。

忠魂碑は明治新政府の誕生以降、日清戦争、日露戦争での戦死者の「供養」のために「自治体が建立」した慰霊碑だそうです。

自治体が費用を負担していたとは知りませんでした。第二次大戦後は、占領軍が軍国主義の象徴として、各地の忠魂碑を撤去したそうです。

     

この碑は何処かに隠され、講和条約締結後この地に復活したのでしょうか。砲弾を模したデザインに刻まれた「忠魂」、かなり戦闘的です。

「忠義を尽して死んだ人」の「供養」と云うよりも、「顕彰・・・功績などを世間に知らせ、表彰すること」のイメージでデザインされています。

日清か日露かは確認するのを忘れました。この時は10時前で明け方の寒さが残っており、歩いていると手が冷たくなり、寒さに気を取られていたのです。

静かな田舎町の商店街、懐かしい風景が見えてきました。


水海道の町、これからです。


それでは、また明日。





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“水海道は常総市”50年ぶりです!

2008年02月11日 | 水海道の風景
つくば市の隣町“水海道”に行って来ました。

本当は東京を歩きたいと思っているのです、しかし、電車に乗り人混みの中を歩くと、インフルエンザに感染する恐れが有る為、人混みの無い近くの町、水海道を歩くことにしたのです。

水海道はそれなりに想い出のある町です。母の田舎は現在の岩井市で、水海道の隣になります。

むかし、むかし、小学校にあがる前の幼かった頃、田舎に行くには上野から常磐線に乗り「取手」で降り、「関東鉄道常総線」に乗り換え「水海道」で降り、そこからバスと云う経路で行ったものです。

当時、取手から乗る「常総線」はディーゼル機関車で、“電車”なのに、「ブルン・ブルン」とエンジン音がする、不思議な「トラック電車」だと思っていました。

寂しい田舎の駅だった記憶があります。ここ数年で2、3回、町の外れを通過する事はあったのですが、駅前、町中を見るのは50年ぶりです。

50年前の記憶は駅前だけですから、町中を歩くのは生まれて初めてになります。

50年と云うと“半世紀”凄い事です! 最近、水海道市は石下町と合併して常総市になっています。

出掛けたのは8日の木曜日。市役所の駐車場に車を入れて、町を歩く事にしていたのですが、市内に入って市役所に辿り着くのに少し手間取りました。

294号線を右折して354号線に入り、常総線の踏切を越えて直ぐに左折して町中に入ったのですが、市庁舎らしい建物が右手に見えるのですが、そこに辿り着く道が直ぐに見つかりませんでした。

だいたいの位置は確認できたので、ひとまず車で町中を一周する事にしました。これが駅前広場です。昔は広場は無かったと思います。


町の外周を廻って354号線に出て、今度は先ほど逆方向から市役所に向かいました。


今度は、一発で市役所に到着しました。


駐車場に空きがあり一安心。先ずは市役所で市内観光の「パンフレット」でもないかと覗いてみました。

正面の入り口から入って、ひとまずトイレに向かい用足しを済ませませ、一息ついて、ロビーに置かれたラックを探したのですが見当たりませんでした。


職員に聞いてみようかと思い、辺りを見回したのですが、皆さん忙しそうでボンヤリしている人が見つかりません。

ここは諦め、駅前にでも行けばパンフは置いてあるだろうと、庁舎を後に駅前に向かいました。

庁舎の正門前の狭い路地、車は通れません。居酒屋が二軒、寿司屋が一軒、庁舎に出入りする人達が利用する店のようです。


さぁ。これから町を歩きます、何があるのか楽しみです。先ずは駅前に向かいます。

この続きは次回、たぶん面白いです。


それでは、また明日。

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“鉄塔 武蔵野線”と“麻生祐未”

2008年02月08日 | テレビの話し
むかし、むかし、小学生の頃です。

高圧線の鉄塔を不思議な思いで見つめていました。


何処から来て、何処に行くのだろう・・・・・・。


ずっと、ずっと、続いている先には、何があるんだろう・・・・・・・。


あの先に・・・・・・何が? そんな疑問を抱いた頃が、懐かしいく想い出されます。


久しぶりに、鉄塔を見つめてしまいました。


地平線の彼方に続く鉄塔は、遠い、遠いむかしに繋がっています。


思い出しました。鉄塔の先に何があるのか、それを確かめた小学生の夏休みを描いた映画「鉄塔 武蔵野線」です。

少年の冒険物語です、この映画を見た時に、冒険に出た小学生のお母さん役を演じたのが“麻生祐未”でした。

この時、初めて「麻生祐未」を知りました。不思議で魅力的なお母さんを演じていました。


それから「麻生祐未」が気になるようになりました。先日、NHKで放送された、新型インフルエンザを描いたドラマに医師の役で出演していました。この役も良かったです。

放送の前に、番組宣伝で「スタジオパークからこんにちわ」に出演していましたが、とても不思議な空気を創りだしていました。

今でも、麻生祐未には不思議な魅力を感じます。こういう“独自の世界”を漂わすのは彼女しか居ません。

どこか「ふつうではない」そんな怪しい、危ない、魅力があります。朝の連ドラ「ほんまもん」の“白鳥聖子”も、いい芝居をしていました。

この時、ドラマで結婚した相手と、実生活でも本当に結婚してしまったと聞いています。ここいら辺も危ない感じがします。

夜の連ドラ「愛と友情のブギウギ」の“水野葵”役も良かったです。



鉄塔の話が、麻生祐未の話になってしまいました。

最近の東京ガスのテレビCMもいいです。



“鉄塔”も不思議で魅力的です。


“麻生祐未”も不思議で魅力的です。


それでは、また明日。


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毒入り餃子“事件”は何だったの?五感を鍛えて自己防衛!時間を買って健康を売る?

2008年02月07日 | 世間話し

今日は雑談です。

餃子は好きです、月に2回は餃子を食べます。勿論、時間はタップリあるので手作りです、市販の冷凍餃子では有りません。

先日の「毒入り餃子事件」が発覚した時、前の晩は餃子でした。この「毒餃子」は「過失事故」ではなく、“犯罪”の可能性が相当に高いと巷で噂されています。



最初に発生したのが去年の12月28日で、この日は、「あの福田総理」が北京に居た時だとか。

販売元が、国が50%の株を保有する「ほぼ国営企業」の「JT」であること、経営陣には元高級官僚が並んでいる。

そのことから、事件発生日と、事件公表までの時間的なズレは、国営企業として「政治的」な配慮をしていたとか。

JTの品質関係者は、中国で農薬の「事件・事故」の多発は充分に認識していた筈で、単純に薬品分析を怠ったとは思えないことだとか。

公表2日前に「JT株」が急落したのは、組織的犯罪の匂いがすることだとか。

いゃ。これは発生から発表までの期間が長かった為に、どこからか情報が漏れて起きた二次的現象だとか。

この事件で日本人の「中国製食品」に対する不安感は確実に増大し、食品の不安感は、中国への嫌悪感に繋がる可能性があることだとか。

そこで、「日中関係の“進展を望まない勢力”が、総理の訪中時期を狙って起こした、組織的謀略事件である・・・」との噂が囁かれています。


それで、私の意見としては、その噂とは異なり、この「事件」の「直接的な動機」は、単純なものだと思うのです。

たぶん、製造会社の経営に不満を抱く工場関係者の仕業ではないかと思うのです。

この“国営食品会社”では、中高年の労働者が人件費の削減対策として、解雇されたそうです。その時期と毒餃子の製造時期が一致するそうです。

あの労働力が無尽蔵と思われていた中国も、いつまでも「超低賃金」で働く時代ではなくなったそうです。賃上げの動きが高まっているそうなのです。

それで、そうであれば、明らかに「首を切られた労働者」の中に、犯人が居る可能性が相当高くなります。

事故であれば、「品質管理面」での「発生原因・流出原因」の対策が立てられます。

「事件」であり、その「発生原因」に、中国のおかれている複雑な社会的背景があるとなれば、発生原因の対策にはかなり時間がかかる事になります。

そうなると、製造後の「流出原因」対策になりますが、日本側、中国側ともに「莫大な費用」がかかります。

何十万個、何百万個の中から、1個を見つけ出すのは大変なことです。

“一番安上がりな対策”は何と云っても、食べる人の五感を鍛えることです。今回の事件で、被害者が、“変な臭い”、“変な味”がしたと証言しています。

変な臭い、変な味がした餃子を食べた人は、かなり“変な人達”です。

「昔は」、と云っても、数十年ほど前の事ですが、食品に「消費期限」や「賞味期限」などいちいち記載されていませんでした。

食べる人が、鼻で臭いを嗅ぎ、舌で味見をして、食べても大丈夫か確認していたのです。

自分で調理する時間が無く、加工食品に頼らなければならない人達は、覚悟と訓練が必要です。

“大企業の商品”だからとか、“大手”スーパー、“生協”で売っていたからとか、“消費・賞味期限内”だからとか、そんな事は信じてはいけないのです。

自分が口に含んで「変!」と思ったら、直ぐに「吐き出し」ましょう。子供に食べさせる前に、親が先に確認しましょう。

異常を察知する能力を鍛える必要が有ります。たぶん、今回の餃子を犬や猫にあげても食べなかったと思います。

そのぐらいの「覚悟」で、加工食品は食べるべきです。

“時間を買って”大事な家族の“健康を売って”しまうのは「かなり変」です。

五歳の女の子は、意識が戻ったようなので安心しました。後遺症が残らない事を祈っています。

それでは、また明日。

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塩原温泉“素朴の宿”

2008年02月06日 | 旅の話し
昨日の続きです。

私に続いて、姉と母が貸し切り風呂に入りました。貸し切り風呂を「貸し切る」のは我々だけのようです。

母も姉も、風呂から上がって、肌スベスベの身体ポカポカで満足の様子。何たって「タダ貸し切り」なのです。

温泉につかった後は夕食です。部屋だしは年寄りには有り難いのです。夕食は、ふつうの「温泉宿メニュー」です。

ホントォ~に!特徴の無い、典型的温泉宿メニューです。料理を少しプラスして1万円で、これなのです。


プラス分なのが、たぶんこの「ダチョウ肉」の“しゃぶしゃぶ”だと思います。

それで、このダチョウが、兎に角「不味い!」のです。不味いと云うと「ダチョウ君」に申し訳ないので、「味がしない」と訂正します。

別の云い方で、好意的に表現すれば「癖がなく淡泊」と云えます。そもそも「しゃぶしゃぶ」とは、濃厚な材料を湯通して淡泊に味わう「老人料理」と私は解釈しております。

「淡泊」な材料を湯に通して、更に「淡泊」にして、

『えっ! いったいどうすんだ! 調理人はいったい何を考えているのか! 責任者を呼べ!』と、心の中で叫んだのであります。 

母も姉も「ダチョウ」と聞いただけで、全て私のお膳に「ダチョウの肉」は移動されました。

兎に角です、食べないと「元がとれない」との思いで、私一人で、一心不乱に食べ尽くしたのです。

ダチョウの肉はどんな味?と二人に聞かれたのですが、「うーん。“味”と云われても答えようの無い味」と、答えました。

兎に角、「それなり」に満足して食べ終わり、「食後のデザートはたぶん無いよねぇ」と話していると、メロンが運ばれて来ました。


母は食後、部屋にあった「パズル」に夢中です。家にもこれと同じ様な「ザ・ティー」があります。以前に鬼怒川のホテルで購入したものです。


温泉に泊まって夕食後にパズルは何となくねェ・・・・・・。

たいしてやる事も無く就寝です。最近は宿ではあまり眠れなくなりました。



翌朝は予報が見事的中して「雨」、初めてです、いつもは予報がハズレるのです。

昨日は、ロビーでも、廊下でも、風呂でも、人影は見当たらなかったのですが、駐車場を見ると宿泊客は他にも居たようです。


朝食はそれなりでした。左上隅の鍋は「豆乳の湯豆腐」です。これは結構いけました。表面にできた「湯葉」がなかなかです。

それと、鍋の隣の「野菜サラダ」ですが、野菜の切り方、盛り付けが「素人」ぽっくて、お婆ちゃんが一生懸命に作ったような「微笑ましさ・暖かさ」があって良かったです。

この宿は、フロントのお兄さん、仲居さん、布団を敷きにきたおじさん、そして、料理、共通項は「素人ぽっさ、素朴さ」です。

お婆ちゃんサラダと、豆乳湯豆腐、無料貸し切り露天風呂、まぁ、及第点でしょう。

朝食後は、雨の為に予定を変更して、妙雲寺をちょっと覗いて直帰しました。


途中、おみやげ屋さんに寄り、おみやげだけは「しっかり買って」帰りました。母の楽しみなのです。


「日光塩原紅葉ライン」をドライブする予定でしたが、雨の為に中止し何処にも寄らず、昼過の帰宅になりました。

兎に角、紅葉を見て、温泉につかって、美味しい料理を食べる目的は、それなりに・・・・・・叶えられました。

やっぱり、宿選びは余裕をもって「ゆっくり、じっくり」がイイのです。

またいつか、塩原には行ってみたいと思います。その時は、元湯に宿をとるつもりです。

今回の宿泊先は、“常磐ホテル”でした。塩原シリーズは今日で終わります。


それでは、また明日。


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塩原“一人で?”貸し切り?露天風呂は? 

2008年02月05日 | 旅の話し
昨日の続きです。

温泉街を一回りして、フロントで「貸し切り露天風呂」の予約をしました。1回30分の「無料貸し切り」です。

部屋に戻り着替えをして、先ずは屋内の風呂に入ります。館内の様子を探る為に、階段で1階にある風呂に向かいました。

我々の部屋は最上階です、途中の階は最上階に増して、照明も暗く、内装も草臥れていました。

薄暗く、誰も居ない宴会場は不気味な静けさです。しかし、ホントに人の気配がしない宿です。


室内の風呂の脱衣場、ここにも人の気配がありません。


誰も居ない風呂、蛇口は10ヶ所ほど。ここで身体を洗ってから露天風呂に入ります。


フロントで「使用中の木札」と鍵を受け取ります。露天風呂はフロント脇のドアの奥です。

鍵を開け、ドアノブに「木札」をぶら下げ中に入ります。最初に眼に入ったのは「簾」です。外部からの視線を遮断するのでしょう。

兎に角、「露天」で、「貸し切り」で、「無料」なのです。それなりの「我慢」が必要です。

「露天風呂」とは、先ずは開放感、そして、「それなりの眺望」が求められます。でも、ここは、「それなりの眺望」は望めません。


それなりの「開放感」のみとなります。何と云っても「無料で貸し切り」ですから、眺望は我慢します。


簾の前に立って外を眺めると、直ぐ下は駐車場、その先は、人も車もあまり行き交わないメインストリート、周囲は色褪せた建物に囲まれています。

最初は女性客からの要望で、簾が取り付けられたと思っていたのですが、外を眺めた後で湯につかりながらボンヤリ考えました。

暖簾は、周囲からの「視線」を遮断するのではなく、周囲の「景観」を遮断するためでは?・・・と、思い始めました。

それでも、それなりにイイ湯です。頭の上にタオルをのせ、静かに楽しむ露天風呂、やっぱり温泉は露天風呂に限ります。

しかし、貸し切りの露天風呂に一人で入るというのは、実に寂しいと云うか、バカバカしいと云うか・・・・・・。


さぁ! 風呂から上がり、夕食です。


それでは、また明日。




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塩原温泉“妙雲寺で夏目漱石”

2008年02月04日 | お寺・神社
金曜日の続きです。

それで、“一人旅の女性”が滝の姿をカメラに収めるのを、それとなく、それなりに、辺りを眺めつつ待っていたのです。

何となく、それとなく、それなりの「緊張感」を、勝手に楽しみながら待つ。まぁ、何と云うか、ふつうの中年女性何ですけどねぇ、そこは「旅先」ですので、それなりの「遊び心」と云ったところです。

それで、女性が立ち去り、次は私の番になりました。寺の境内の、そのまた本堂の裏にある小さな滝なのですが、紅葉と苔生す岩を背景に、深山幽谷の趣なのです。


小さいけれどれど、大自然の広がりを感じさせる風景です。妙雲寺“常楽滝”はなかなかの風景です。

灯籠越しに滝を狙ってみたのですが、滝が隠れてしまいちょっと失敗です。


滝の傍に、苔生したこんな案内板がありました。夏目漱石も今から82年前に、この滝を見物していたのです。


常楽滝を詠んだ漢詩です。漢詩を読むと「直立不動」になります。

※石に刻まれた「詩碑」を撮るのを忘れてしまいました。

『蕭条たる古刹 崔嵬に依る』
“ショウジョウたるコサツ サイカイにヨル”

明治の匂いがしてきます。堅いです、凛々しいです、疲れます。 


『直ちに銀蟒と為なりて 仏前に来たる』
“タダチにギンポウとナリテ ブツゼンにキタル”

漱石さんもこんな漢詩を詠んだのです、知りませんでした。

漱石も、やはり滝を観るとふつうに「大蛇」を連想するようです。山奥の渓谷、古い寺、ゴツゴツとした岩山・・・・・・、漱石さんも、私と「同じ?」感想を抱いたようです。

苔生した藁葺きの門、風景が漢詩に見えてきます。


山の中腹へ連なる杉の大木、これも漢詩です。


このお堂も漢詩。詩吟が流れて来るようです。


そこに、これです! 石灯籠を支える「鬼」です。

これは笑えました。この不自然な姿勢はかなり疲れます。これは「狂歌」の風景です。ホントにご苦労様です。

そろそろ暗くなり、予報どおり雨も落ちてきました、宿に戻る事にします。裏から入って表門から出ます。


宿までは1分ほどの距離でした。宿の裏がお寺だったのです。

順序が逆になってしまったのですが、宿に帰ってフロントで貰ったパンフレットです。


塩原は「門前温泉」だったのです。「鐘の音しみる文学の里」だったのです。まったく知りませんでした。

妙雲寺には、明治、大正、昭和、文人達の碑が沢山あるようです。

塩原温泉は“文学温泉”でした。

これから、温泉にゆっくりつかって、そして食事です。


それでは、また明日。


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