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“生物多様性”は儲かるか―生物多様性の経済性の怪

先日、ある研修会に参加していて“生物多様性をやると経済的メリットがある”との趣旨で、突然“講演”が始まった。当初、何となく違和感を持ちつつも、会場正面に映し出される資料を眺めながら論旨の適切性を考えていた。しかし、その“講演”が終わって、我慢しきれず とうとう次のように質問をしてしまった。“有史以来これまで、人類は「経済的メリットがある」という理由でさんざん自然破壊をして来た挙句に、今度は「生物多様性には経済的メリットがある」と言い立てるのは違和感があります。何だか、落とした財布を拾って拾ったメリットだけを見て、「儲かった!」と言っている印象ですが、どうでしょうか?”
すると、思いの外 講演者は壇上で立ち往生してしまい、会場には白けた雰囲気が漂ってしまった。様々な根拠を挙げて、私の疑問を 解消してくれるものと思いきや、講演者はそうした議論への準備をしていなかったようだった。

恐らく、ISO14001次回改訂で“気候変動(地球温暖化)”や“生物多様性”への取り組みが必須となることへの対応として講演となったのであろう。しかし、残念ながら、この人の議論の変なところが以下に示すように、随所に見られた。

先ず、生物多様性があれば気候変動も緩和できるというものがあった。なるほど、生物多様性が保持されていれば、植栽などが繁茂し激変する気象状況を一時的に緩和することは確かであろう。しかし、それはこれまでの自然環境を恒久的に持続するものではない。生物生存の前提となる自然環境、特に気温等が変わってしまえば いずれ適切な環境の場所へ移動するか、それができない植物は枯れることになる。それは“緩和”すると言えるものではあるまい。要するに、自然環境の因果関係を、大筋で把握しておらず、原因と結果を逆に捉えて理解している奇妙な議論だ。

さらに企業経営でのリスクとして、ユニオン・パシフィック鉄道がカリフォルニアで引き起こした山火事で、国有林2.1万ha焼失したことに対する損害賠償額1億200万ドルの請求を受けたことを例として挙げていたが、これが“生物多様性”とどのような関係があるのか。結果として、それを阻害したのは間違いないだろうが “生物多様性”を妨げたため出火したのなら問題だが、過失で出火したのなら仕方ない問題ではなかったか。そもそも健全な山林であれば、多少の出火でも自然鎮火するものだが、たまたま異常乾燥状況下で、山火事が大きく拡大したものであろう。恐らく、裁判では“過失”の原因となった管理責任が厳しく問われるというマネジメントの不備が問題となったはずであって、“生物多様性”の課題として議論されるにはふさわしくないのではないか。

“生物多様性を促進するためのビジネス機会”として、“鉄鋼スラグを用いた海域環境修復”を例示していたが、鉄鋼スラグの活用以前に、鉱石採掘に大規模な自然破壊をしていないか、省エネで鉄鋼生産をしているとは言え、膨大なエネルギーを費消(それこそCO2排出も膨大)して、1600℃以上で鉄を溶かした挙句の副産物を、海域保全に使うことで大きく生物多様性を保全することに寄与していると言えるのだろうか。少し考えれば、自然界から鉄を取り出すことそのものの“罪深さ”の方が大きいのは自明であり、“何もしないより少しまし”のレベルではないか。

そうして、ついには生態系サービスの経済的価値を計算したという、米メリーランド大学のロバート・コンスタンザ博士の議論(1997)を紹介していた。その計算結果として、“1年間1ヘクタール当たりの経済価値が最も高いのは河口域の生態系である。(22,832ドル)藻場などは、19,004ドル”であると紹介していた。
だから、自然を保護し、生物多様性を生かすことは経済的メリットが大きいのだ、という主張のようだった。

しかしながら、ではこれからどうするべきだと言いたいのだろうか。
少々、冷静になって考えてみて欲しい。日本と言わず世界において、大都市と言えば 全てとは言わず大抵は河口域に建設されている。また都市は河川流域に“自然を破壊”して建設され、そこに文明は育まれている。その河口域の自然の経済的価値が高いから、都市を自然に戻す事業がビジネスとして成立するとでも言いたいのであろうか。この講演者の議論は、常に逆立ちしていて、得られるメリットを針小棒大に評価している。
昔は、人々は自然を単に放置していても何のメリットもないと考え、自分たちにとって都合の良いように改変して自然を利用したものだった。そのメリットに多くの人が魅かれて集約して来たのが都市である。そう考えが至ったところで、冒頭の質問となったのである。ただし、現代文明は少々行き過ぎの観はあり、そうした自然のメリットとは関係のないところで存在してしまっている。だから、その行き過ぎを少々修正する必要はあるのかも知れない。そこに どのようなビジネスがあり得るのか、そういう議論があっても良かったはずだが、講演者の絶句によって終わってしまった。
しかし、河口域の自然を生かすビジネスと言えば、実際にはせいぜいで行政の先進的な取組に しばしば見られるようなものではないか。それに、持続可能なビジネスの可能性は あまり期待できそうなものは少ないのではないか。

現代文明は、素朴な自然の恵みとはかけ離れたところに建設されているように見える。そして、膨大なエネルギーを費消しているのも事実だ。これを一方的に良くないことと片づけるのは勝手だが、そこには肉体的な或いは社会的な弱者をそれなりに庇護している部分があることも事実だ。なので、有無を言わさず現代文明を損ねることに熱心になることは、弱者を害することにつながることを考慮しなければならない。そういう弱者に目を向けないのは、人類の歴史を否定する不遜な所業である。

そもそもこういう環境論をベースにした話には、怪しい議論が多い。なので、私はそうした話にはいつも注意することにしている。ここでの議論にあったように、関係のない話をさもありそうにしたり、論理の筋道を逆にして話したり、小さな効果を大きく見せたり等々、いわば詐欺的手法が使われることが多いように思う。何故そうなるのか、未だに良く分からない。恐らく 話し手は何らかの利益誘導を期待していることが多いのだろう。特に、今や“環境”は向かうところ敵なしの“錦の御旗”だからである。それに、あのナチスも“環境”は重視していたことに留意したい。
私はIPCCによる“地球温暖化CO2主因説”にも、同種の臭いを感じている。それは、その論理構成が偏っているからである。エネルギー管理の専門家なら誰でも知っていることだが、地球の温度が上昇するかどうかを分析する場合には、エネルギーのインプットとアウトプットの双方を比較衡量するのが普通だが、IPCCはCO2の温暖化効果つまり、エネルギーのアウトプット側の変調だけを強調していることに異様さを感じているのだ。しかも、地球が温暖化した場合、海水から蒸発する水分が増大し、地球表面に雲は増える。そうなると、太陽からの熱は白い雲の表面に反射され、逆に地球寒は冷化するはずだが、IPCCの文書には その効果はあえて考慮しないとしているのを読んで以来、さらに疑念が増した。都合の悪い、評価困難な議論を覆い隠そうとするのは科学者の態度としては客観性を欠くからだ。その上、むしろ最近“反温暖化”派の丸山茂徳東工大教授は、宇宙線による雲量増大を懸念していて、寒冷化が始まっているとしている。

それから、もう一つ注意しなければならないのは、“経済効果”だ。その結果が 数字で表されるため、いかにも客観的であるかのように装われがちである。これも その根拠となるデータの適切性やメリットの算出のプロセスをきちんと評価するべきだし、比較する相手の数字にも同じような評価がなされなければならない。比較の相手であるデメリット部分の数字が示されないのは、まさしく詐欺であると言って良いのではないか。まさしく“拾った財布”のメリットだけを言い立てるのは、聞き手を騙そうとしている行為としか思えない。
大阪の都構想の経済的メリットにも、こうした怪しい部分はないのだろうか。

さて、もう一つ重要な疑問がある。種の適者生存という自然原則に、“生物多様性”を守るという人為介入が どこまで許容されるべきものなのだろうか。それ以前に人為が、自然を破壊していることが大きな問題なのだが・・・この地球上に その規模をはるかに上回って、あまりにも人間の存在が大きすぎるのだ。

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