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大和文華館

私には、数か月ごとに昼食を共にして世間情勢を語り合おうと約束した人がいる。先日、その人の都合で近鉄学園前で会うことになった。
実は学園前は、私の亡父の妹一家が ずいぶん以前に大阪市内から引っ越してきて以来、数年おきに訪ねて来ていたが、このところは疎遠になって久しく来ていなかった。だが、その叔母も昨年亡くなり、年賀状の欠礼状が来てようやくその事実を知って、昨年末遅ればせながら従兄宅に悔み挨拶に来たばかりだった。それにしても、私の知っている駅とはずいぶん様変わりで、北には改札は無かったのだが、その駅北側での待合せ、会合となった。
それほど珍しい飲食店が有るわけではないので、適当な店で2時間ばかりの会話を楽しんだ。やはりアベノミクスで好況と言うほど一筋縄ではないようだ。

さて、会合を終えて このまま帰るのはもったいない。さりとて、先日訪れた従兄宅に急に行くのもはばかられる。そこでその亡くなった叔母が“近所に大和文華館もあるから、それでも見るついでに遊びに来て・・・。”と言っていたのを思い出した。これまでいずれ行くこともあろうかと思いつつも、ついに訪れることがなかったので、こういうことでもなければ、最後まで来ることは無いかも知れないとの思いに駆られて行くことにした。

駅の南側に出ると、帝塚山学園のキャンパスが左手に見える。以前は、その大きな円形校舎が目を引いたものだったが、今はもうない。この学園の存在が駅名の由来のようで、この“帝塚山”は大阪のとは関係がないらしい。
一旦、駅東を南北に走る交通量の多い道路を南下し、次に南東に斜めに分かれる道路へ入り進み、さらに真っ直ぐ東進する道路を行く。ここは住宅街で、交通量は少ない。そこから南北に走る道路に出ると、行き止まりだが、この道をわずかに北へ戻ると、大和文華館の入口正門に出る。正面に文化館の立派な建物が見えるのが常識と思うが、鬱蒼と茂った小高い森林しか見えない。その右手には、“大和文華館”のちゃんとした看板もあるが、地味で全く目立たないので、その役を果たしているとは思えないほどだ。やたらに広い駐車場を贅沢に設けているが、車は全く留まっていない。その向こうには、池がある。

はるか昔、この池の周囲に従兄に連れられて来たことがあったが、ほとんど山林や草地のため、その池は森の中にあったように記憶している。しかし今や民家が、軒を接して密集隣接。少々景観を害しているとも言えなくもないほどで、文華館のところだけが、景観を保っている印象だ。この文華館は、近鉄が沿線の文化を残すために 戦後採算を度外視して建設したものということもあり、少なくともここだけは、の意識で維持しているような雰囲気がある。
このように開発された住宅街も、人口減少で次第に空洞化して行く懸念はないのだろうか。空き家が増え、それが荒れ果てれば、今どうにか維持されている最低限の景観はどのようになるのであろうか。前回も指摘したが、地盤沈下傾向のはなはだしい大阪のベッド・タウンとあっては、その懸念は残念ながら大きく、それが現実化した場合、行政も手の施しようがないのではないか。

駐車場を介して、はるか向こうの受付に行って入場料と言うか、観覧料を払い、中に入る。林の中に堂々たる建物群があるのかと思いきや、そこは小高い山で どうやらその山の上に在るようだ。舗装されたゆるやかなカーブを描く坂道を1分程度登って、ようやく背の低い建物が見える。いわゆる土蔵の“なまこ壁”(平瓦に白目地を半円のナマコ状に盛上げた壁)を模した外壁である。
玄関から中に入ると、右手に土産物販売コーナーがあった。展示物のレプリカやカタログ、デザイン・ティーシャツが売られていた。その奥の陳列室は、建物の割に意外と狭くまた1ヶ所しかない。外観の土蔵を模した造りから、収集した遺物を収蔵・保管することに重点を置いたせいではないだろうか。



企画展示は、“煌めきの美―東洋の金属工芸―”であった。“仏像、仏具、装飾品、食器など・・・。古来より様々なものが金属の特性を活かして作られました。特に金や銀の輝きは視覚的に美しく、富や権力の象徴として求められ、魅力的で美しい作品が作られています。金属工芸を通して東洋の美意識を感じる展示を行います。”とあり、“白鶴美術館から唐時代銀器の白眉を、和泉市久保惣記念美術館から宋時代の愛らしい壺などを拝借し、大和文華館が所蔵する銀製鍍金宝相華文大鋺とともに、鍍金を施す豪華絢爛な唐時代から実用性が増す宋時代にかけての銀器の流れを特集展示”とのことで86点展示のようだったが、残念ながら目玉になるような展示物がなく、いささかテーマの焦点ボケではなかったか。冬場のせいか来館者もほとんどなく、来ても さぁーっと見て去って行く。お蔭で ゆっくり鑑賞することが出来たが、今や印象に残っているものはない。中には、古代の中国出土品もいくつかあったが、どのようにして獲得したのであろうか、いささか気になる。また、いつかこの館の自慢の品が陳列される時には来てみたい。

一旦、外に出て周囲を散策。池の景観は、展示室バルコニーから見た植込みの合間から見えるのが、民家の建込みが隠されて一番良く、外に出てみて矢張りがっかり。掲示板に池と景観の説明があり、それによると “菅原池(通称:蛙股池)は『日本書紀』に登場し、日本最古のダムとも言われています。平城京や高円山、春日山を眺めながら古都の歴史に思いをはせてみてください。”とあった。この池は日本最古の人工池であり、民家の向こうに見える山は奈良市街の東にある若草山であることが分かった。
周囲一周から戻ったが、玄関前の白砂に箒目というか砂紋が立てられていて見栄えはするのだが、通りへ出るには その箒目を踏み越えて行くという無粋なことをしなければ出られない。このようなことにならないように、飛び石を置けば済む問題なのだが、ハード面でそういう細かい気配りができないところが、阪急と違い近鉄らしいところではないだろうか。折角のシブい文化施設も これで少し興ざめの印象となる。

冬の木立の合間を縫って、元来たアプローチを下り駐車場に出る。右手に、何だか 昔の小学校の講堂のような木造建造物があった。そばにあった掲示板によると“文華ホール”とあり、“この建物は奈良ホテルの一部、旧ラウンジです。国造の和洋折衷様式による明治期の名建築です。わが国の近代建築の先駆者である辰野金吾(1854~1919)の設計によって明治24年に建設され、大和文華館25周年記念事業の一つとして当地に移築されました。”とあるが、少なくとも外観は名建築にしてはデザインに秀逸性は感じられない。だから、大抵の人は見過ごしてしまうのではないか。せめて、時々は内部公開されれば その“名建築性”が納得できるのかも知れない。
この“文華ホール”の奥には、大和文華館研究所があるようだ。

篤志家や大資本による儲けを度外視した美術館や博物館は、日本には貴重な存在だ。大和文華館も長く続いて欲しいものだ。またこの学園前付近には、他にも美術館があるので、機会があれば 従兄に会って昔話を楽しむついでに、いろいろ訪れるのも良いかもしれない。

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