goo

笠原 嘉・著“退却神経症―無気力・無関心・無快楽の克服”を読んで

ウクライナ・キーウ近郊から露軍の撤退した跡から、露軍の残虐行為が明らかになりつつある。露軍は略奪・窃盗も働いていたと聞いたので当初は近代国家の軍隊ではなく、古代・中世的非合法な近代的武装集団=近代山賊かと思っていたが、それがどうやら露軍の組織的活動の結果だということも明らかになって来た。ウクライナに侵入した部隊は当初は、正規軍の若い徴集兵主体の部隊だったのが2週間ほどたった頃、横暴な40代と思われる軍人たちが現れ、街を恐怖に陥れ始めたという報道がある。否一方、部隊によっては当初からそういう横暴なのもあった、という証言の報道もある。
その兵士たちは良い装備を持ち、ロシアの標準的な軍服とは異なる黒と濃い緑色の服を着ていた。ロシア兵の中には「良い人」もいたが、特にロシア連邦保安局(FSB)の職員は“非常に荒っぽかった”という。
これは、ある時から侵入主体がFSBや場合によってはエリート傭兵組織“ワグネル・グループ”に組織的に変更されたのではないかとの、見方が広がっているようだ。つまり、残虐行為は組織的活動だと推測されるのだ。ならば、プーチン政権の意向が強く反映された結果であるということになる。


このように、残虐行為実態が具体的に明らかになることで、いくらロシア当局がフェイクだと強弁したところで、虚しいこととなり、そういう言い訳そのものが、ウソであり、一層の恨みを買うことが明白になってきている。

つまり、ウクライナでの残虐行為が前線での突発的出来事で起きたのではなくて、明らかに“計画的犯行”でありプーチン政権による、組織的行為だったということが明らかになって来たのだ。ということは、その残虐行為は明らかに“人道に反する罪”ということになり、プーチンは国際犯罪人として追及を受けることとなる。どうやら国際犯罪人として、国際的監視下に入ることとなり、迂闊に外遊できなくなるとのこと。ロシア国内でも政権が替われば、犯罪者として裁かれる可能性が出て来ているとなる。“プーチン北朝鮮に亡命”という報道も、あながち荒唐無稽ではないこととなる。

国外逃亡しても対外資産は凍結状態なのでなので、当事国の庇護を受けなければ自立した生活は到底望めない。プーチンは個人的にも、後には引けない大変な危機に陥ったこととなる。変な幻想を抱いた、自業自得と言えば、そうなのだが・・・。ことは、そう上手く推移するのだろうか。

中国のゼロ・コロナ政策が行き詰まりつつあるようだ。上海のロックダウンが一般民衆への相当な欲求不満を生じはじめているようだ。大変なのは、閉じ込められて10日も継続し、食糧が尽き始めているとのことのようだ。
逆に、日本では暢気な対応でマスコミも騒がなくなってしまっていて、大丈夫かとの疑念が湧く。実効再生産数は全国で1.01と一向に1.0からはるかに下回ろうとはしない。3月下旬に0.92で底を打って上昇して来ている。だが、日々の重症者数や死亡者数は漸減の傾向にある、悪い方向には向いてはいない。どうしてこのような傾向になっているかのデータの公式の合理的解説は全く聞こえてこない。だから安心できないが、マスコミが騒がないのでまるで安心しきっている印象だ。“お勉強しない”マスコミにこんなに左右される社会は健全なのだろうか。日本の公的感染症研究機関は果たして世界レベルの研究・分析をしているのだろか。

閑話休題。ここへ来て、専制主義国家の困難が目立つように思うが、こういう出来事が、価値観というか思考のパラダイムのビッグ・チェンジの契機となり、いよいよこの1,2年で世界が大きく変わるだろうと思われる。もっと民主化の徹底やSDGsの推進が叫ばれるようになるのか、やはり専制主義の方へ傾こうとするのかの転換点の正念場のような気がする。


このような“地政学的リスク”にあって、かつては“有事の円高”であったのが逆に円安になっているので、経済ニュースでは話題になっている。
これは解釈するには、結構難しい問題だが、日本経済が一方的に弱体化していることが背景にあるのではないかとの懸念が語られているのだが、果たしてそうだろうかと、思ってしまうへそ曲がりな私がいる。かつて“有事の円高”だったのは、海外投資資金の儲けを“有事”によって、円転する動きが効いていたとされるが、近年は日本本社と現法との財務デカップリングが進んで、円転しなくなった要素が大きいのではないかと疑っているからだ。日本の大手企業がチョットした海外動向で慌てて円転しないのは、それは経営の“進化”、つまり良いことだと考えるがどうだろうか。
そういった細部の企業動向の解説がないので、判断のしようがないのが残念な次第だ。とにかく、日本のマスコミが“お勉強”していないのは当たり前だが、経済学者等にも専門家らしい専門家が不在なのは問題だと考えている。特に経済学では金融のプロ、エコノミスト、ファンドマネージャーは曲りなりに存在はするが、ノーベル賞級の経済学者は全くいないようだ。文系も理系も日本の研究者はしっかりして欲しいものだ。国立系の大学が、予算を削られて不振なのが原因であろうか。このままでは、日本の将来が不安なのは間違いないのではないか。


さて、今週は笠原 嘉(よしみ)・著“退却神経症―無気力・無関心・無快楽の克服” (講談社現代新書)の紹介をしたい。2月末に鑪 幹八郎・著“アイデンティティの心理学”を紹介したが、そこでこの本が紹介されていたのだ。その際、“身近の若者が妙に気になっている”と書いたが、その若者が、“退却神経症”に該当するのではないかと思われるので読んでみた次第だ。
それは、この本“アイデンティティの心理学”の中で、“スチューデント・アパシー(学生無気力症候群)”と呼ばれる症例に該当するように思ったからだ。このアパシー(Apathy)という言葉の“語源はギリシャ語にあり、一般的には「感情や興味の欠如」と定義される。スチューデント・アパシーと は学生でありながら、本業であるはずの学業等への意欲のなさ、無気力な状態を特徴とする学生特有の障害”と説明されている。
“アイデンティティの心理学”では、笠原嘉氏は“大学生活が困難になっていく若者たちの問題を総括して、「退却神経症」と名付けた。これで問題の性質がよくわかるようになった。”として本書を紹介していたのだ。

この“退却神経症”について、実はWikipedia には次のように書かれている。
“退却神経症(たいきゃくしんけいしょう Retreat neurosis)とは、副業には専念できるが、個人に期待される社会的役割である本業からは選択的に退却し、無気力・無関心・抑うつなどを呈する神経症である。精神科医の笠原嘉により提唱された、日本独自の臨床疾患単位である。”

以下、“退却神経症”についてのWikipediaでの記述だが、ほぼこの本の内容を要領よくまとめているように思われるので、ここにそのまま引用掲載したい。勿論この記事は、この本が主要な参考文献となっていると思える。

[病前性格]
病前性格として以下の特性が見られる。
・キッチリ型の性格で、元来完全主義の性格である
・人から拒否されることに過度に敏感。「叱られる」「意見される」ことに強い抵抗感がある
・自己愛的傾向を持つ。プライドが高く、ぶざまな姿を人に見せられない。人から習うのが苦手である
・敗北と屈辱を異常なほどに嫌がる。勝負する前に降りてしまうことがある(傷つくことを回避し、万能感の維持を優先)
・オール・オア・ナッシング。全か無か
・「よくできる子」「親の手のかからない子」だった過去がある。挫折体験に乏しい
・女性とのつきあいが下手で、一人よがりが多かったり、過度に甘えたり依存したりする
・どちらかというと社交性に乏しい。人に心を開くことが出来ず、親友や家族ぐるみの付き合いができる相手がいない
・内因性抑うつ者とは異なり、反省的・自責的ではない。どこか“ヌケヌケとした印象”を与える(“”は筆者)
この最後の“ヌケヌケとした印象”はこの精神障害の異様な特徴である、という。

[症状]
無気力・無関心・無快楽(快体験の希薄化)が主症状であるが、耐え難い不安、焦燥、抑うつ、葛藤などの主観的な苦痛体験を前景に持たない。また、以下の徴候も示す。
・陰性の行動化としての「ひきこもり」
・アパシーによって攻撃性を抑えているが、内的世界は紛れもなく怒りと破壊に満ちており、時にそれは外界に投影される
・実存的な抑うつ状態(内因性うつ病とは異なる)。神経症性抑うつ
・生きる意味の消失
・漠然とした不安
・過眠。「もうどうでもよい」という投げやりな気持ちからくる退却心理に起因する
・「空しい」という感覚(境界例患者の内的空虚感と類似している)
・快体験の希薄化。「楽しい」「嬉しい」といった喜びを感じ取る力が落ちる(境界例患者に見られる空虚感に近いものである)
・スプリッティングが生じており、自己分割によって内的葛藤や耐え難い感情を否認している
・重いタイプでは対人恐怖症状、うつ、軽躁、関係妄想などが見られることがある

しかし、著者によるとこの症状は男性が殆どで、特に女子大学生になると症例は極まれだという。女性症例について、わざわざ1章を設けているが、内容は乏しい印象だ。日本の社会事情で、女性の社会進出が十分でない後進性も原因としてあるかもしれないとの示唆があった。
精神障害にはこうした社会的背景が大きく影響するのだろう。退却神経症そのものの症例が、欧米では見られないようで、大学制度も違うため、日本の社会特有のもののようだ。“父親不在の社会”であることも問題だというのだが、それが具体的にどのように問題となり、それに対しどうすればよいのかまでは言及していない。
また、笠原嘉氏の研究以降、“退却神経症”についてのその後の研究が全く見られないようだ。米国での研究を待っていたのでは、日本での精神医学は発達しないのではないか。正に日本の精神医学の発達障害ではないのだろうか。

そして肝心な治療・予防についての記述がプアーな印象で、肝心なのはその点ではないかと思うのだが残念である。
この本では先ずは、専門家に相談に行くことだという。“総合病院の精神科外来や、街中の精神科クリニックでよい。”とあるが、信頼できる精神科医をどのように捜せばよいのかまでは書かれていない。“都道府県の精神保健センター”ならおすすめできるようなことは言っているのだが・・・日本の精神医療のレベルは信頼に足るものなのだろうか。

この本での予防については、次のようだ。
①睡眠の良否:過度に神経質になる必要はないが、睡眠覚醒のリズムを乱れないようにする。
②朝の気分をバロメータにする:朝刊が面白く読めるか、お化粧や身だしなみが順調か。
③物事を楽しむ力を大切に:日常生活にごくうっすら必ずある快感があるか。
④進歩の感覚はあるか:日常の体験に時間と共にごく些少ながら進歩しているという感覚はあるか。1年前に比べて成長したと思えるか。し、
⑤几帳面はホドホドに:ちょっと疲れたときに几帳面が二乗になり、こだわりが亢進し、気が進まない程度が増していないか。この場合、精神の休憩がいる、と言っている。“休憩も几帳面にやりすぎては、ほんとうの休憩にならない”という。

この本は、1988年発行の古い本で、一般書店では既に取り扱ってはおらず、BOOK OFFか図書館でしか入手できない。内容は古くない印象だが、それだけに日本の心理学の進展が進んでいないのではないかとの疑念も湧いてしまう。なので、どれほど参考になるのだろうか。だが一方、精神の正常化へのプロセスはいろいろな道があるのかもしれない。そんな気もするのだ。どうだろうか・・・。


コメント ( 0 ) | Trackback ( )
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 3月鑑賞の映画... 宮城谷昌光・... »
 
コメント
 
コメントはありません。
コメントを投稿する
 
名前
タイトル
URL
コメント
コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。