The Rest Room of ISO Management
ISO休戦
京都五山の送り火と陸前高田の松
陸前高田の松を、五山の送り火で燃やすという企画に対して、二度にわたる京都の中止という判断には がっかりを通り越して不快感、いや“怒り”すら覚える。“寄り添い、苦を分かち合う”というのが宗教の奥義であって、そういう精神を顕すのが本来の仏教行事のあり方ではないのか。
報道によると松の表皮のみの計測で、1kg当たり1,130ベクレルだったとある。本来、放射能の有害性をベクレル数で判断できるものではなく様々な仮定を経て、人体への影響度を推計するべきだ。このためか、(京都の)地元の大学教授に問い合わせたようだが、“燃やしていいのか判断できない”と言われて、中止したという。“判断できない”は(自分はそれは専門でないので)“分からない”の意で、その学者の良心に従っての発言だ。ならば“判断できる”学者に問い合わせるべきで、それくらいの熱意があってしかるべきではなかったか。人体への影響度はほとんど無いと判断する業績ある学者も多いからだ。そもそも、放射能が検出されれば、不可とする方針だったという。ならば、自然界のありとあらゆる物には放射能は存在するので、元々やる気は無かったとみなされても当然ではないか。そうなら、その計測すら単なるパフォーマンスに過ぎず、不誠実であり、実に無礼な話だ。
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私個人としては、福島第一原発から200km近く離れていてこのような放射能汚染が認められることには強い違和感を感じるとともに、驚きを禁じえないが、事実として受け止めざるをえない。今や、放射能汚染を福島第一原発を中心に同心円を前提に影響度を考慮することは認識不足の観があるが、それでもなお陸前高田で汚染があるのなら仙台、山形は大丈夫なのだろうか、と心配するべきではないか。特に京都市はその懸念を強く持たねばならないはずだ。つまり、陸前高田の松と同じように他の東北発の物品を京都市では一切燃やしてはならぬことにするのか。そうならば廃棄物の分別はどうするのか。いや、ことは東北発の物品に限るものではない。関東一円、茶葉に汚染のあった静岡まで含めての全ての物品もその対象と考えるべきではないのか。そうしなければ、京都市のゴミ焼却場近辺は、五山の送り火よりももっと大量の放射能の影響があると考えるべきだ。それが論理的で“科学的・合理的判断”というものではないのか。
観光立国を率先する京都がこのような風評の種を自ら撒くのなら、海外に京都への観光を呼びかけることを自粛するのが筋ではないのか。東北の農産品は、風評により輸出ができなくなっているという。その最中での京都の振る舞いは、論理的には自己中心そのものとなる。あくまでも“苦を分かち合わない”姿勢、そこに有史以来の“高みにある京都”の臭いを思わず感じ取ってしまうのは私ばかりだろうか。
陸前高田の人々の誇りだった松を京都はゴミにも及ばない“汚物”として踏みつけた。愛する人や大切な物を失った東北の人々の心をさらに深く傷付けた。だがこれまでの東北人の反応は京都人よりも、はるかに自己抑制的であり、その慎ましやかな姿勢に敬服する。他人に何を言われようとも、自分のせいではないとてつもない苦難に黙って耐え忍んで逞しく生き抜こうとする姿を見るような気がする。そこに、古き良き日本の伝統的精神を再確認したようにも思う。だが、恐らく東北人の内心には、京都人には注意するべきとの取り返しようもない印象を強く深く植えつけただろう。下手すると関西人全体の信頼性を全国的に毀損したのではないか。はなはだ迷惑で、“怒り”を覚える話だ。
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報道によると松の表皮のみの計測で、1kg当たり1,130ベクレルだったとある。本来、放射能の有害性をベクレル数で判断できるものではなく様々な仮定を経て、人体への影響度を推計するべきだ。このためか、(京都の)地元の大学教授に問い合わせたようだが、“燃やしていいのか判断できない”と言われて、中止したという。“判断できない”は(自分はそれは専門でないので)“分からない”の意で、その学者の良心に従っての発言だ。ならば“判断できる”学者に問い合わせるべきで、それくらいの熱意があってしかるべきではなかったか。人体への影響度はほとんど無いと判断する業績ある学者も多いからだ。そもそも、放射能が検出されれば、不可とする方針だったという。ならば、自然界のありとあらゆる物には放射能は存在するので、元々やる気は無かったとみなされても当然ではないか。そうなら、その計測すら単なるパフォーマンスに過ぎず、不誠実であり、実に無礼な話だ。
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私個人としては、福島第一原発から200km近く離れていてこのような放射能汚染が認められることには強い違和感を感じるとともに、驚きを禁じえないが、事実として受け止めざるをえない。今や、放射能汚染を福島第一原発を中心に同心円を前提に影響度を考慮することは認識不足の観があるが、それでもなお陸前高田で汚染があるのなら仙台、山形は大丈夫なのだろうか、と心配するべきではないか。特に京都市はその懸念を強く持たねばならないはずだ。つまり、陸前高田の松と同じように他の東北発の物品を京都市では一切燃やしてはならぬことにするのか。そうならば廃棄物の分別はどうするのか。いや、ことは東北発の物品に限るものではない。関東一円、茶葉に汚染のあった静岡まで含めての全ての物品もその対象と考えるべきではないのか。そうしなければ、京都市のゴミ焼却場近辺は、五山の送り火よりももっと大量の放射能の影響があると考えるべきだ。それが論理的で“科学的・合理的判断”というものではないのか。
観光立国を率先する京都がこのような風評の種を自ら撒くのなら、海外に京都への観光を呼びかけることを自粛するのが筋ではないのか。東北の農産品は、風評により輸出ができなくなっているという。その最中での京都の振る舞いは、論理的には自己中心そのものとなる。あくまでも“苦を分かち合わない”姿勢、そこに有史以来の“高みにある京都”の臭いを思わず感じ取ってしまうのは私ばかりだろうか。
陸前高田の人々の誇りだった松を京都はゴミにも及ばない“汚物”として踏みつけた。愛する人や大切な物を失った東北の人々の心をさらに深く傷付けた。だがこれまでの東北人の反応は京都人よりも、はるかに自己抑制的であり、その慎ましやかな姿勢に敬服する。他人に何を言われようとも、自分のせいではないとてつもない苦難に黙って耐え忍んで逞しく生き抜こうとする姿を見るような気がする。そこに、古き良き日本の伝統的精神を再確認したようにも思う。だが、恐らく東北人の内心には、京都人には注意するべきとの取り返しようもない印象を強く深く植えつけただろう。下手すると関西人全体の信頼性を全国的に毀損したのではないか。はなはだ迷惑で、“怒り”を覚える話だ。
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その学者の見解では、1960~1970年代には核実験で地球の大気圏の放射能汚染の程度は相当のものだった。30~40年以上の松の木の皮には その時の放射能が濃縮していると考えてもおかしくない。高田の松の木の皮だけの放射能を測定して問題だと言うのは、アンフェアである。京都の松の皮も測定した上で判断するべきではなかったか、と。
この見解は合理的であると改めて意を強くした。