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原発にまつわる現在の世相に思う

先週、福島原発の炉への海水注入を巡ってバカバカしい騒動があった。政争の具としての騒動である。
自民党谷垣総裁は自前で事実を把握せず“報道によりますと・・・・”という台詞で質問を切り出して、何とか菅政権の揚げ足を取ろうとして簡単にかわされて、みごとに肩透かしを食わされてしまった。それこそ一部の報道・政治解説によると、総裁は、この質疑にかなり熱を入れ演習も重ねたということだが、結果としてお粗末な茶番劇で終わってしまった。そして、その周囲での日本の政治家達の児戯じみた政争に呆れるばかりだ。

一方、東電の二転三転する事情説明にも呆れる始末だ。一体、何が真相なのかよく分からなくなる。長年政治家の顔色を伺って活動をしてきた習い性の成れの果てではないか。政策の変更により収益が大きく左右される企業にとって、“顧客”が誰なのか、真の利益の源泉は何にあるのか、判然としなくなってくるのではないか。そういう状況が、企業・組織を不健全なものとするのだろう。このブログでアニメ“もしドラ”の感想を述べたように、企業・組織にとって“「顧客」は誰なのか”を正確に認識することが、その健全性を保つために極めて重要なことだと改めて痛感した。

さらに、こうした不健全な東電を長年育て上げてきた自民党に その責任感がなく、無自覚、無反省な態度は実に情けない。政官財の鉄の利益共同体を作ったのは、現政権の民主党ではなく、自民党なのだ。その反省無くして、菅政権を言葉の上だけで追い詰めるために、貴重な国会審議の時間を費やすのは国民をバカにしているとしか思えない。
これまでの原子力政策の反省の上に立って菅政権を追及しなければ、真剣な議論をしているとは言えない。そういう姿勢が、長年政権の座にあった党の党首には求められている。そういう自覚も無く、他の野党と同列に堕したまま現政権を批判するのは、まさしく金子みすずの詩にあるような“子供のけんか”でしかない。谷垣氏の議論に迫力が乏しいのは その矜持と自覚の無さにある。

ところで、我が国の原子力政策は 果たしてその基本を当初から間違っていたのであろうか。今、福島原発事故を目の当たりにして始めて議論されているように、日本に原子力エネルギーは必要なかったのだろうか。
日本の経済成長にとって、当然のことだがエネルギーの確保は重要な課題であった。取り分け電源開発は重要な政策課題であったと言える。戦争直後は 直接的には石炭が主要エネルギーであったし、そのしばらく後は水力による電源開発が重要な課題となった。その究極の象徴は 映画“黒部の太陽”に見られる巨大黒四ダムの建設であった。しかし、その艱難辛苦の末に成し遂げて得られた電力よりも、原発1基による電力量は3倍以上もあり、はるかにコンパクトに巨大な電力を生むことができるという事実がある。しかも、水力発電には大規模自然破壊までして建設したダムであってもやがて、土砂に埋まってしまうという限界がある。ところが原子炉は廃炉を可能にするための技術を開発すれば、何度も更新が可能である。原子力の平和利用には、そんな魅力があるのだ。こうして巨大で小回りの利かない原発の間に火力発電を配し、現在のいわゆるベスト・ミックスの体制は出来上がった。その上、現在の技術では黒四を上回る高出力の火力発電所の建設も可能なのだ。こうして、磐石の電力供給体制は出来上がった。

このように思いをいたすと、時の政権が、原子力の平和利用に政策を傾斜させることは あながち否定できるものではないと思える。その上、新しい科学技術には多分に危険性を克服しつつ発展を遂げるという性格もあるのは事実なのだ。危険に怯えて、新技術開発に遅れを取ることは、国家百年の大計を考える上において許されることではない。危険を克服して安全化してこそ、科学技術であるというのも真実なのだ。
ところが、どうやら恐る恐る原発を運営してきて、少なくとも表面的には大過なく40年が経過した。自ら作り出した根拠無き“安全神話”の自己催眠に陥って、ついには夜郎自大となり、今回の“想定外事故”へと至った。いわば、慢心のなれの果ての事故と言え、これは、夜郎自大の果てに敗戦した過去を想起する。慢心の背景にある政官財の結束という戦前の体質を、日本は今も引きずっている。政官財という狭い世界では必ず夜郎自大の傾向は醸成され、それが組織や体制を腐らせる。同じ歴史を繰り返す永劫回帰は近代日本のさがの業を思わせる。
少なくとも、谷垣氏には、こうした反省が求められるのだ。かつての政権主催者であれば、もっと迫力ある具体的な猛省が可能だと思われるが、それをしないのは、利益の分け前に再度参加したいという下心からではないか。それが自民党への信頼感を阻害している。

また、原発を中心とした電力供給体制は、リスク論的立場からすると問題が多いのも事実だ。限られた場所で、大量の電力を生み出し供給するという体制は、その数少ない急所で障害が生じると社会的影響が、甚大なものとなる。リスクは分散させるというのが 常道であり、遠隔地で産出した電力供給は、送電ロスという意外に大きい損失を伴う。
それよりも各適所で最適な形態での発電を行い、送電ロスを極小化し、リスクを分散させることが必要なのだ。それがスマート・グリッドの思想である。その意味で、現在の日本の電力供給体制はビジネス形態としては古く、今回のフクシマではそのことも鮮明に示した。
だが、カリフォルニアでの大停電の原因を見れば、安易な発送電分離には問題が多い。余程 巧みな仕組としての電力供給の体制作りに取組むことが必要だ。腐敗した東電の解体を通じて、そうした体制への移管を検討しなければならない。だが、国会では“海水注入の一時停止”という些事が“真剣に”議論されているのだ。
このことが、戦前のように国民の政治家不信につながり、大政翼賛会への回帰を警戒するべきなのだが・・・。

ところで私にとって、現在までの反原発の議論の多くは、感覚的で感情論でしかないように思えるのが多い。純粋理性批判の立場なのだろうか。
例えば、故高木仁三郎氏の著書を読もうとしたことがあるが、一向に論理的で説得的な議論が登場しないのに耐えられず途中で投げ出してしまった。突き詰めるとプルトニウムの毒性が問題だということのようだが、それは反原発の本質的論拠とは言えない。もしそうならば、プルトニウムを排出しないトリウム原子炉の開発で解決することではないか。
それ以外の議論の多くは いわゆる社会派によるものだ。それは、先に述べた政官財の利益共同体の悪弊を攻撃するものが殆どであり、原発の技術的問題の核心に肉迫するものではない。一面では何かタメにする議論に見えてしまう。

しかし、先日 参議院行政監視委員会で意見を述べた京大の小出裕章氏の議論は 正しく現在の原子力技術の欠陥に対する本質的批判を展開しているように思える。その意見陳述では原子力原料の埋蔵量は貧弱であり、人類の使用には30~40年程度で尽きると言っている。ところが、使用済み核燃料は その安全保管に10万年の時間を要する。たった30~40年のために10万年間もの注意を費やすことが合理的な行為とは言えないのは当然だ。

また小出氏は 地球温暖化がCO2によるものだという議論には否定的だ。私もかねてよりIPCCには疑問を感じている。この議論は原発推進派によるデマゴーグによるものではないか、ということを示唆しているかのようである。地球温暖化CO2主因説は 欧米から そーっと湧き上がって、たちまち世界を席巻したが、こういう動きには怪しい雰囲気がある。信憑性は不明だが、その活動家ゴア氏にも背景には原発推進派が居るとの噂がある。ついでに、CO2排出権取引となると 欧米人の得意の金融ビジネスに結びつけていて、悪乗りしているとしか思えない。
今回のサミットでは サルコジ仏大統領は菅首相に “原発を止める”という台詞を言わせないために必死だったと言う。オバマ米大統領も 原発推進にカジを切った矢先であったので菅首相の発言には神経を尖らせたようだ。このように、米仏を中心とする原発推進派は、次第に姿を鮮明にしてきている。今回のフクシマ以降は ある意味で彼らは剣が峰に立つことになった。上手く乗り切れば 原子力ルネッサンスは継続しビッグ・ビジネスになるし、失敗すれば これまでの密かな努力は水泡に帰する。またもや日本は その格好の餌食となるのだろうか。

ところで、反原発となれば自然エネルギーや再生可能エネルギーへ傾斜しなければならない。しかし、こうしたエネルギーはいずれもコストが高い。それは基本的に個々の要素の出力は小さいので、それを大規模に集約しようとするとその仕掛けにコストがかかるのだ。しかも、自然エネルギーは人間の活動のタイミングにとは整合せず、人間生活にはそぐわない悠長さがある。ところが有効利用のための電力貯蔵技術は未だに薄弱で、それをカバーしつつ、工夫しなければならない。こういう工夫が必要であるというのはコストがかかることを意味し、高コストであるということは、逆説的だがそれだけエネルギーがかっていることになる。
例えば、太陽電池による発電は日照率を考慮しなければならず、20~30年は使用しないと採算に合わない。ところが、そのシステムを支える機器に20~30年もの耐用年数のあるものは少なく、採算点に至るまでに機器更新が必要となる。そうなれば、さらに機器コストの上乗せが必要となる。このように太陽光発電には高コストな弱点があり、それをカバーするために、電力会社に“全量買取制度”というコスト負担を強いなければならない。そうなると、電力会社は一般に販売する電力価格にそのコスト負担を転嫁しないと持続可能な経営はできなくなる。つまり、高価な太陽電池を設置できる経済的に余裕のある組織や個人が、高い電気を電力会社に売りつけ、電力会社は高い電気を一般に売らざるを得ない。要するに、高コストのシワ寄せを一般に押し付け、富を貧民層から富裕層へ吸い上げる形になるのだ。
通常、太陽電池はシリコンを溶融して生産されるが、そこには相当なエネルギーが投入されている。つまり、太陽電池システムの活用は単なるエネルギーの先食いでしかないのだ。こういうものに、安易に“エネルギー革命”と称して無闇に飛びついて、そのまま突っ走って良いのだろうか。

原子力エネルギーを巡っての議論は私には分かり難いことばかりなのだ。

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