goo

“日本の原発政策”についてチョット考える

先週はこれといった大きなニュースはなかった。大きなニュースがないためか明けても覚めても“新元号”ばかりだ。
しかし、最近、変な殺人事件とが多いように思う。それでも凶悪犯罪は減少しているというらしいが、本当だろうか。
殺人と言えば、子供の大人による虐待が報道されるのも増えているが、子供同士による“いじめ”も増えているようだ。子供受難社会、それが現代日本社会の実相のようだ。そんな社会に明るい未来があるのだろうか。
“いじめ”には自分達より優れている者を見た時、敬意より妬みが先立つ場合が結構あるようだ。このため子供たちの間であまり目立たないように抑制する傾向にあるようだ。そうしたところから、付和雷同型の発想心理状態が醸成されているという。どうやらこれを“同調圧力”と呼ぶようだ。

付和雷同型とは既成事実を是認し、“何事にも反対することを善しとしない”精神構造と言える。一方では“個性を尊重”すると口では言いつつ、現代日本の教育は“反対することを悪”とする傾向を懸命に醸成しているかのようだ。また、自分の頭で考えようとする習慣を育成しようとも考えていないようだ。先日ある教育研究機関の付属組織のEMS審査をしたことがあるが、そこで“何か良い事例を示して欲しい。”という要求があって、仰天したものだった。組織個々には夫々の事情や環境条件が異なるので“適切な事例など無く、自分達で考えて欲しい。”と言ったものだったが、子供たちに“考える習慣”を育成するべき機関自身に、自ら考える習慣がないことに呆れたのだった。
この傾向は若い人々に特に顕著のようだ。それが、特異で下品な現政権の強固な支持層になっているのではないか。こうした社会構造を日本のマスコミや社会研究者たちはあまり問題視していないかのようだ。政治学者や社会心理学者自身が日本に閉じこもっていて、このような異常な社会心理に気付いていないのだろうか。

ドイツには“ハーメルンの笛吹き男”の伝説があり、日本ではグリム童話で知られているが、奇妙な一人の男によって思慮のないネズミや未だ思考力のない子供達が死の淵に追いやられる社会危機が、現在のような日本社会に訪れる危険はないのだろうか。どうも、そのような土壌が確実に醸成されているような気がするが、どうだろうか。
日本の戦前社会はこのようではなかったか。歴史は繰り返す、というが再び戦争の危機が迫っているのかもしれない。また征韓論の復活が一部に顕著になりつつもある。韓国側の姿勢に不可解な部分が多々あるように見受けるが、歴史から学びなさすぎる日本側の対応にも戦略性のない稚拙さを禁じ得ず、歴史上何度同じ誤りを繰り返そうとしているのだろうか。
残念ながら、この社会心理を含む方面は私の領域ではないので、疑問形で終わらざるをえない。日本のこの方面の専門家はあまりにも希薄な印象だ。この社会危機に気付いている人が全く見当たらない。自然災害に目を奪われ過ぎている印象もある。それも重要かも知れないが、社会心理の病理にも目を向けるべきだと思う。それとも密かな言論圧迫や忖度による自己抑制や“同調圧力”が静かに進展していて、IT時代にもかかわらず市井の端くれで活きている私には届いていないだけなのだろうか。いずれにしても日本社会には“ハーメルンの笛吹き男”が成立する余地は全く十分にある。


さて、先週末の“朝まで生テレビ”は“激論!原発と日本のエネルギー政策”をテーマにやっていた。ほぼ“原発推進派”と“反対派”に分かれての討論だったが、番組があると気付いたのは始まって既に1時間ほど経過してからだった。そこでビデオ録画にスウィッチオンしたものだったが、推進派の議論に迫力が乏しく主張の要旨に明解な印象が無い。

私の原発への対応について、この辺りで明確にしておくべきかも知れない。この拙いブログを辛抱強く読んで頂いて居る読者の方々は御存知と思うが、福島事故当時、私は“推進派”でも“反対派”でもなく、定見のない状態だった。だから、このブログでは旗幟鮮明にすることは意識的に控えていたものだった。
その当時、丁度大学の“リスクマネジャ養成プログラム”を受講していた。あの事故の前に講義で、“原発に千年に1度の津波リスク対策として巨額投資をすることは賢い選択とは言えない。”と聞いていた言葉が鮮明に蘇ってきたものだった。そして、“その千年に1度の事が起こってしまった。どうするのだろうか。否、頻度は千年に1度かも知れないが、その千年目がやって来たのだ。事象の頻度は起きない時間の経過とともに上昇する、という認識が正確な科学的対応なのだ。”と強く感じたものだった。それと共に、その頻度は極小であっても起きた場合の影響度が巨大であるテイル・リスクに対する対応が難しいものであることも認識したものだった。
事故後、次第に原発管理の杜撰さが聞かれるようになって来た印象がある。例えば、事故当時直後に東電関係者が電源確保のために周辺のDIYショップを駆け回って電池を買い集めているとの報道もあって、何だか場当たり的いい加減さをうっすら感じたものだった。厳然とそこには、油断があったと言わざるを得ない事実だった。その後もいい加減な内実が様々に報道され明らかにされて来た。私が最もひどい話と思えるのは、緊急事態への想定訓練が不十分だったようで、幾重もの緊急冷却の装置が十分に使われていなかったのではないか、との疑惑が存在することだ。設計上は多重フェイル・セーフになっているので、これで重大事故に至る確率は極めて低い、となっていても操作者がそれを知らなければ、無いのも同然であり、現実はそうなった。ISOでも規定されている“緊急事態対応”の“訓練”が十分でなかったのだ。現場での”訓練の重要性”が改めて理解できる。このような事実を報道等で知らされるに従い、私の原発への意識も次第に後退して行ったものだった。要するに、その割にはしっかりしたマネジメントができていなかったのだ。
何だかんだと国家も絡んで管理されていたはずにもかかわらず肝心な時に、肝心なことが全くできていなかったのだ。これが日本の叡智の結集だったとは、情けない限りでしかない。
一方では原子炉とはどういうものか、体感するべく近大の研究炉に赴いて“お勉強”もした。しかし残念ながら、この原子炉は小さすぎて、高度な管理技術を要するものではないことを理解できた程度ではあった。

そいう思いや経過の果てに、現在では原発をどのように思っているのかを吐露したい。私は原発は矢張り、早急に手仕舞うべきものと考える。その主な理由は次の3つである。
①原発には経済性が全くない。つまり儲かるものではないことが、近年明らかになって来ている。
②核廃棄物を10万年規模で安全に保管する場所が日本にはない。
③原子炉を地震から安全に保護できる場所が日本にはない。
何と言っても日本列島は、地球を覆っている4枚のプレートの衝突部にある世界的にも珍しい場所に位置している。そのため、地震学者は日本のあらゆる場所が震源域になり得ると断言する。震源域で原子炉を安全に確保できる建設技術は現代ではあり得ない。日本列島は揺れ動く不安定なプレートの上で漂っている存在なのだ。地震ばかりではない。活火山も巨大カルデラも存在する危うい地盤に依拠している。どうやらこれが現今の科学的見解であると言える。このため有無を言わさず②,③の結論が出てくる。

①については、それが証拠に米国ではほとんどの企業が原発から撤退している。その間隙をぬって東芝が買収して、赤字を垂れ流し、失敗して手放したウェスチングハウスは加圧水型原子炉のトップ・メーカーだった。米軍の虎の子の原潜の原子炉のメーカーでもあった。そんな軍事機密を持った企業を東芝が買収できたことに、その当時私は驚愕したのだ。ところが内実は赤字で米国のエスタブリッシュメントが困り果てていたところに東芝が飛びついた、というが実態のようだった。
何故、原発が赤字になるのか。各地での原発操業の経験を経るに従い、また経済性から規模の巨大化を狙うことにより、安全面へのハード、ソフト両面での対策投資が嵩んできており、結局のところ不採算となったものだという。
原発は既に最早オールド・エコノミーなのだ。東芝はその世界の潮流に気付かず、飛びついたのだ。そして失敗したにもかかわらず、日本政府や日本の財界は未だ原発に固執しているようだ。米国のメーカーが撤退した後の市場を狙って、日本の官民一体で攻勢をかけても先進諸国では1件も受注できて居ないのが現実なのだ。いかにも時代遅れに登場する、日本らしい話なのだ。

原発エネルギーは1kWh当たり せいぜいで2桁のコストとされるが、ソーラー・パネルによるエネルギーは日本でも1桁となり得ると言われて来ており、世界のチャンピオン・データーでは1円台とされる状況になっている。これが現実であり、世界の常識なのだ。
しかも原発コストには廃炉コストが含まれているのか否か明瞭でない部分がある。特に事故った後の廃炉コストは誰も算定できない。それは福島原発の状況を見れば良くわかる。つまりそのコストは青天井なのだ。この議論は日本でも1970年代後半に既にあったと記憶している。時代を経ても、技術の壁は克服できなかったのだ。要は核廃棄物の処理が可能な物理学や工学の開発進展が出来なかったのだ。これは放射性物質の改変が不可能である、或いは膨大なコストやエネルギーが必要だということを意味していると考えた方が良いのだろう。又そうであれば本末転倒となる話だ。

だから、それでも原発にこだわる人々の理由が私には全く理解できないのだ。実は、それが理解できるかと期待して“朝まで生テレビ”を見たのだったが、推進派は何か焦ってはいるものの的確で明解な論理は持ち合わせてはいなかった。既述の論拠3点を突き崩すような議論やその片鱗は全く聞かれなかった。このように残念ながら迫力に欠ける議論で、居眠りも入り交じり、私の反原発の意識を変えるには及ばなかったのだ。

こうした議論すら日本では正面切って行われることはない。今やテレビ番組では“朝生”くらいではなかろうか。これを主催する田原氏も高齢になって来て、引継げる言論人も存在しないようだ。日本の言論の健全性に疑問符が付いている。今後ますます“ハーメルンの笛吹き男”の登場に用心しなければならない。

コメント ( 0 ) | Trackback ( )
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 丹羽宇一郎・... “思考停止”と... »
 
コメント
 
コメントはありません。
コメントを投稿する
 
名前
タイトル
URL
コメント
コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。