The Rest Room of ISO Management
ISO休戦
“思考停止”という“滅亡に至る病”への小さな危機感
先週は新元号の決定と、“忖度”で副大臣辞任となったのが、大きなニュースではなかっただろうか。
しかし、国際的には北朝鮮の不穏な動きが認められるのと、ブレグジットがいよいよ期限が差し迫るにもかかわらず、英国議会はどちらにも動けずひたすらハードランディングに向かって時間を消耗している、という直近不安に満ちている。
差し迫ったリスク・不安から感想を述べると、先ずはブレグジット・リスクではなかろうか。国論が決定的に分裂し、いずれの主張も過半に達っせず、方向が定まらない。これは民主主義の危機という、大変な深刻な状態ではなかろうか。
このようにグジットは合意無き離脱となる可能性が非常に高いのが現実である。もし、合意無き離脱が成立すれば、それを織り込んでいない金融市場の混乱は甚大となると思われるが、世界のエコノミストの誰もそれを指摘しないのは、どういうことだろう。日本ばかりでなく、世界的にも思考停止となっているのだろうか。これが現代という危うさであろうか。
日常の平穏のすぐ傍に、巨大なリスク陥穽がポッカリと口を開けているのだ。核爆弾という目に見える危機ではなく、社会の仕組の中に目に見えない危機が潜んでいる。この危機は仕組であるがゆえに回避する方法はいくらでもあるように見えるにもかかわらず、誰もそれに手を付けようとしないのは、どういうことだろうか。これが人類史的文明病なのだろうか。
先月末、マドリッドの在スペイン北朝鮮大使館が暴漢に襲撃されたというニュースが入り、その後北朝鮮側が米国の仕業と発表した。さらにその後“自由朝鮮”と名乗る団体が大使館内のパソコンや通信機器を強奪して、米国FBIに引き渡したと声明したという。それに対し、米国国務省は一切関与していないと言明した。対外諜報活動にFBIが関与するはずもなく、むしろCIAと考えるのが自然であり、そうであれば韓国CIAも絡んでいると整理できるようだ。ポンペオ国務長官は前CIA長官であり、いよいよ半島情勢が本格的にキナ臭くなり始めてきた印象がある。このような水面下の動きが、軍を動員した正面切っての軍事行動に繋がっていく懸念も十分にある。
このように、北朝鮮という核爆弾を抱えた危機が再び迫っている。昨年の米朝首脳会談開催で一旦危機回避に見えたかのように思えたが、その実態は“首脳が顔を合わせた”だけで、北の非核化問題を何ら解消したものではなかった。
これは目に見える“物理的”に深刻な人類的危機である。“物理的”であるが故に生じた場合の被害実態は東アジアに限定される。したがって、日本人にとっては全く他人事ではありえない。にもかかわらず、それをハンドリングし阻止する能力を日本政府は持っていない。米朝と周囲の中韓のなすがままの状態なのだ。それで良いはずがないにもかかわらず、日本政府は何ら為すことを知らず唯々諾々としている。外交的に対米盲従の結果だ。そうした米国に魂を売った政権を日本国民は根強く支持しているのだから、仕方がない。
そうした魂を売った政権内では、“忖度”という病が大流行している。忖度病に罹った副大臣が、“得意気”に罹患したことを告白して、事実上の馘首となった。その前副大臣の問題発言によれば、モリカケ問題が“忖度”病の結果であると告白したのと同じだ。首相はこれを一旦は“かばった”のだ。あたかももっと“忖度しろ”とのサインを全ての政治家、官僚に示したかのようだ。“病膏肓に入る”とはこのことではあるまいか。
これまでの経過で、忖度病に罹ったのは外形的には財務省が先鞭をつけ、その後検察庁が発症した。政府内の2大権力が罹患したのなら他は押して知るべし。財務本省が罹患しているなら国税庁も必然的に感染しているだろう。
ところで米国ではトランプ大統領の納税申告書公開が問題となっているが、日本で政権中枢者の納税状況を公開する要求が起きないのはどういうことだろうか。そこに忖度がないとは言える保証はない。こうなればもう、政権中枢者と“お友達”になることが、自己利益増大に不可欠となるのは明らかなことだ。現にモリカケはその象徴だ。忖度という“超法規的措置”が横行すれば、近代的で民主的な法治国家とは言えまい。そのための“袖の下”もありではないか。“報道”もどうやら感染しているかのようで、“不都合な真実”は暴かれずに眠っている。春の番組改訂でオチャラケは増え、気骨ある論者は消えて行く傾向にある。あたかも北朝鮮や中国と同じ価値観の国家へと突き進んでいるかのようだ。
このように政権は正しく“死に至る病”に罹患していて、その肉体は既に腐敗している。その腐敗臭がそこはかとなく漂って来るにもかかわらず、国民はそれを強く支持しているのが日本の現実ではなかろうか。かつて、日本社会を“一億総「白痴」化”と呼んだ気骨ある評論家が居た。差別用語とされる文言が含まれているので今や死語となった観があるが、それが正しく実現している。思考停止の“反知性”が蔓延しているのだ。“アホで何が悪いッ?!!”
この“忖度”の結果、組織が凋落する様を日産自動車は端的に示している。強権を持った最高責任者に周囲の組織幹部が忖度して、悪事を許容した結果と見るべきなのだ。組織幹部が理非曲直を明らかにする矜持もなく、“強気に巻かれろ”とばかりに唯々諾々と“忖度”を繰り返した結果である。
その後日産経営陣は“社外取締役”を増強し改革するとしているが、これまでの監査役は何故任務を全う出来なかったのかを明らかにするのが先ではないか。その責任を徹底追及するべきだと考える。恐らく監査役自身が忖度したのではないか。このようにメンバーが“忖度”を繰り返すようであればいくら組織をいじっても形式にすぎず同じことになる。今度は現経営陣の下で“忖度”が始まるだけではないのか。
日本中が“忖度ソンタクせなソントク損得”と“忖度”の嵐に破廉恥にも付和雷同フィーバーしているのが現実ではないのか。日本人が論理的に思考をめぐらし、常に理非曲直を明らかにする理性と矜持を失ったのは何時からなのだろうか。思考停止と付和雷同、これが今の日本人、外国から見れば御しやすしと見えるのではあるまいか。現に日産自動車がそうだったし、その本質が残念ながら現政権にも認められるではないか。
さて、先週の最大のニュースは新元号の公表だった。伝えられた報道を総合すると、結局のところこれを決めたのは内閣総理大臣、その人ということのようだ。お勉強嫌いの反知性派の安倍氏とのこと。その無教養の果てが今回の元号制定へと繋がっている。
本来、元号は反対する人が殆ど居ないことが原則だが、今回はその無教養の本質が露わになり、翌日には歴史学者から“変だ”との声が朝のワイド・ショウで上がったという。問題は“令和”の“令”だ。
“令”で真っ先に思い浮かぶのは論語の「巧言令色鮮し仁」(口先がうまく[巧言]、顔色をやわらげ[令色:良い表情]て人を喜ばせ、媚びへつらうことは仁の心に欠けている)だとしていた。確かに、私もこの言葉が先ず浮かんだ。これが良い意味ではないのは明らかだが、一方では、ここまで指摘してきたように現政権の状況を象徴するのにピッタリのように思われる。
なので、マッそれで良いか!?…とはならない。何故か。それは元号がその時代の天皇の諡(おくりな・死後に奉る贈り名)となることが、慣例となっているからだ。時の首相の無教養のせいで、酷い名を冠せられるのは御当人にとって残念なことではなかろうか。逆に、それくらいの“歴史的な忖度”は無いのか、と言いたい。
先の朝のワイド・ショウでは“令という漢字を見た時、最初にいい意味は連想しない。漢和辞典でも『命令』という意味が来る。(和して)「おとなしくしろ」って指示されているかのようだ。”国書・万葉集からの引用で“中国と関係ないというが、梅は中国の花”ではないか。従がって“最終的に「令はふさわしくない」。”との声が上がったという。確かに、この意見に合理的に反対できる要素は全くない。
私も発表当日、早速“令”について漢和辞典を引いてみた。
すると“覆い(王冠という説もある?)を示す△印の下に「人のひざまずく姿」の会意文字で、「人々を集めて、神や君主の宣告を伝える様をあらわす。」また「こうごうしい神のお告げ」から転じて、“令”に「清く、美しいの意を含む」ようになった。”ということが分かった。
“令息”、“令嬢”、“令室”等のように“令”には良い含意があるとされるが、それはその字源から見て本質ではなく、派生的に用いられた結果と考えるのが妥当であろう。なので先述の論語の伝は絶妙に“一見いい意味のようだが実は悪い意味で用いられた”表現であることが分かる。
またその後、無教養・安倍氏は国書・万葉集からの引用*と胸を張ったが、実は万葉集の表現は中国古代の古典“文選”の表現を下敷きにした表現であることが明らかにされた。何と古代日本の文化人がその教養を誇った習慣に従い、パクッた結果だったのだ。古代日本人には“本歌取り”に見られるように、パクることで“知っていることを誇り”、それを評価して認め合い、オリジナル表現を歌おうとする場面に適用する“独創”を尊重したのだ。現代では結果として、無碍に言えば、盗作なのだ。無教養・安倍氏はそれを知らなかった。
*“于時、初春令月、氣淑風和、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香”による。
その中国古典“文選”は、南朝・梁の昭明太子がそれまでの中国古典を編纂した詩文集で、万葉集編纂時、日本の古代文化人の教科書だった。知らなければ、恥とされる詩文集だ。そしてその肝心な部分の原典は、張衡の“歸田賦”であると明らかになった。
“『歸田賦』(帰田賦、きでんのふ)は、賦様式の一首。後漢王朝(紀元前202年~紀元220年)の官僚にして、発明家、数学者、天文学者であった張衡(78年~139年)によって書かれた。これは田園詩の中で後代に影響を与える作品である。” “「帰田」は「官職を辞し、郷里の田園に帰って農事に従うこと」を意味する。”張衡が”当時の皇帝「安帝」の愚かな政治、腐敗に嫌気がさし”、官職を辞し、郷里の田園に帰ったという故事によるらしい。この中の“於是仲春令月,時和氣清”の文言による。まさに漢籍のパクリと疑われても仕方がないが、それが万葉当時は教養(知っていること)の誇れる証だった。
張衡の仕えた王朝の暗愚・腐敗政治は安倍氏の忖度政治に繋がる話ではないか。やっぱりネ!これが良い意味だと、言えるのか。
元号の委員会を作って、漢籍学や歴史学者も含めて各案の審議を何故しなかったのだろうか。そこが首相の落ち度と言える。暗愚の極みと言える話だ。
ネットではこの真偽は話題になったが、キラキラ・ネームを良しとする世論は概ね好評だ。反知性の思考停止と忖度とで成り立つ社会では、語感だけで決めるのも良しとしているのだ。だが、その語感からは“零”を想起させたり、“冷い”印象も入って来るので、過去には元号構成文字として不適とされ排除されたこともある文字だと言う。こういうことから現代の教養ある人々からも“受け入れ難い”ものとなっているのは確かだろう。本来元号は一部の学者の反対があれば、これは採用するに足るものではない。それだけでケチが付いている。
だが、ここでもマスコミ・メジャーは忖度し、批判は完璧に抑制し、反対意見を秘匿ている。しかし、ここは本来将来のため言うべきことではないか。次期天皇が歴史上の“裸の王様”そのものとなってしまうではないか。
皇室を尊重しているハズの日本の右派・民族派のオツムの程度も知れる話だ。そういえば安倍氏もナショナリストではなかったか。
本来、天皇が時を制する意味で、暦を定め、元号を定めるのが日本の伝統である。それを近代になって、時の政府が容喙しその権力を皇室から奪って、勝手に決めるようになった。それは元に戻すべきではないか。元号を名乗るべき側の人が気持ちよく決められるようにすることが本来ではないかと思うのだ。
時には間違って政府にアホな宰相が誕生することもある。そのアホに勝手に縁起の悪い名前を決められたのでは迷惑極まりない。歴史上の汚点にもなりかねない。
政府は世界で日本だけの元号にこだわって、それで公式文書の日付を記すのはもういい加減に止めるべきだ。一方では“国際化”を言い募っているのと矛盾している。そして、皇室が独自に誰からも邪魔されずに元号を定めるという私的行為とするべきだと思うのだ。それを公的行為とするから、天皇の政治介入の問題となるのだ。民間では日付に元号を使おうが西暦を使おうが自由にする。これが元号の合理的な制定法であり使い方ではないかと思う。
とにかくキラキラ・ネームのような元号であっても語感だけで安易に歓迎する風潮は、反知性の思考停止と忖度とで成り立つ社会的心理が背景にあると思われることに、この社会の危うさを感じるがいかがだろうか。
しかし、国際的には北朝鮮の不穏な動きが認められるのと、ブレグジットがいよいよ期限が差し迫るにもかかわらず、英国議会はどちらにも動けずひたすらハードランディングに向かって時間を消耗している、という直近不安に満ちている。
差し迫ったリスク・不安から感想を述べると、先ずはブレグジット・リスクではなかろうか。国論が決定的に分裂し、いずれの主張も過半に達っせず、方向が定まらない。これは民主主義の危機という、大変な深刻な状態ではなかろうか。
このようにグジットは合意無き離脱となる可能性が非常に高いのが現実である。もし、合意無き離脱が成立すれば、それを織り込んでいない金融市場の混乱は甚大となると思われるが、世界のエコノミストの誰もそれを指摘しないのは、どういうことだろう。日本ばかりでなく、世界的にも思考停止となっているのだろうか。これが現代という危うさであろうか。
日常の平穏のすぐ傍に、巨大なリスク陥穽がポッカリと口を開けているのだ。核爆弾という目に見える危機ではなく、社会の仕組の中に目に見えない危機が潜んでいる。この危機は仕組であるがゆえに回避する方法はいくらでもあるように見えるにもかかわらず、誰もそれに手を付けようとしないのは、どういうことだろうか。これが人類史的文明病なのだろうか。
先月末、マドリッドの在スペイン北朝鮮大使館が暴漢に襲撃されたというニュースが入り、その後北朝鮮側が米国の仕業と発表した。さらにその後“自由朝鮮”と名乗る団体が大使館内のパソコンや通信機器を強奪して、米国FBIに引き渡したと声明したという。それに対し、米国国務省は一切関与していないと言明した。対外諜報活動にFBIが関与するはずもなく、むしろCIAと考えるのが自然であり、そうであれば韓国CIAも絡んでいると整理できるようだ。ポンペオ国務長官は前CIA長官であり、いよいよ半島情勢が本格的にキナ臭くなり始めてきた印象がある。このような水面下の動きが、軍を動員した正面切っての軍事行動に繋がっていく懸念も十分にある。
このように、北朝鮮という核爆弾を抱えた危機が再び迫っている。昨年の米朝首脳会談開催で一旦危機回避に見えたかのように思えたが、その実態は“首脳が顔を合わせた”だけで、北の非核化問題を何ら解消したものではなかった。
これは目に見える“物理的”に深刻な人類的危機である。“物理的”であるが故に生じた場合の被害実態は東アジアに限定される。したがって、日本人にとっては全く他人事ではありえない。にもかかわらず、それをハンドリングし阻止する能力を日本政府は持っていない。米朝と周囲の中韓のなすがままの状態なのだ。それで良いはずがないにもかかわらず、日本政府は何ら為すことを知らず唯々諾々としている。外交的に対米盲従の結果だ。そうした米国に魂を売った政権を日本国民は根強く支持しているのだから、仕方がない。
そうした魂を売った政権内では、“忖度”という病が大流行している。忖度病に罹った副大臣が、“得意気”に罹患したことを告白して、事実上の馘首となった。その前副大臣の問題発言によれば、モリカケ問題が“忖度”病の結果であると告白したのと同じだ。首相はこれを一旦は“かばった”のだ。あたかももっと“忖度しろ”とのサインを全ての政治家、官僚に示したかのようだ。“病膏肓に入る”とはこのことではあるまいか。
これまでの経過で、忖度病に罹ったのは外形的には財務省が先鞭をつけ、その後検察庁が発症した。政府内の2大権力が罹患したのなら他は押して知るべし。財務本省が罹患しているなら国税庁も必然的に感染しているだろう。
ところで米国ではトランプ大統領の納税申告書公開が問題となっているが、日本で政権中枢者の納税状況を公開する要求が起きないのはどういうことだろうか。そこに忖度がないとは言える保証はない。こうなればもう、政権中枢者と“お友達”になることが、自己利益増大に不可欠となるのは明らかなことだ。現にモリカケはその象徴だ。忖度という“超法規的措置”が横行すれば、近代的で民主的な法治国家とは言えまい。そのための“袖の下”もありではないか。“報道”もどうやら感染しているかのようで、“不都合な真実”は暴かれずに眠っている。春の番組改訂でオチャラケは増え、気骨ある論者は消えて行く傾向にある。あたかも北朝鮮や中国と同じ価値観の国家へと突き進んでいるかのようだ。
このように政権は正しく“死に至る病”に罹患していて、その肉体は既に腐敗している。その腐敗臭がそこはかとなく漂って来るにもかかわらず、国民はそれを強く支持しているのが日本の現実ではなかろうか。かつて、日本社会を“一億総「白痴」化”と呼んだ気骨ある評論家が居た。差別用語とされる文言が含まれているので今や死語となった観があるが、それが正しく実現している。思考停止の“反知性”が蔓延しているのだ。“アホで何が悪いッ?!!”
この“忖度”の結果、組織が凋落する様を日産自動車は端的に示している。強権を持った最高責任者に周囲の組織幹部が忖度して、悪事を許容した結果と見るべきなのだ。組織幹部が理非曲直を明らかにする矜持もなく、“強気に巻かれろ”とばかりに唯々諾々と“忖度”を繰り返した結果である。
その後日産経営陣は“社外取締役”を増強し改革するとしているが、これまでの監査役は何故任務を全う出来なかったのかを明らかにするのが先ではないか。その責任を徹底追及するべきだと考える。恐らく監査役自身が忖度したのではないか。このようにメンバーが“忖度”を繰り返すようであればいくら組織をいじっても形式にすぎず同じことになる。今度は現経営陣の下で“忖度”が始まるだけではないのか。
日本中が“忖度ソンタクせなソントク損得”と“忖度”の嵐に破廉恥にも付和雷同フィーバーしているのが現実ではないのか。日本人が論理的に思考をめぐらし、常に理非曲直を明らかにする理性と矜持を失ったのは何時からなのだろうか。思考停止と付和雷同、これが今の日本人、外国から見れば御しやすしと見えるのではあるまいか。現に日産自動車がそうだったし、その本質が残念ながら現政権にも認められるではないか。
さて、先週の最大のニュースは新元号の公表だった。伝えられた報道を総合すると、結局のところこれを決めたのは内閣総理大臣、その人ということのようだ。お勉強嫌いの反知性派の安倍氏とのこと。その無教養の果てが今回の元号制定へと繋がっている。
本来、元号は反対する人が殆ど居ないことが原則だが、今回はその無教養の本質が露わになり、翌日には歴史学者から“変だ”との声が朝のワイド・ショウで上がったという。問題は“令和”の“令”だ。
“令”で真っ先に思い浮かぶのは論語の「巧言令色鮮し仁」(口先がうまく[巧言]、顔色をやわらげ[令色:良い表情]て人を喜ばせ、媚びへつらうことは仁の心に欠けている)だとしていた。確かに、私もこの言葉が先ず浮かんだ。これが良い意味ではないのは明らかだが、一方では、ここまで指摘してきたように現政権の状況を象徴するのにピッタリのように思われる。
なので、マッそれで良いか!?…とはならない。何故か。それは元号がその時代の天皇の諡(おくりな・死後に奉る贈り名)となることが、慣例となっているからだ。時の首相の無教養のせいで、酷い名を冠せられるのは御当人にとって残念なことではなかろうか。逆に、それくらいの“歴史的な忖度”は無いのか、と言いたい。
先の朝のワイド・ショウでは“令という漢字を見た時、最初にいい意味は連想しない。漢和辞典でも『命令』という意味が来る。(和して)「おとなしくしろ」って指示されているかのようだ。”国書・万葉集からの引用で“中国と関係ないというが、梅は中国の花”ではないか。従がって“最終的に「令はふさわしくない」。”との声が上がったという。確かに、この意見に合理的に反対できる要素は全くない。
私も発表当日、早速“令”について漢和辞典を引いてみた。
すると“覆い(王冠という説もある?)を示す△印の下に「人のひざまずく姿」の会意文字で、「人々を集めて、神や君主の宣告を伝える様をあらわす。」また「こうごうしい神のお告げ」から転じて、“令”に「清く、美しいの意を含む」ようになった。”ということが分かった。
“令息”、“令嬢”、“令室”等のように“令”には良い含意があるとされるが、それはその字源から見て本質ではなく、派生的に用いられた結果と考えるのが妥当であろう。なので先述の論語の伝は絶妙に“一見いい意味のようだが実は悪い意味で用いられた”表現であることが分かる。
またその後、無教養・安倍氏は国書・万葉集からの引用*と胸を張ったが、実は万葉集の表現は中国古代の古典“文選”の表現を下敷きにした表現であることが明らかにされた。何と古代日本の文化人がその教養を誇った習慣に従い、パクッた結果だったのだ。古代日本人には“本歌取り”に見られるように、パクることで“知っていることを誇り”、それを評価して認め合い、オリジナル表現を歌おうとする場面に適用する“独創”を尊重したのだ。現代では結果として、無碍に言えば、盗作なのだ。無教養・安倍氏はそれを知らなかった。
*“于時、初春令月、氣淑風和、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香”による。
その中国古典“文選”は、南朝・梁の昭明太子がそれまでの中国古典を編纂した詩文集で、万葉集編纂時、日本の古代文化人の教科書だった。知らなければ、恥とされる詩文集だ。そしてその肝心な部分の原典は、張衡の“歸田賦”であると明らかになった。
“『歸田賦』(帰田賦、きでんのふ)は、賦様式の一首。後漢王朝(紀元前202年~紀元220年)の官僚にして、発明家、数学者、天文学者であった張衡(78年~139年)によって書かれた。これは田園詩の中で後代に影響を与える作品である。” “「帰田」は「官職を辞し、郷里の田園に帰って農事に従うこと」を意味する。”張衡が”当時の皇帝「安帝」の愚かな政治、腐敗に嫌気がさし”、官職を辞し、郷里の田園に帰ったという故事によるらしい。この中の“於是仲春令月,時和氣清”の文言による。まさに漢籍のパクリと疑われても仕方がないが、それが万葉当時は教養(知っていること)の誇れる証だった。
張衡の仕えた王朝の暗愚・腐敗政治は安倍氏の忖度政治に繋がる話ではないか。やっぱりネ!これが良い意味だと、言えるのか。
元号の委員会を作って、漢籍学や歴史学者も含めて各案の審議を何故しなかったのだろうか。そこが首相の落ち度と言える。暗愚の極みと言える話だ。
ネットではこの真偽は話題になったが、キラキラ・ネームを良しとする世論は概ね好評だ。反知性の思考停止と忖度とで成り立つ社会では、語感だけで決めるのも良しとしているのだ。だが、その語感からは“零”を想起させたり、“冷い”印象も入って来るので、過去には元号構成文字として不適とされ排除されたこともある文字だと言う。こういうことから現代の教養ある人々からも“受け入れ難い”ものとなっているのは確かだろう。本来元号は一部の学者の反対があれば、これは採用するに足るものではない。それだけでケチが付いている。
だが、ここでもマスコミ・メジャーは忖度し、批判は完璧に抑制し、反対意見を秘匿ている。しかし、ここは本来将来のため言うべきことではないか。次期天皇が歴史上の“裸の王様”そのものとなってしまうではないか。
皇室を尊重しているハズの日本の右派・民族派のオツムの程度も知れる話だ。そういえば安倍氏もナショナリストではなかったか。
本来、天皇が時を制する意味で、暦を定め、元号を定めるのが日本の伝統である。それを近代になって、時の政府が容喙しその権力を皇室から奪って、勝手に決めるようになった。それは元に戻すべきではないか。元号を名乗るべき側の人が気持ちよく決められるようにすることが本来ではないかと思うのだ。
時には間違って政府にアホな宰相が誕生することもある。そのアホに勝手に縁起の悪い名前を決められたのでは迷惑極まりない。歴史上の汚点にもなりかねない。
政府は世界で日本だけの元号にこだわって、それで公式文書の日付を記すのはもういい加減に止めるべきだ。一方では“国際化”を言い募っているのと矛盾している。そして、皇室が独自に誰からも邪魔されずに元号を定めるという私的行為とするべきだと思うのだ。それを公的行為とするから、天皇の政治介入の問題となるのだ。民間では日付に元号を使おうが西暦を使おうが自由にする。これが元号の合理的な制定法であり使い方ではないかと思う。
とにかくキラキラ・ネームのような元号であっても語感だけで安易に歓迎する風潮は、反知性の思考停止と忖度とで成り立つ社会的心理が背景にあると思われることに、この社会の危うさを感じるがいかがだろうか。
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