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“マイケル・サンデル 大震災特別講義”を“原子力”の視点で読んで

原子力エネルギーはやっぱり難しい問題だ。この問題は、本来はもっと若い時に見極めておくべきものだった。それが、近大の炉に触れる機会を得て、ようやく考えるきっかけを手にすることができたところだ。それから、当面、私の頭を占有し続ける大テーマとなってしまったのだ。
ところが、この世にある議論で 賛成派または推進派のものは ためにする議論が多い。例えば、CO2を排出しないクリ-ン・エネルギーだと言うのは、後述するように言い過ぎで詐欺に近い。さりとて、反対派の議論も感情的に過ぎる。例えば、どんな放射線も有害だとするのは極端に過ぎる。一般の人々に自然放射線の存在を示さずに、こういう議論を進めることは、一般人が実際に放射能測定をしてみた時に、必ず存在する放射能に驚き無用に怯える原因を作っていることになっているのではないか。だが、この世の全ての生命は、その発生の当初から そうした自然の放射線の脅威の下に進化してきたのであって、その進化の過程で必ずその放射能に対する耐性を備えて来ているはずだ。放射線に対し全く無防備のままで現在に至っている訳ではないと考えるのが合理的思考であると思う。もし、それが間違っているならば、地上よりはるかに多い宇宙線飛び交う中で長時間を過ごす宇宙飛行士は、生存し続けることが困難であるはずではないか。だが、我々はそのような事例を結構な数の宇宙飛行士達の中には見ていない。
こういう状態の中にあると、一体 誰が本当のことを言っているのか、どういう本や情報を入手するべきか本当に困ってしまう。という訳で、古くから梅田にある書店の中を歩き回っていると、この度の震災・津波災害のコーナーがあり、その中で原発問題を取り上げた本の箇所があった。さすがに震災直後より、こういう原発本は多くなっている。そのような中に、今年の初めテレビで見て、私の中でもマイ・ブームになりかけて、その後忘れかけていた正義論のサンデル先生の写真の貼付された薄い本があった。正義論で原子力問題はどのように議論されるのか、どういう視点が必要なのか 非常に興味が湧いたのであった。しかも本が薄く60頁だというのは、遅読の私に読む勇気を与えてくれた。

さて、衝動買いに近い心理状態で買って、読み始めて愕然。どうも、震災後NHKが放映した番組を本にしたもので、しかも、その番組は、本の中で発言している人を見ると、私が見たことのあるものだったのだ。まぁ、映像を活字化した資料もあっても良いかとの意識で読み始めた。
この番組はサンデル教授が企画し、NHKのスタジオ参加者を中心に、アメリカ・ハーバード大・学生8名と中国・復旦大学・学生8名、東大・早大・学生8名とで米・中・日とグローバルに結んで議論しようというものだった。スタジオ参加者は石田衣良(作家)、高田明(ジャパネットたかた社長)、高橋ジョージ(ミュージシャン)、高畑淳子(女優)である。
その内容は、“日本人が見せた混乱の中での秩序と礼節”へのグローバルな感嘆から共感へ変化して行ったが、その共感が国家的規模になりうるものなのか どうなのかという議論の展開となっていた。サンデル教授は、皆に議論させた後、ジャン・ジャック・ルソーの次の言葉を引用している。この言葉の中では偶然にも日本で起きる災害を例えに挙げている。“人道主義の精神は、世界全体に広げると薄まり、弱まってしまうようだ。私たちヨーロッパ人は日本で起きた災害に、ヨーロッパを襲った災害と同じだけの衝撃を受けるわけではない”。こうした言葉の紹介の後には、さらに共感の哲学者でもあると言われるアダム・スミスの同じような言葉も引用し、同じように解説している。
これに対して、大半の議論参加者はIT技術が進歩し災害の状況をユーチューブで見られる時代には、そういう遠隔地意識は薄くなってきて共感意識は強くなって来ているという意見を述べ、日本の東北人の行動に誇りを持てたという米国人さえ登場していた。つまり、こうした共感が国家を動かすほどの強さにまでは育っていないが、ルソーやスミスが言うほどの他人事では無くなって来ているというのが、現代の会場全体の一致した見解となっていた。

実はこの番組企画は、震災前から準備がなされていたのであり、“(社会的問題に対する人道主義の精神への)私たちの姿勢、社会的な関係や国際的な関係についての私たちの理解の仕方について、公共的な対話”が必要であり、“そこでは単なる共感を超えたものが必要”となる。このことに関する「グローバルな教室」を作ろうとして企画した番組であると教授は明かしている。
そして、この本の終盤でサンデル教授は18世紀のリスボンの地震に言及している。この地震は、それまで繁栄を誇っていたポルトガル王国を、一気に凋落させるきっかけとなった災害であって、この度の東日本地震も下手をすると、同じように日本を凋落させる契機となりうるのではないかと日本の一部では囁かれている。このリスボン地震の後、ヴォルテール、ルソー、カントらによって、この地震の哲学的意味をめぐって論争がなされ、それは啓蒙思想の幕開けの時代と重なった。“現在は、いわゆるグローバルな時代の黎明期”にあり、“グローバルな市民意識という願望は、まだたどたどしく、確かな歩み”とはなっていない。“今回の地震を、グローバルな市民意識の拡大のための機会とするためには、テクノロジーの発展だけでは”不十分であり、“震災とその意義について、共に考えようとする私たちの意欲と能力が問われている”と結んでいる。これが サンデル教授の目指すこの企画での当面の結論であった。

こうした議論の中で、原子力にまつわる価値観の議論もなされている。すなわち“より安全な原子力が存在したとしても常にリスクはあり、そのリスクは引き受けに値するものなのか。・・・なぜ、われわれは豊かさや生活水準の向上を重視するのか、経済的に高い生活水準と人間の幸福との関係をどう考えるのか、という問題にも向き合うことになる。”そして、“原子力のリスクは、飛行機に乗る時のリスクと同様に、そもそも受け入れるべきものなのだろうか。それとも、あのような甚大な被害を引き起こしていることを見ると、やはりそこには異なる種類のリスクがあるのだろうか。”最後に“自然と人類の関係をどのように考えるべきだろうか。”こう言った点をサンデル教授が指摘しており、こうした点が原子力にまつわる哲学的テーマ、ということになるのであろう。
原子力の場合、リスクとどう向き合うのかがテーマになるようだ。やはり、リスク評価論が問題になる。正義論の側からは、評価基準を提示する立場になる訳だ。その時、
①原子力によって得られる生活の豊かさというか豊かさに関連する人生の価値観から事故リスクをどう見るか。
②社会を崩壊させるほど甚大な被害を及ぼすリスクには 日常のリスクとは異なる評価方法が必要なのか。
③原子力による環境破壊を“自然と人類の関係”でどう評価するのか。
ということが、視点になると言っている。
①はエネルギーを使って得られる豊かさをどこまで求めるべきなのか、或いは これ以上の豊かさは必要ないとするべきなのか、という問題だ。既に 地球上に過剰となっている人口、その人々にまだ現状以上のエネルギーを必要として良いのか、という問題となる。だが、一方では、エネルギーを多用する現代文明の恩恵に浴していない貧困や社会不安に怯えながらようやく生きている人々が多数この地球上にいるのも事実なのだ。
②は実は 私も問題だと考えていた重要な視点だ。リスク学の根幹にかかわる問題ではないかと私自身考えており、私の中では未だある程度の見方すらできていない。
③は小出裕章氏のパンフレットや著作にデータが詳しく紹介されている。CO2による地球温暖化に対し、原子力は発電時クリーンなエネルギーと言えるが、それはまやかしだと小出氏は鋭く指摘している。例えば、原発の燃料たるウラニウムの採掘から、輸送、精錬、濃縮、原発で使用後の廃棄物の保管で膨大なCO2を排出しているという指摘である。さらに、次の指摘は原発にとって致命的である。それは発電所でウラニウムから取り出した膨大な熱量の内3分の2は無駄に温排水として排出しているということだ。発電時CO2を排出していないが、肝心の熱を大量にしかも無駄に排出して発電所周辺の環境を破壊しているという指摘だ。直接的に地球温暖化に寄与していると言うのだ。
ここまで来ると、原子力には有利な点は①、不利なのは③、不明なのが②となるといったところのようだ。今後、熟慮するべき点である。

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