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最近 “変だなぁ?”と思ったこと

何気なく あるテレビの時事番組を見ていると、勇壮な戦場場面がCGで映し出される。そして“未だ見ぬ美しさ”とアナウンスが入る。人の殺し合いの場面を 少なくとも“美しい”と表現するのは不穏当である。悪者集団をやっつける場面だから良いとでも言いたいのだろうか。携帯端末のCMのようだが、一体 どういう感覚なのだろうか。ゲーム制作者は、こんな感覚なのだろうか。公共広告機構は これをどう考えているのだろうか。
少なくとも “殺人場面”を美化することには慎重であるべきだ。それが仮想であれば許されるなどという発想は 止めたほうが良い。“戦争”に対する神経が 麻痺するからだ。

そして、いよいよ本番組で、ある自民党議員が 尖閣問題に関係して口走ったことに驚いた。
“中国に対処するのに、(海上保安庁では生ぬるい)自衛隊で対処するべきだ。”
このような一国の政治家の発言とは思えない 常識を欠いた発言に呆れてしまった。世界中で国境警備を 直接軍隊が行うのは その国がよほど成熟していない国家か、今 正に一触即発の軍事的危機下にある場合くらいに限られるからだ。国境警備を 直接軍隊が 行えば ちょっとしたいざこざが すぐに本格的戦争に発展してしまうので、警察的機能を持った警備隊を配備するのは 近代国家の常識なのだ。
そもそも、軍隊と警備警察が未分化なのは、余程の未開発国家なのだ。中国では天安門事件に際して、解放軍が直接鎮圧に乗り出して来た。そして 世界的に恥をかいたものだった。それを反省して、その後、武装警察を配備し、事ある毎に、武装警察隊が登場するようになったのだ。
この自民党議員は 女性だったが こういう常識に欠けていたことに 驚く次第なのだ。どうやら、よっぽど戦争がしたいという潜在意識が そう言わせているのだろうか。女性は戦場には 直接参加することはないという意識から、無責任な発言をしているのかも知れない。

そして、その番組では少子化も取り上げていた。それは日本にとって一体、本当に困った問題なのだろうか。確かに 少子化は社会を沈滞させる要素をはらんでいる。経済的には決定的に不利に働く要素ではある。
しかし、人口の増大は、CO2の排出を必然的に増大させることを想起するべきだ。人口が増大すればエネルギー、資源の消費は増え、廃棄物も増大する。環境問題は、人口増大問題なのだ。そいう認識も無く、一方的に“少子化”を社会問題として簡単に考えてよいのだろうか。
地球は 人口増大によって既に、持続可能性を失いつつある。エコロジカル・フット・プリントを計算すると、地球人口は約20%多いと言われている。そして、食糧は 2025年には不足し始めると言われている。本当の危機は、人々に知られずに、そうっと目前に迫っているのだ。戦争を待ち望む人には、そしてそれを“美しい”と言える人には、絶好の場面が近付いていると思って良いだろう。

そう言えば、ある環境団体のホーム・ページを見ていて、ひっくり返るほどびっくりしたことがある。“経済成長と持続的可能な発展は両立する。”と断言していたのだ。一体 誰が科学的な推論でそのような結論を出したのだろうか。今、立派な経済学者達は、どうすれば そのような結論を出せるのか悩んでいる最中なのにもかかわらず・・・。彼らは その問題に どうしても ちゃんとした答えが出せずに困っているのだ。それにも関わらず、どうして あのような断言ができるのか。ある種、宗教的妄念に基づいているのだろうか。一見、科学的な装いで“環境保護”を人に訴えているが、実は妄信に基づいた想念を人々に押し付けるのは サギ以外の何者でもない。
先程 言ったように地球の持続可能性を維持するためには、人口を20%削減し、なお且つ、人々の生活水準は 発展途上国並に落とさなければならない。その発展途上国とは 具体的には中国の平均よりもっと低いものと言われる。そのような生活水準に どれだけの日本人が耐えられるのだろうか。地球の真の持続可能性を獲得するには、相当な犠牲を覚悟しなければならないと 肝に銘じるべきなのだ。そこには 熾烈な生存争いも当然起きると思うべきだ。

こういう環境保護団体は よく“予防原則”という概念を 持ち出して来る。これは国際的に確立した概念になっているようだ。しかし、実はここれは、法学的には非常に危険な考え方なのだ。科学的に立証されなくても 少しでも障害になるようならば、それに対処するべきだ、というのが“予防原則”なのだが、これは戦前の“予防検束”につながる危険な考え方なのだ。残念ながら、そういう議論をしている人を私は見たことが無いのが恐ろしく感じる。“予防検束”とは、本来 精神障害者を社会の治安維持の障害になると見做して、予防的に取り締る規制であった。しかし、それを拡大解釈して、思想犯をこの“予防検束”で取り締ったのだ。そういう危険な考え方は、人々の自由な発想を奪うものであるという警戒心を持つべきなのである。その危険な 概念を振り回す“環境保護活動”は 要注意だと見るべきではないか。

そういう問題の真相への深い認識も無く、目前の問題だけに 目くじらを立てていることほど、バカバカしいことはないと思うが、世の中は結構 お気楽なのだ。そんな ことで良いのだろうか。最近の世の中 本当の常識を欠いたことが しばしば話題になるように思うが、これはどういう傾向なのだろうか。

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