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今の日本の政党―総選挙を前に

今、日本には15?の政党があるという。だがしかし、どれも、これも間尺に合わぬ。帯に短し、タスキにも短し。何時まで経っても減らず口な連中ばかりだ。一向に 目処が立たない景気対策や、すっきりしない外交政策ばかりだ。それから、年金をはじめとする社会福祉政策。21世紀を乗り切るための日本の社会構造のグランド・デザインを提示しなければならないはずだが、政局、政争で明け暮れて、とうとう衆議院解散と相成った。
21世紀のグランド・デザインと言えば、“東北の震災復興無くして、日本の未来はない”と言ってはいたが、それはどうなったのか。“当然のコト”であって、争点とはならないとでも言うのか。復興の速度の遅さや予算の使い方に明らかに問題が散見されるのだが、マスコミも含めてそうした問題点への深い切込みを寡聞にして聞かない。復興活動全体のマネジメントの問題点をえぐり出す統合的分析能力は日本人には欠けているのだろうか。そこにこそ、政治家や官僚の働きのの本質的問題があるような気がするが、誰もそれに触れようとはしない。何故なのだろう。話題の第三極を目指す政党の多くは、自立を重んじる小さな政府を目標にしているので、それは“小さな問題”なのかも知れない。

そうは言うものの政権与党であった民主党の それなりの必死さに比べ、自民党は結構相変わらず昔の夢を追っている印象だ。何だか余裕の気分すら漂っている。まるで野党ボケが始まったかのようだ。国土強靭化或いは日銀を脅迫しての金融緩和等、旧弊の何ら 反省の色なく、知恵無く、際立った政策の変更もなく 昔の顔で再出発のつもりのようだ。その昔の顔、何ら“お勉強”している気配なく、経済特に金融を知らず、歴史を知らず、それで相も変わらず政治ができると思い込んで自己陶酔に耽っている。壊れた昔の蓄音機。そんなことで票が伸びる、或いは政権が転がり込むと思い込んでいる単純さは 有権者を小バカにしている。

一方、大阪に巣食っていて政治的に第三極の筆頭と目されている輩達、特にその頭目たる大阪の市長クンは、東京の知事だった極右の小説家を党首に迎えることができて、すっかり有頂天。“政策の一致が重要”と言い続けた挙句、自分たちの政策を相手に“丸呑みさせた”と強がって見せたが、内容を精査するとどうやら“丸呑みさせラレた”と言うのが 真相のようだ。これが野合でなくて、何を野合と言うのか。どう見ても、相手の方が海千山千で一騎当千の老獪な妖怪ばかり。その連中が あっさり他人の主張を鵜呑みするハズがない。かの市長クンの政策理念は一体どこへ行ったのか。マスコミが注目するに従い、かねての主張をごまかす傾向にあるように見える。その傾向から、彼の政策目標は“手段”であって、目的ではないように思える。それに どうやら“好き、嫌い”で連携相手を選んでいるフシもある。だから、政策の一致が二の次になるのではないか。だが、“政策こそ目的・目標”であって、政治は“好き、嫌い”ではするべきではないはずだ。
それに、かの市長クンの大好きな小説家は、もう賞味期限切れで失敗続きの御老人ではないか。私物化した東京都をダシにして、前後の見境なく尖閣の“都有化”をワザワザ米国で叫んで、時の政権を“国有化”に追い込んだ。それを見た北京政府は逆上して、中国市場で日本資本を狙い撃ちした。これで、日本企業が蒙った被害は甚大。特に、日系自動車の売れ行きは急降下。その結果アメ車が売れたのではないか。結局、あの爺様 米国で上手く乗せられ、米中の仕掛けたワナに見事にはまった道化ではなかったか。著しく国益を棄損させた。ところが、このピエロ全くその自覚なく、しかも責任も取らずに ほっかむりを決め込んでいる。これぞ立派な売国奴・国賊以外の何者でもない。ところが、このジイサン何故か上から目線で暴走を繰り返す。

少し前、明らかに大阪の市長クンとお仲間だと思われていたコラムニストが あるテレビ番組で斎藤環氏の本を取り上げ、この市長をヤンキーだと分析していることを紹介し、その見方を肯定していた。そして“維新の会は暴走族の集団”と言いきった。続けて“暴走族はヘッドの顔は見えても他の顔は見えない。上下関係に厳しく、家族を愛する。情緒的であり、知的ではない。行き当たりばったりで、その場の判断で おせっかいでもある。”とも、解説していた。この発言には、事実を細かくは知らないが、何となく両者に類似性があるかのように思いこませる作為的なものを感じるが、何よりもこのコラムニストが かの市長君とは袂を分かったような発言に ビックリ仰天したものだった。
さらに彼は、東京の極右の小説家を 知的であり 日本文化を敬愛し、尖閣の問題も長年根回しし、ようやく今の段階へ持ち込んだのであり、文楽を毛嫌いする大阪の市長クンとは全く体質が異なると言っていた。しかし、私には あの老作家も知的を装ってはいるが、肝心なところでその知的な詰めが甘く、ことごとく失敗して来たとしか見えない。不用意に“尖閣”を持ち出して、日本の国益を著しく損なったではないか。そして、何よりその親族を大切にしている風は、暴走族の総長そのものではないのか。つまり、その体質は大阪の市長クンと何ら変わるところがなく、それが故に野合し、両方とも有頂天なのではないか。
それにもかかわらず かの市長クン、その爺様との連携が実現して、互いにペロペロ有頂天。これは耐え難くグロテスクな茶番劇だ。その上、どう見ても今は大阪の地域政党なのにもかかわらず いつのまにかすっかりナショナル政党と言い出して、どうやら本気でそのつもり。この様子から彼等も 大阪の有権者を大いにバカにしていると言える。
この点において、大阪の市長クン、大阪人気質を完全に見誤ったと言える。大阪の人間には、何より“上から目線”が全く体質に合わないことをご存じないのか、お忘れなのか。本当の大阪人は、あのように人を小ばかにした御仁を持ち上げる人間を激しく嫌悪し、全く信用することはないということをご存じないのだろうか。あらためて思えば市長クン、大阪にはどこかしっくり馴染まないモノをお持ちのようだ。これで、大阪の市長クンのポピュリズム暴走族ごっこも 暴走老人共々そろそろ愁嘆場に近付いたのではないか。“維新”という言葉のアナクロニズムにも、大阪人には そろそろ鼻について来始め、“笑顔のファシズム”の正体に気付き始めるのではないか。
こう見て来ると 何となく、“みんなの党”の方が 清新で真っ当に見えてしまう。だから、かの市長クンも慌てたのか、彼らに合流を呼びかけたが手順を決定的に間違えてしまった印象で、取り返しの付かない地点に到ってしまったようだ。どうやら妖怪政治家連と交わることで胡散臭いイメージに覆われて来てしまった。それとも それで返って彼らの本質が明らかになっただけかも知れない。

こうして見て来ると、民主党の土壇場での解散劇と それに引き続く純化路線は 好ましく見えてくる。私利私欲の元幹事長を退出させ、政治的に脇甘のノー天気元首相も締め出してメデタシ、メデタシ。だが、一旦 官僚に売り払った魂を どう取り戻すのか。それを具体的に示さなければ、彼らを頼れる政治家としては信用できない。それとも、もう魂は なくなってしまったのか・・・。真の政治優先の あり方とは どんなものなのか、しっかり提示できなければならないのだが・・・。

こうなると今や誰に期待するべきかが 全く見えない。特に日本の民族派リベラリストが 全く登場していないのが残念・・・・。それとも、そもそも民族派リベラリストというものが日本では成立しないものなのだろうか・・・。この民族派リベラリストこそ、政府による手厚い保護を目指す政策を主張し、東北復興の現状の本質問題をあばき、政治家や官僚の働きを正す役割を果たすべきなのだろう。
♪“生れた土地は荒れ放題、今の世の中、右も左も真っ暗闇じゃござんせんか。 何から何まで 真っ暗闇よ。”
こうつぶやいても 何も生まれないのだが・・・分かっちゃいるけど・・・考えることにも疲れて絶望し、意識は遠のく・・・コックン・・・グー・・  o( _ _ )o...zzzzzZZ

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