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そうだ!清水寺に行こう!―“ザ・キョウト”のお寺の拝観

“ウクライナ戦争”、最早、そう呼んでよいのではないか。報道はコロナ禍に飽きたかのようで、戦争一色。
だが、何故か日本国内のコロナ禍は治まっていない。各地の実効再生産数は0.94~0.97あたりで一向に低下して行かない。何故なのか。不気味感は残尿のように残る。それに各地のマンボウの現状が、どうなっているのかが判然としない。緩みっぱなし・・・が実態。
これからコロナ禍は下火となるハズの春。マッいいかッ!?こんな情緒的対応で良いのだろうか。政府が科学的知見を示さず、それに基づく政策を実行しないため、モッ、どうえもええかッ~?!
気の毒なのは、置いてきぼりの医療関係者、保健所ではないのか。日本人お得意のウヤムヤ・・・。

ところで、そのウクライナ!
“ウクライナ侵攻!!戦線は今のところ膠着したかのように見える。”
先週はこのような意味のことを書いたが、その戦況が露軍にとって好転したという報道は全くない。ということは、露軍にとって事態は好転せず、ということなのだろう。それはじわじわと露軍が決定的な不利な状態に落ち込むことを意味するのではないだろうか。
現に露軍の補給が思うに任せない状態のようだ。補給:兵站は武器・弾薬・車両燃料ばかりではない!地番重要なのは前線兵員の食糧なのだ。“補給が思うに任せない”とは、戦線でその食糧が不足しているという意味ではなかろうか。補給線も寒冷期が過ぎ、“ぬかるみで停滞”の由。さらに供給を中国に要請とは、補給線の輸送ではなく、生産の問題なのか。国家の根幹の生産力が衰退しているのではないのか。
さらに露軍将軍の戦死が伝えられている。皆、少将なので第一線の師団長クラスか。前線の将官は20人だったが、その内の4人という、驚くべき高率の戦死なので、狙撃だろうと思われている。前線での連絡が普通の携帯電話なので所在が分かり易いという。なんというお粗末!

このままぐずぐずやっていれば、やがて露軍は前線から崩壊するのではないか。食糧なく前線の軍のトップが戦死すれば、前線兵士の戦意は喪失する。部隊丸ごとの降伏が続々と出始めるのではないか。
それは戦争を仕掛けた側の敗北を意味する。それはお粗末というよりアホの極みだ。
ならば先週も言ったが、その膠着打開のため、国際的に使用禁止のABC兵器の使用の懸念も十分にあるかも知れない。

そこで宇露停戦交渉だが、それによって露はだまし打ちをするだろうとの日本の専門家たちの話だった。“ロシア人個人との関係は良い奴ばかりだが、これが政府・国となると、これほど酷い奴はいない。”これが対露イメージの典型であろう。それは70年前の樺太、千島侵攻で見られた事実なのだ。
こんな事ばかりしていては、ウクライナ侵攻で不利になるのは露軍ばかりではない!ロシア社会、ひいてはスラブ社会全体に及ぶのではないか。恒久停戦となっても、その様々な影響は残る。対露信頼感は地に落ちているからだ。
復活を夢見るゾンビのような巨大なソ連帝国の亡霊が、人々を苦しめているのだ。どう考えても、ゾンビ復活はムリ!にも拘わらずの侵攻なのだ。プーチンは狂った独裁者。今はその断末魔の入口。滅茶苦茶な惨殺、ジェノサイドが起きている。その犠牲になる人々がいるのが、耐え難い・・・・・・。それがこの世のならい、いつまでも無くならない現実のようだ。

宮城・福島で震度6強の地震があった。11年前の東日本大震災の余震だという。それはまだまだ収まらないという。
一方では、西日本の太平洋岸には南海トラフ地震が待ち構えているという。2030±5年の精度で必ず起きるという。この災害の多さに国力が疲弊しないことを祈るばかりだ。
国際的には、北方と西方の政治的・軍事的脅威にも備えなければならない。この度の戦役で、北方の脅威が減少することを期待したいのも事実だ。


さて、この度もまた京都での午後の研修会の時期となった。その午前中の時間をどのように使うか・・・京都観光・・・マンボウ?知るかッ!・・・残念ながら、梅の季節は寸前で終わってしまっている。美術館も軒並み、春の展示会に向けての準備期間となっている。
ウーン!神社仏閣か?そうだ!清水寺に行こう!外国人や観光客の少ない内に行って見よう!それがマンボウでも、細々営業している業者さんの少しでも助けになるのならばと、身勝手な論理で行こうと決意した。多少の雨でも、それは今しかない!

清水寺(きよみずでら)はWikipediaによれば、以下の通り。
正式には音羽山清水寺(おんわさんきよみずでら)と号する。もとは法相宗に属していたが、現在は独立して北法相宗を名乗る。西国三十三所第16番札所。
広隆寺、鞍馬寺とともに、平安京遷都以前からの歴史をもつ京都では数少ない寺院の1つである。また、石山寺(滋賀県大津市)、長谷寺(奈良県桜井市)などと並び、日本でも有数の観音霊場である。
古都京都の文化財としてユネスコ世界遺産に登録されている。

草創縁起は大略次の通りである。宝亀9年(778年)に、大和国の興福寺の僧で当時子島寺(奈良県高市郡高取町に現存)で修行していた賢心(後に延鎮と改名)は、夢のお告げで北へ向かい、山城国愛宕郡八坂郷の東山、今の清水寺の地である音羽山に至った。金色の水流を見出した賢心がその源をたどっていくと、そこにはこの山に篭って滝行を行い、千手観音を念じ続けている行叡居士(ぎょうえいこじ)という白衣の修行者がいた。年齢200歳になるという行叡居士は賢心に「私はあなたが来るのを長年待っていた。自分はこれから東国へ旅立つので、後を頼む」といい残して去っていった。行叡は観音の化身であったと悟った賢心は、行叡が残していった霊木に千手観音像を刻み、行叡の旧庵に安置した。これが清水寺の始まりであるという。
その2年後の宝亀11年(780年)、鹿を捕えようとして音羽山に入り込んだ坂上田村麻呂は、修行中の賢心に出会った。田村麻呂は妻の高子の病気平癒のため、薬になる鹿の生き血を求めてこの山に来たのであるが、賢心より殺生の罪を説かれ、観音に帰依して観音像を祀るために自邸を本堂として寄進したという。後に征夷大将軍となり、東国の蝦夷平定を命じられた田村麻呂は、自身が建立した清水寺に平定参拝をしたという。その後、若武者と老僧(観音の使者である毘沙門天と地蔵菩薩の化身)の加勢を得て戦いに勝利し、無事に都に帰ることができた。延暦17年(798年)、田村麻呂は延鎮(御賢心改め)と協力して本堂を大規模に改築し、観音像の脇侍として毘沙門天と地蔵菩薩の像を造り、共に祀ったという。以上の縁起により、清水寺では行叡を元祖、延鎮を開山、田村麻呂を本願と位置づけている。

いつものように阪急電車で入洛。四条河原町から市バスで清水道に向かう。小雨だが、やっぱり鬱陶しい。バスから降りて、傘をさして、清水坂入口でようやく、喘息で息が上がるのにようやく気付いた。いつもより体調が悪そう。こういうことは実際に直面しないと知ることができない現実。それでもゆっくり登ればと、歩き出す。やがて、坂道の両側に商店が現れて、とどのつまりが清水寺の赤い仁王門前の広場。そこから又してもの登りの階段は少々辛い。



仁王門の足下に赤い花をつけた木が満開だった。梅の季節は終わったところで、桜には早い。ならば桃であろうか。

仁王門の下の階段を登ったところで、北側に礎石のようなものがあり、その説明の掲示板があった。“この石は明治8年(1875)内務省地理寮(後に地理局)により、英国の測量技術を導入して、京都市街地図を作成するために設置された基準点です。地下に埋設されている基準点標石の上端に刻まれている対角線の中心が基準点となっています。基準点一式の形状は三つの石組よりなり、現存する唯一の物で近代測量及び地図作成技術を知る上で貴重な歴史資料ですので大切にて下さい。”
複数のネット情報ではどうやら、“仁王さんのへそ石”と呼ばれ、話題になったうだが、2000年の京都府文化財保護課による清水寺仁王門を含めた寺院の一部補修工事の際この石が標石であることが明らかになったようだ。
どうして、このような清水寺境内に標石を置いたのかまでは、書かれていないが、明治初期京都市街の各所からこの仁王門が見えたので、測量の基準点としやすかったのかも知れない。

仁王門を過ぎると、また赤い伽藍。西門とそれにつながったような三重塔。そこを通過して、ようやく拝観料支払、400円。するとすぐ、本堂への入口。
本堂の前の舞台が見える。幼い小学生の頃に遠足で来た時と変わらない光景を思い出した。前に若干傾斜した舞台が、少し怖かった記憶がある。この傾斜は今も変わらない。ということは、これはこの舞台が出来て以来変わっていないのだろう。
舞台の前にひらけた光景。右手には京都の南部市街、特に京都タワーが目立つ。小雨にけぶって、写真には写り難い。真南には、子安の塔。その向こうに阿弥陀ケ峰、つまり山頂には豊臣秀吉を祀る五輪石塔がある。昨年末にはここへ登って、こちら清水寺を臨んだのだった。
御本尊は御簾の彼方。畳の礼拝の間に何故だか上る気がせず、素通りした。今思えば、雨の鬱陶しさが気分を消極的にしていたのではないか。



本堂を出ると、左手に地主神社。幼いころのこの神社の記憶はない。その後、誰かが“恋占いの石”や“のろい杉”を上手く神社の特徴として、有名にさせたのではないか。いずれにせよ、私には無縁のことで、これも素通り。
右手の行く手に谷を隔てて、阿弥陀堂と奥の院がある。これも朱に塗られて目立つ。阿弥陀堂に入ると、今度は金色の阿弥陀像が見えるが、残念ながらこの阿弥陀像は有名でないのではなかったか。
奥の院から地道を通って、子安の塔の麓へ。主要伽藍の全景がみられるとの案内板があったので、塔へ登ることにした。
Wikipediaによると子安塔は重要文化財の三重塔とのこと。 “明応9年(1500年)再建。高さは15メートル。元は仁王門下の南側、警備詰所のあたりにあったが、1911年(明治44年)現在地に移築された。聖武天皇・光明皇后の祈願所だとされる。名前のとおり、安産に大きな信仰を集めてきた。産寧坂(三年坂)の名は移転される前の子安塔への参詣道の名である。”



子安塔から降りていくと、音羽の滝に出る。これもWikipediaによると“奥の院の建つ崖の下にあり、不動明王が祀られている。清水寺の寺号の由来である「金色水」「延命水」などと呼ばれる霊水が3本の筧(かけい)を通して流れ落ちている。なお、裁縫中に針が失せた時、次の唱え言を三回唱えると必ず見つかるとの俗信がある。「清水や 音羽の滝は 絶ゆるとも 失せたる針の 出ぬことは無し」”とある。
音羽の滝は前に来たときは、こんな石造りではなかったような気がする。記憶違いかもしれないが、単に山から湧く泉、それだけのものではなかったか。もっと素朴な竹樋を使っていたように思い、有難みが艦居られなかった。勿論、柄杓も金属などではなく、恐らくコロナ禍対策の紫外線消毒はなかった。

舞台の木組みの下を通って、茶店を左手に見て、仁王門の脇の池を右手に見て、境内を出る。元来た清水坂の終点広場だ。人出のない清水坂の写真を撮る。
昼食にはまだ11時10分過ぎで早過ぎる。どうやら、この清水坂商店街も京都土産販売の中心であろうが、横丁にも見るべきものがあるようだ。たとえば、“あさひ坂”。ここには陶芸店やカフェがある。そういえばここが清水焼の本場だったのだ。この時は“土井雅文・陶展”の掲示があった。不思議な鈍く金属のように輝く様々な陶器が展示されていた。音羽茶寮から行き止まりと勘違いしたが、後で見ると下の通り“茶わん坂”まで下りられるようだ。
南向こうの谷はやはり墓地の気配。そういえばこの辺りは大谷本廟があるはず。だからこそその向こうの山を阿弥陀ケ峰と称し、ここに清水寺が建立されたようなのだ。



“あさひ坂”からその清水坂をさらに100mほど下って、南側の横丁へ入ると立派な洋館に出くわした。五龍閣と言い、今やカフェになっているらしいが、コロナ禍の影響か休館だった。入口の案内によると、次のようだった。
“国の登録文化財・五龍閣は、約百年前の大正12年に竣工された清水焼窯元を洋食器・ガイシ・陶歯の製造へと国際的な事業に発展させた明治の起業家"松風嘉定"の邸宅で、主に迎賓館として使用された。設計は、京都帝国大学建築学科の創設者である"武田五一"によるもので、三階まで続く吹き抜け階段室は建物に空間的広がりをもたらし、続く四階望楼ではあたかも天守閣のように、京の町並や、それを取り囲む山々を見渡せる。・・・当時の進取の気風あふれた佇まいは京都を代表する貴重な住宅遺構として重要視されている。”
休館が解けたら、来るべきところであろうか。

ランチは食べログで調べた蕎麦屋、清水坂の“よしむら清水庵”とした。ここで、とろろ蕎麦を注文。示された席の向こうが大きな窓になっていて、北側の谷の広がりが見える。蕎麦が適度に硬い。わさびととろろと出汁の混ぜ合わせが、難しい。均一になると面白くない。一様にならない前に、食いつくイメージで食べつくす。そんなことに一生懸命で、ついうっかり出汁を使いつくしてしまった。ところが、幸いなのか蕎麦湯が来ない。出汁が無いので、蕎麦湯を請求もせず、店を出た。それにしても蕎麦湯が出ない、蕎麦店は初めてだった。



そのままバス停・清水道へ。ところが目指すバスが中々来ない。その内に、どうやらそのバス停は目指す207系統の表示がないのに気付き、もう少し南に下ったところに別のバス停があり行って見ると、既に目指す207系統のバスが出る寸前。もう間に合わない!どうやらA、B、C少なくとも3つの停留所があるようだった。これはネットにも書かれていないのではないか。結局、10分遅れのバスとなった。教訓!乗るバスの表示があるのか、バス停ではよく確認する必要がある。
その後は、四条高倉まで行って、午後まで大丸で土産など物色し、無事午後2時からの研修会参加となった。
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