The Rest Room of ISO Management
ISO休戦
小説“永遠のゼロ”を読んで
昨年の夏は、映画“風立ちぬ”を見て感動を覚え、当ブログにも投稿した。書店ではユーミンの歌う“ひこうき雲”が流れていた。他方、この百田尚樹氏の“永遠のゼロ”も平積みされていた。この小説は、本来ならばその時に読むべきであったかも知れないが、その後の百田氏に問題発言があったりして、私には敬遠する部分があった。百田氏が安倍首相に近いこともその要因となっていたのは間違いない。その後の映画化でも、物議を醸した。曰く、「特攻隊を美談にしている」や「骨太な愛国エンタメ」との評であったり、「嘘八百を書いた架空戦記をもとにして、零戦の物語を作ろうとしている。神話の捏造をまだ続けようとしている」との批判もあったと聞いたので、読むのには完全に腰が引けていた。
しかも、この小説の主人公・宮部の信条を基にした状況設定には、大いに不自然さがあるのではないかとも思っていたのだった。宮部は旧帝国海軍の戦闘機パイロットで、ほんのわずかな結婚生活の後、戦場に赴いた。残された女性には赤ん坊が居たので、その家族のために“自分だけは生きて帰る”との信条だった。しかし当時空中戦は信頼できるクルーと協同して戦うものだったので、身勝手な男とは命を託する仲間とはなれないはずであり、例え、そのような人物は現実に居たとしても、組織からはじき出され存在できないことになるはずだからだ。それが、“嘘八百を書いた架空戦記”という評につながったのではないかと想像される。しかし、どうやらそのような人物が実在したらしいとも聞いたので、小説では正確にはどのような設定となっているのか興味があった。あれから1年、かたくなに読まずに居る姿勢も問題ありと考え、思い切って読んでみることにした。
実際に読んでみて、主人公・宮部の設定は全くありえないことではないことが解った。それは、生き残りが困難な真珠湾からの古参航空兵であったという存在感と その実績への畏敬の念により、集団内でのある程度の身勝手さは許容されることは十分にあり得ることだからだ。
作者・百田氏は、誠実にもこの小説のために読み込んだ文献リストを巻末に掲げている。恐らく、それ以外も読み込んでいるであろうし、多くの実体験者にもインタビューしたものと思われる。それが、迫真の内容となっているのだろう。
ところで、この小説は、特攻で亡くなった主人公・宮部の孫が、宮部と関係のあった生存者に次々とインタビューして、宮部の生き尽くした全人生像を客観的に明らかにして行く構成になっている。決して宮部自身の思いは語られることはない。そして登場する生存者は、不思議にも戦争の経過を追うように順序立てて登場する。読み始めは太平洋戦争の経過順序を語っているのか、と思うほどであった。話は真珠湾での同僚達から、最後に特攻に赴く宮部を送り出した整備兵へのインタビューとなっている。中でもラバウルからガダルカナルへの長駆攻撃の消耗戦については圧巻であり、そこから特攻へは悲惨だ。そのように順を追わないと読者は混乱するから、仕方ないのだろうが不自然さは否めない。それに、語り手は皆それなりに饒舌で話し方が上手い。これも大いに不自然ではあるが、一方ではそれが非常に読み易くしていて、読み手をどんどんストーリーの中へ引き込んで行く。
私はこの本を読み進んで、後半になってようやく特攻隊についての小説なのだと合点した次第である。私も昔は、こういった太平洋戦争の戦記物を少々は読んだし、当時の零戦やその他の日本の軍用機についての本も多少は読んだことがあったが、何故か特攻隊について深く書かれた本は今まで読んだことがなかった。
それは、専ら帝国海軍の兵器選択と、その運用に興味の焦点があったからだ。会社経営に当てはめれば、設備投資の方針とその組織的活用について、どのように戦略的に考えるべきかの参考になるのではないかと思っていたのだ。そして、旧海軍はその開戦劈頭において、真珠湾攻撃やマレー沖海戦で強力な海上戦力(戦艦や巡洋艦)に対し航空戦力で十分に効果的に戦果を上げられることを世界に証明して見せておきながら、自らは大鑑巨砲主義に最後までこだわったという奇妙な現象が見られたのは何故か、ということに興味があったのだった。
特攻隊に関して私が知っていたことは、次のようなことだった。先ず大西瀧治郎という海軍将官が発案したこと、そしてそれはマリアナ沖海戦以降のフィリピンでの戦局を好転させるべく始められ、敗戦まで継続的に実施されたということであり、使用された兵器は主に古くなった形式の戦闘機つまり初期の零戦に爆弾を搭載させて多用されたが、中には特攻専用のロケット・桜花や特殊潜航艇の人間魚雷・回天、ベニア板で作られた爆装高速艇(モーターボート)・震洋といったものも使用または検討されたという程度のことであり、生還を期さないという点において戦術の域を超えた非人間的なものであった、というような程度であった。そして、発案者とされる大西瀧治郎氏の人となりは全く知ることはなかった。
この小説では、このあたりのことが結構詳しく書かれている。ただ、ここでも大西瀧治郎氏の人となりはについて詳しく触れる場面はなく、回天や震洋についても航空兵器でないため全く触れられていないが、桜花についてはその搭乗予定者が登場して突入訓練の状況について詳しく触れている。
その特攻の実施規模であるがここでは、約4400名の命が散ったとしている。これは、航空特攻に限られた数字かどうかは判然としないが、これ以外の戦艦大和による沖縄特攻は3300名の規模に上ったとしている。
そして、その効果についてはここでは具体的に示してはいないが、明らかに期待できるような戦果は少なかったことを明示している。それは特攻の当初はとりあえず、終戦近くになると米軍は駆逐艦などを使って艦隊本体の前面で哨戒させ、電探(レーダー)により正確に来襲する特攻隊の位置を捕捉し、事前に邀撃(迎撃)機を多数配置し待ちかまえ、特攻機が目指す機動部隊に至る前にほとんど撃ち落してしまった、と言っている。特に、中攻(一式陸上攻撃機)による桜花特攻隊は、2トン強ある桜花を懸吊しているため母機の中攻自身の行動が鈍重となり、ただでさえ被弾に弱い(米軍からワン・ショット・ライターと呼ばれた)ため容易に撃墜され、中攻乗員7名と共に徒に人命・機材の多数が戦果なく損耗した。この愚かしい兵器を、米国のスミソニアン博物館でBAKA-BOMB(バカ爆弾)と表示して展示していると言っている。
このように特攻を客観的に述べているので、この小説が“特攻隊を美談にしている”とは言い難いのではないか。むしろ、主人公・宮部の合理性との対比で、その無謀を鮮明にさせているのではないかと思う。
また、この小説では旧軍の閉鎖性も指摘している。それは、人物評価では客観的能力によってではなく、正規の海軍兵学校から海軍大学を出た経歴を頂点とした学歴で評価し、昇進させていたという。特に海兵-海大での成績順(ハンモック・ナンバー)は重要であった。当時の海軍に実在した坂井三郎等のエースパイロットの名が数多く出て来るが、いずれも士官(将校)ではなく、予科練や海兵団出身の下士官であった。また敵を撃墜した数の記録も、意識的に公式の個人記録は残さず、部隊ごとの記録のみ残したという。それは、海兵正規出身者は必ず士官として任官し、各航空隊に配置される。3機で構成される小隊の隊長にはその士官が着くのだが、実戦ではそんな士官の小隊長はほとんど役に立たず、個人記録を残せばそれが露わになってしまうからではないか、との憶測も語っている。それでも猛者のエースパイロットは、撃墜した数(自己申告)を自分の機体に表示していた由。これに対して、米軍は個人記録を公式に残していたらしい。
こうした軍内部での階級性は、特攻隊にも現われていたとのこと。実際に特攻隊員となったのは、予備学生出身がほとんどであったという。最初に特攻をしたのは、一般には海兵出身の関大尉とされているが、実は予備学生出身の久納中尉だったという。予備学生というのは、昭和18年以降不足した士官を補うため、一般大学生の学徒動員を士官としたのであって、その彼らを消耗戦の特攻に大量に使ったということだ。大抵は、少尉としての任官であったようだ。それに比べ海兵出身の特攻隊員は実は回避されることが多かったようだ。
このように戦争後期では不足する士官を補うためもあり、古参パイロットも士官として昇進させているが、それは特務尉官としてであった。現に、宮部も最後には特務少尉となっている。同じ少尉でも特務少尉は下に見られたという。
飛行訓練の教員と教官の呼称にも身分の差が隠されている。下士官の指導者は教員と呼ばれ、士官は教官なのだ。こういう旧軍内部での、身分差別の非合理性を作品全体で指摘している。
では、その海兵-海大出身の優秀な専門家で固めた、海軍中央は間違いない計画立案や実施の判断をその都度行って来たか。この小説では、宮部の孫達にその評価をさせている。その指摘は、私も気付かなかった鋭いものである。
例えば、宮部の孫で姉の慶子が、“海軍の将官クラスが、自分が前線の指揮官になっていて、自分が死ぬ可能性がある時は、ものすごく弱気になる。勝ち戦でも、反撃を怖れて、すぐに退くのよ”と言って、真珠湾攻撃の際の南雲長官が第三次攻撃隊を送るべきだという幕僚の意見を退けてその戦果を小さくした例や、珊瑚海海戦での井上長官がポートモレスビー上陸部隊を引き揚げさせた例、第一次ソロモン海戦での三川長官の敵輸送船団を壊滅させなかった例、レイテ海戦での栗田長官の謎の反転の例を挙げている。一方では、自分の命に関わりがないようなガダルカナルでの戦闘や、ニューギニア戦、マリアナ沖海戦、インパール戦の場合では、無謀な作戦を立案し多数の兵員・戦力を喪失したとしている。そして、エリートの減点主義や出世主義のひ弱さを批判している。
このように、能力・実力で人物評価しない、否、できないのは現在も日本の様々な組織で、人々の意識の中で色濃く残っている。そのためもあってか、日本人には人物を見抜く能力が全く欠如していると思える。日本で有名になれない人が米国へ行ってそこで認められて日本に戻ると、逆に異様に評価されるという状態が続く。日本では人物を見抜けず、本物への評価を正当にできないから、新規事業への融資も進まず、新たな産業も一向に振興できない。“出る杭は打たれる”これが、日本社会が革新できない大きな要因の一つではないかと思うのだ。その上に、今跋扈している歴史修正主義者のように、こうした過酷な過去のことへの健忘症も、革新できないことに拍車をかけているような気がする。
フィクションを読んでおきながら、旧軍への組織論的批判を繰り広げるのも場違いな印象を与えるので、登場人物についても言及したい。私が興味深く感じたのは、元やくざの景浦だ。景浦は空戦の腕前に自信があったが、同じく空戦技量がある一方で家族を大切に思い生き延びたいという宮部に非常に強く反発していて、宮部を模擬空戦に引き込んで実弾を撃ち込む。しかし周到な宮部に巧みにかわされてしまい、しかも無かった事件としておさめられてしまう。その後、特攻に出た宮部の直掩(護衛)もやったが、結果の確認まではできていない。景浦自身は語らなかったが戦後、窮地に陥っていた宮部の未亡人を乱暴な形で救出するが 名乗らず去るという、微妙でインパクトある絡み役となっている。
私はこういったタイプの人物が嫌いではないが、現実に遭遇すると苦手な相手となるように思う。何故ならば、宮部ほどの周到さは持ち合わせていないからだ。これまでこういう人物に反発されるという経験はないのが、幸いであった。こういうある種の才能と純粋さを持ちながら、それを上手く表現できない人が、やくざになるということは現実にもあるように思う。
また別に、孫の慶子の仕事上の引立て役の新聞記者の高山という男を登場させている。この人物像は、右派の人がリベラルな人物に対して抱くステレオタイプなキャラクターを全面に出していて、つまらない印象になっている。もう少し人生の機微の分かる人物として描いた方が、ストーリーに真実味が増して、より深い陰影が出せたのではないかと思う。
小説は、限りなく現実に近いありそうな虚構でなければならない。だがそれはあくまでも“虚構”でなければならない。
そういった人物配置とともに、この小説の構成も面白い。最後まで読み切らないと、それが分からない仕掛になっている。
私は文庫本を読んだので、巻末の解説も楽しみにしていた。ここでは読書家で知られた故児玉清氏が解説しているが、その内容は期待外れであった。空戦の場面をわくわくして読んだと言い、宮部の死を単純に賛美するような表現もあり、読書家の解説にしては、あまりにも平板で突っ込み不足を感じて残念であった。
兎に角、当時の人々は時代の非合理性の中で懸命に生き尽くした。宮部もその一人だし、宮部の身代わりとなった大石もそうであった。否、ここに登場する全ての語り部はそうである。社会の非合理の中で、それを是認したまま懸命に生きることは本当に美しいことなのだろうか。この小説の問題はそこにこそあるような気がする。いや、これは日本の文芸作品の多くに見られる逃避のように思う。あのアニメ“風立ちぬ”の堀越にもそのような要素は否定できないのではないか。確かに、全てを自らに引き受けて懸命に生き尽くすことは美しいことだが、それだけで良いのだろうか。
現代の日本社会にも非合理な部分が多々見られるが、現代人もそれを放置したまま、それぞれが懸命に生きているような気がする。特に、歴史修正主義者の跋扈も、自らを懸命に生きるだけで許してしまっている。私も、それに気付いていながら何もできていないのだが・・・。
悲しみの果てに、不条理の中を懸命に生き尽くした人々の人生を“美しい”と賛美するのは勝手だが、それだけで済ませて良いのだろうか。果たして、それが本当の鎮魂となるのであろうか。過去と同じ悲惨を繰り返してはならないように思う。
しかも、この小説の主人公・宮部の信条を基にした状況設定には、大いに不自然さがあるのではないかとも思っていたのだった。宮部は旧帝国海軍の戦闘機パイロットで、ほんのわずかな結婚生活の後、戦場に赴いた。残された女性には赤ん坊が居たので、その家族のために“自分だけは生きて帰る”との信条だった。しかし当時空中戦は信頼できるクルーと協同して戦うものだったので、身勝手な男とは命を託する仲間とはなれないはずであり、例え、そのような人物は現実に居たとしても、組織からはじき出され存在できないことになるはずだからだ。それが、“嘘八百を書いた架空戦記”という評につながったのではないかと想像される。しかし、どうやらそのような人物が実在したらしいとも聞いたので、小説では正確にはどのような設定となっているのか興味があった。あれから1年、かたくなに読まずに居る姿勢も問題ありと考え、思い切って読んでみることにした。
実際に読んでみて、主人公・宮部の設定は全くありえないことではないことが解った。それは、生き残りが困難な真珠湾からの古参航空兵であったという存在感と その実績への畏敬の念により、集団内でのある程度の身勝手さは許容されることは十分にあり得ることだからだ。
作者・百田氏は、誠実にもこの小説のために読み込んだ文献リストを巻末に掲げている。恐らく、それ以外も読み込んでいるであろうし、多くの実体験者にもインタビューしたものと思われる。それが、迫真の内容となっているのだろう。
ところで、この小説は、特攻で亡くなった主人公・宮部の孫が、宮部と関係のあった生存者に次々とインタビューして、宮部の生き尽くした全人生像を客観的に明らかにして行く構成になっている。決して宮部自身の思いは語られることはない。そして登場する生存者は、不思議にも戦争の経過を追うように順序立てて登場する。読み始めは太平洋戦争の経過順序を語っているのか、と思うほどであった。話は真珠湾での同僚達から、最後に特攻に赴く宮部を送り出した整備兵へのインタビューとなっている。中でもラバウルからガダルカナルへの長駆攻撃の消耗戦については圧巻であり、そこから特攻へは悲惨だ。そのように順を追わないと読者は混乱するから、仕方ないのだろうが不自然さは否めない。それに、語り手は皆それなりに饒舌で話し方が上手い。これも大いに不自然ではあるが、一方ではそれが非常に読み易くしていて、読み手をどんどんストーリーの中へ引き込んで行く。
私はこの本を読み進んで、後半になってようやく特攻隊についての小説なのだと合点した次第である。私も昔は、こういった太平洋戦争の戦記物を少々は読んだし、当時の零戦やその他の日本の軍用機についての本も多少は読んだことがあったが、何故か特攻隊について深く書かれた本は今まで読んだことがなかった。
それは、専ら帝国海軍の兵器選択と、その運用に興味の焦点があったからだ。会社経営に当てはめれば、設備投資の方針とその組織的活用について、どのように戦略的に考えるべきかの参考になるのではないかと思っていたのだ。そして、旧海軍はその開戦劈頭において、真珠湾攻撃やマレー沖海戦で強力な海上戦力(戦艦や巡洋艦)に対し航空戦力で十分に効果的に戦果を上げられることを世界に証明して見せておきながら、自らは大鑑巨砲主義に最後までこだわったという奇妙な現象が見られたのは何故か、ということに興味があったのだった。
特攻隊に関して私が知っていたことは、次のようなことだった。先ず大西瀧治郎という海軍将官が発案したこと、そしてそれはマリアナ沖海戦以降のフィリピンでの戦局を好転させるべく始められ、敗戦まで継続的に実施されたということであり、使用された兵器は主に古くなった形式の戦闘機つまり初期の零戦に爆弾を搭載させて多用されたが、中には特攻専用のロケット・桜花や特殊潜航艇の人間魚雷・回天、ベニア板で作られた爆装高速艇(モーターボート)・震洋といったものも使用または検討されたという程度のことであり、生還を期さないという点において戦術の域を超えた非人間的なものであった、というような程度であった。そして、発案者とされる大西瀧治郎氏の人となりは全く知ることはなかった。
この小説では、このあたりのことが結構詳しく書かれている。ただ、ここでも大西瀧治郎氏の人となりはについて詳しく触れる場面はなく、回天や震洋についても航空兵器でないため全く触れられていないが、桜花についてはその搭乗予定者が登場して突入訓練の状況について詳しく触れている。
その特攻の実施規模であるがここでは、約4400名の命が散ったとしている。これは、航空特攻に限られた数字かどうかは判然としないが、これ以外の戦艦大和による沖縄特攻は3300名の規模に上ったとしている。
そして、その効果についてはここでは具体的に示してはいないが、明らかに期待できるような戦果は少なかったことを明示している。それは特攻の当初はとりあえず、終戦近くになると米軍は駆逐艦などを使って艦隊本体の前面で哨戒させ、電探(レーダー)により正確に来襲する特攻隊の位置を捕捉し、事前に邀撃(迎撃)機を多数配置し待ちかまえ、特攻機が目指す機動部隊に至る前にほとんど撃ち落してしまった、と言っている。特に、中攻(一式陸上攻撃機)による桜花特攻隊は、2トン強ある桜花を懸吊しているため母機の中攻自身の行動が鈍重となり、ただでさえ被弾に弱い(米軍からワン・ショット・ライターと呼ばれた)ため容易に撃墜され、中攻乗員7名と共に徒に人命・機材の多数が戦果なく損耗した。この愚かしい兵器を、米国のスミソニアン博物館でBAKA-BOMB(バカ爆弾)と表示して展示していると言っている。
このように特攻を客観的に述べているので、この小説が“特攻隊を美談にしている”とは言い難いのではないか。むしろ、主人公・宮部の合理性との対比で、その無謀を鮮明にさせているのではないかと思う。
また、この小説では旧軍の閉鎖性も指摘している。それは、人物評価では客観的能力によってではなく、正規の海軍兵学校から海軍大学を出た経歴を頂点とした学歴で評価し、昇進させていたという。特に海兵-海大での成績順(ハンモック・ナンバー)は重要であった。当時の海軍に実在した坂井三郎等のエースパイロットの名が数多く出て来るが、いずれも士官(将校)ではなく、予科練や海兵団出身の下士官であった。また敵を撃墜した数の記録も、意識的に公式の個人記録は残さず、部隊ごとの記録のみ残したという。それは、海兵正規出身者は必ず士官として任官し、各航空隊に配置される。3機で構成される小隊の隊長にはその士官が着くのだが、実戦ではそんな士官の小隊長はほとんど役に立たず、個人記録を残せばそれが露わになってしまうからではないか、との憶測も語っている。それでも猛者のエースパイロットは、撃墜した数(自己申告)を自分の機体に表示していた由。これに対して、米軍は個人記録を公式に残していたらしい。
こうした軍内部での階級性は、特攻隊にも現われていたとのこと。実際に特攻隊員となったのは、予備学生出身がほとんどであったという。最初に特攻をしたのは、一般には海兵出身の関大尉とされているが、実は予備学生出身の久納中尉だったという。予備学生というのは、昭和18年以降不足した士官を補うため、一般大学生の学徒動員を士官としたのであって、その彼らを消耗戦の特攻に大量に使ったということだ。大抵は、少尉としての任官であったようだ。それに比べ海兵出身の特攻隊員は実は回避されることが多かったようだ。
このように戦争後期では不足する士官を補うためもあり、古参パイロットも士官として昇進させているが、それは特務尉官としてであった。現に、宮部も最後には特務少尉となっている。同じ少尉でも特務少尉は下に見られたという。
飛行訓練の教員と教官の呼称にも身分の差が隠されている。下士官の指導者は教員と呼ばれ、士官は教官なのだ。こういう旧軍内部での、身分差別の非合理性を作品全体で指摘している。
では、その海兵-海大出身の優秀な専門家で固めた、海軍中央は間違いない計画立案や実施の判断をその都度行って来たか。この小説では、宮部の孫達にその評価をさせている。その指摘は、私も気付かなかった鋭いものである。
例えば、宮部の孫で姉の慶子が、“海軍の将官クラスが、自分が前線の指揮官になっていて、自分が死ぬ可能性がある時は、ものすごく弱気になる。勝ち戦でも、反撃を怖れて、すぐに退くのよ”と言って、真珠湾攻撃の際の南雲長官が第三次攻撃隊を送るべきだという幕僚の意見を退けてその戦果を小さくした例や、珊瑚海海戦での井上長官がポートモレスビー上陸部隊を引き揚げさせた例、第一次ソロモン海戦での三川長官の敵輸送船団を壊滅させなかった例、レイテ海戦での栗田長官の謎の反転の例を挙げている。一方では、自分の命に関わりがないようなガダルカナルでの戦闘や、ニューギニア戦、マリアナ沖海戦、インパール戦の場合では、無謀な作戦を立案し多数の兵員・戦力を喪失したとしている。そして、エリートの減点主義や出世主義のひ弱さを批判している。
このように、能力・実力で人物評価しない、否、できないのは現在も日本の様々な組織で、人々の意識の中で色濃く残っている。そのためもあってか、日本人には人物を見抜く能力が全く欠如していると思える。日本で有名になれない人が米国へ行ってそこで認められて日本に戻ると、逆に異様に評価されるという状態が続く。日本では人物を見抜けず、本物への評価を正当にできないから、新規事業への融資も進まず、新たな産業も一向に振興できない。“出る杭は打たれる”これが、日本社会が革新できない大きな要因の一つではないかと思うのだ。その上に、今跋扈している歴史修正主義者のように、こうした過酷な過去のことへの健忘症も、革新できないことに拍車をかけているような気がする。
フィクションを読んでおきながら、旧軍への組織論的批判を繰り広げるのも場違いな印象を与えるので、登場人物についても言及したい。私が興味深く感じたのは、元やくざの景浦だ。景浦は空戦の腕前に自信があったが、同じく空戦技量がある一方で家族を大切に思い生き延びたいという宮部に非常に強く反発していて、宮部を模擬空戦に引き込んで実弾を撃ち込む。しかし周到な宮部に巧みにかわされてしまい、しかも無かった事件としておさめられてしまう。その後、特攻に出た宮部の直掩(護衛)もやったが、結果の確認まではできていない。景浦自身は語らなかったが戦後、窮地に陥っていた宮部の未亡人を乱暴な形で救出するが 名乗らず去るという、微妙でインパクトある絡み役となっている。
私はこういったタイプの人物が嫌いではないが、現実に遭遇すると苦手な相手となるように思う。何故ならば、宮部ほどの周到さは持ち合わせていないからだ。これまでこういう人物に反発されるという経験はないのが、幸いであった。こういうある種の才能と純粋さを持ちながら、それを上手く表現できない人が、やくざになるということは現実にもあるように思う。
また別に、孫の慶子の仕事上の引立て役の新聞記者の高山という男を登場させている。この人物像は、右派の人がリベラルな人物に対して抱くステレオタイプなキャラクターを全面に出していて、つまらない印象になっている。もう少し人生の機微の分かる人物として描いた方が、ストーリーに真実味が増して、より深い陰影が出せたのではないかと思う。
小説は、限りなく現実に近いありそうな虚構でなければならない。だがそれはあくまでも“虚構”でなければならない。
そういった人物配置とともに、この小説の構成も面白い。最後まで読み切らないと、それが分からない仕掛になっている。
私は文庫本を読んだので、巻末の解説も楽しみにしていた。ここでは読書家で知られた故児玉清氏が解説しているが、その内容は期待外れであった。空戦の場面をわくわくして読んだと言い、宮部の死を単純に賛美するような表現もあり、読書家の解説にしては、あまりにも平板で突っ込み不足を感じて残念であった。
兎に角、当時の人々は時代の非合理性の中で懸命に生き尽くした。宮部もその一人だし、宮部の身代わりとなった大石もそうであった。否、ここに登場する全ての語り部はそうである。社会の非合理の中で、それを是認したまま懸命に生きることは本当に美しいことなのだろうか。この小説の問題はそこにこそあるような気がする。いや、これは日本の文芸作品の多くに見られる逃避のように思う。あのアニメ“風立ちぬ”の堀越にもそのような要素は否定できないのではないか。確かに、全てを自らに引き受けて懸命に生き尽くすことは美しいことだが、それだけで良いのだろうか。
現代の日本社会にも非合理な部分が多々見られるが、現代人もそれを放置したまま、それぞれが懸命に生きているような気がする。特に、歴史修正主義者の跋扈も、自らを懸命に生きるだけで許してしまっている。私も、それに気付いていながら何もできていないのだが・・・。
悲しみの果てに、不条理の中を懸命に生き尽くした人々の人生を“美しい”と賛美するのは勝手だが、それだけで済ませて良いのだろうか。果たして、それが本当の鎮魂となるのであろうか。過去と同じ悲惨を繰り返してはならないように思う。
コメント ( 0 ) | Trackback ( )
« 中尾茂夫著“入... | 雑感オムニバス » |
コメント |
コメントはありません。 |
コメントを投稿する |