The Rest Room of ISO Management
ISO休戦
中尾茂夫著“入門・世界の経済”を読んで
書店の店頭で、夏休みの読書本として平積みされていて、アジアの古地図を表紙にし、それと “入門・世界の経済”を表題にした取り合わせ、さらに副題の“グローバリゼーション500年の歴史から何を学ぶか”とあり、思わず興を覚え、手に取って中を見た。冒頭に“本書は、世界経済入門として,その歴史と現代を描いたものである。厳しい現代を生きていく若い人々に、最低限,理解しておいてほしい事柄をまとめた。”そして、現代の大学での講義に“史論がなくなった”と断じ、“歴史に通じることなく,未来を展望することは不可能である。”と言い、“未来を照らすには、常に過去を検証し、失敗から学び、同じ轍を踏まないようにしなければならない。そのために、いま起こっている事情を,歴史的に俯腋する視点こそが必要である。” とあり、この迫力に気圧されてこの本を読むことにした。
そういう意味では、この本の表題“入門・世界の経済”は、誤解を受ける。この本の内容は単純な経済史でも、経済学史でもない。まして、一般的な政治史でもない。そういう意味で“最低限,理解しておいてほしい事柄をまとめた”と言う世界の下部構造史論とでも言うべき内容かも知れない。
著者は冒頭で、“著者の方法論は、政治力学を視座に置いて金融を説くことである。つまり、権力論と金融論を交差させ、かつ、この20数年にわたる折々の海外経験談を織り交ぜた金融市場のノンフィクションを語ることである。それによって、500年にわたるグローバリゼーションのダイナミズムを通して西欧とアジアに跨る近代なるものの問題発見に努めること”にあると言っている。
この本で、現代に至っての箇所では、ジャーナリズムが一般に伝えていないようなほぼ確実でしかもエポック・メーキングな事件内幕を、多数書いている。事件当時、何故それが重要な出来事なのかは、歴史眼を持っていないと仕訳できない。そういう点で、日本のジャーナリズムには歴史観が無く、日本にとって何が真実で重要な問題なのか、一般に伝えていないことを強く感じる。権力に立ち向かい真相を報道する気迫も失ってしまっていて、大本営発表を唯々諾々と伝えるだけ。せいぜいで少し古い冷戦時代の歴史観や価値観でお手軽に解釈して見せて、得意がっている。要するに、日本のジャーナリストは“お勉強”していないのだ。少なくとも、この学生向けの入門書でも読んでみて欲しいものだ。*1日本のジャーナリストにプロは少ない。
*1:工科系の私には、元々しっかりした歴史観など“お勉強”できていないが、この本のお蔭で少しはましになったような気がする。とにかく、とりわけ最近これまで親しんで来た日本のマスコミの酷さに気付き、失望している。日本のジャーナリストの多くは、実務経験が無いにもかかわらず、また事件の周辺を飛び回るだけの存在にも拘わらず、あたかもその分野の専門家であるかのような口を利くことがある。その勘違いや、おこがましさには耐えられない。だから当事者ならやらないような、ピント外れやガセの報道、誤報をしばしばする。世間で信じられるようなステレオタイプな考え方で事実と異なるシナリオを組み立てて伝えたりする。しかも重要であるにも関わらず報道や解説しない事柄も多く、後から知る事件・事象が結構ある。さらに国際的には米国寄りのネタで、国内的には大本営発表の垂れ流しなので、どの新聞やテレビも同じ表面的報道になる。だから私は日本のジャーナリストの書いた本は、それが余程の人物でない限り読まないことにしている。
“失われた20年”の挙句の果てに、3.11を経験し、その際の一般人被災者の振る舞いは世界的称賛を浴びたが、指導者層の行動は果たして世界から尊敬されるものとなっているだろうか。どんな悲惨で甚大な被害・衝撃を受けても、一向に変わらない日本、それで良いのか。60年以上前は敗戦で、“国破れて山河在り”となったが、多くの命と財を失いマイナス状態から日本は方向転換を遂げ、その後大きく発展した。しかし、この度の惨事では無反省のまま、いつの間にか旧態へと退行している。我等が首相はどうやら、さらに昔の戦前までに日本を引き戻そうとしているように見える。*2これほど未来展望のない社会で良いのだろうか。
残念なことに、この本ではこういう課題には答えてくれていない。歴史の真相(或いは深層)を垣間見せてくれているだけだ。今は、この本で取りあえず、自分で自分なりにさぐってみるより他ない。
*2:例えば、この本では“日米安保はビンの蓋”との米国人の見方を紹介している。つまり、日米安保は、多くの日本人は米国が日本を守るためと誤解している。しかし米国では日米安保や在日米軍は、日本に軍国主義が復活しないようするためのビンの蓋だ、ということは半ば常識である、と指摘している。一見陽気な米国人は、呑気な日本人を無条件で受け入れている訳ではなく、猜疑の中で自らの国益を冷静に計算しているのだ。それを忘れてはならない。
現在、日本に改革、否、革命は必要だ。なぜならば、このままでは国家財政の破綻は明白だからだ。財政が破綻した国家や政権が長らえたということは、歴史上あり得ない。その革新は単なる財政改革ではなく、幅広い社会的、文化的革新でなければ、日本に将来はない。
だから、この革新において何を改め、何を残すのか、その原則をどうするのかは、見定めておいた方が良い。無原則な革新は、将来に禍根を残す。特に、国際化を言われる現代において、例えば和とは何か、日本のアイデンティティ(譲れないモノ)はどこにあるのか、を知っておく必要がある。つまり、日本らしさ、日本人らしさとは何かを知って、それを失わないようにするべきではないか。そしてそれは、グローバル・スタンダードと齟齬をきたすものか。齟齬をきたすとすればどこに問題があるのかも、検討しておく必要がある。それを見極めずに行われる革新は、その将来に禍根を残すことは必定だ。
戦後の改革には、米側の一方的な意図が徹底され、それが現在の日本社会の歪めている要因と思われる部分が散見される。例えば、給食でパンを採用したため米飯食がその後減少し、それが米国からの小麦輸入増大と、その後の減反政策につながっているのは明白だ。“瑞穂の国”の文化を変えたのだ。それが、農村風景を変え、今更ながら里山復活などと声高に言わなければならない要因になっている。
ところで、この本の各章の終わりには、“課題”が設けられている。学生への講義の後に出される宿題のようなものだ。その内の一つに次のような設問があった。“近年、「グローバルな人材」という掛け声を聞くことが少なくない。その内実を探つてみよう。”“あなたは「グローバルな人材」になれるか。”これに、答えるには、こうしたことに関するある程度以上の識見は必要ではないかと思う。
私は、国際化のために大学での英語の講義が近年増加傾向にあることに一抹の不安を覚えている。この本でも、“サミュエル・ハンチントンも言うように、言語は民族のアイデンティティを支える鍵だということを考えれば,安易な英語公用語化論は、民族の存続を危うくする。”と指摘しているが、和文の学術論文等でもカタカナ用語が異様に増加している。一旦、日本語や漢語に訳す手間を省いて、英語をそのままカタカナで使っているのだ。ISOの規格書にも、“マネジメント・レビュー”等に見られるように同様の状態だ。取りあえずは、仕方ないかもしれないが、こうしたことが続けばやがて情報格差となって階層間の意志疎通が困難となるようなこと懸念され、“民族の存続を危うくする”場合も出てくるのではないかと懸念している。
ここでも使っている“アイデンティティ(誰であるかを明らかにすること:「自己認識性」で良いか?)”はいかにも和訳し難い言葉だ。日本語にするには、余程の漢語力が必要だが、我々は戦後教育でそれを失った。明治維新後、欧米の言葉を多数日本語にした。その多くは中国へ逆輸出された。だが、今の日本人はそのアイデンティティを失いつつある。
「自己認識性」の乏しい改革は改革とはならず、将来に禍根を残すばかりだ。現に敗戦後の改革で見られる、戦後民主主義、戦後の教育体制、平和に対する覚悟、国家観、それで良かったのかというようなモノが多い。だから、“戦争”を知っている人々の多くが亡くなって来ると、途端に間違った歴史修正主義がはびこって来る。このような間違った情報を意図的に喧伝しているとすれば卑怯であり、破廉恥な行為である。由って来たる現在自己を客観的に認識できない者に、適切な改革は不可能だ。そのような存在は、世界と衝突し続けるだけで、孤立化する一方だからだ。
この本の著者の問題意識は、冷戦終了後も“日本ほど、「資本主義の勝利」というお決まりの台詞以外、ほとんど頓着されることがない社会も珍しいのではないか。それは、権力の不合理を等閑視しがちな保守回帰と重なり、その結果、親米であれば対米従属すら問わない思考停止”があるという指摘にある。この指摘は、はなはだしき対米従属にもかかわらず、“アジア観やアジア認識といえば、「貧困」で「低賃金」という旧間に属する後進国イメージから脱することができず、「アジアの貧困や格差は深刻だ」という常套文句の文脈(=南北問題的認識)に落ち着いてしまう。その結果, 日本だけがアジアで唯一の先進国だという”鼻持ちならない上から目線の優越感につながる。これも一種の思考停止によるものだろう。しかし、私の国際感覚にもその傾向が多少あるが、これは日本のマスコミの偏った情報に影響されているように思う。そういう警戒心を抱いていても、残念ながらこの体たらくで、恐ろしいほど間違った報道に馴らされてしまっている。
とにかく日本に革新が必要だがそのためには、現代の国際社会の真相(深層)を知った上で、認知的複雑性と歪みのない世界観を持って、「自己認識性」を失わずに改革の方向性を見極める必要がある。そして、それは各地域の文明史に関わる課題でもある。明治維新は、それができて成功した稀有な革新であった。
日本の夏は、60年前の敗戦時に思いを致す季節でもある。このような時に、こういった本を読んで大いに刺激を受けるのは良いことではないか。
そういう意味では、この本の表題“入門・世界の経済”は、誤解を受ける。この本の内容は単純な経済史でも、経済学史でもない。まして、一般的な政治史でもない。そういう意味で“最低限,理解しておいてほしい事柄をまとめた”と言う世界の下部構造史論とでも言うべき内容かも知れない。
著者は冒頭で、“著者の方法論は、政治力学を視座に置いて金融を説くことである。つまり、権力論と金融論を交差させ、かつ、この20数年にわたる折々の海外経験談を織り交ぜた金融市場のノンフィクションを語ることである。それによって、500年にわたるグローバリゼーションのダイナミズムを通して西欧とアジアに跨る近代なるものの問題発見に努めること”にあると言っている。
この本で、現代に至っての箇所では、ジャーナリズムが一般に伝えていないようなほぼ確実でしかもエポック・メーキングな事件内幕を、多数書いている。事件当時、何故それが重要な出来事なのかは、歴史眼を持っていないと仕訳できない。そういう点で、日本のジャーナリズムには歴史観が無く、日本にとって何が真実で重要な問題なのか、一般に伝えていないことを強く感じる。権力に立ち向かい真相を報道する気迫も失ってしまっていて、大本営発表を唯々諾々と伝えるだけ。せいぜいで少し古い冷戦時代の歴史観や価値観でお手軽に解釈して見せて、得意がっている。要するに、日本のジャーナリストは“お勉強”していないのだ。少なくとも、この学生向けの入門書でも読んでみて欲しいものだ。*1日本のジャーナリストにプロは少ない。
*1:工科系の私には、元々しっかりした歴史観など“お勉強”できていないが、この本のお蔭で少しはましになったような気がする。とにかく、とりわけ最近これまで親しんで来た日本のマスコミの酷さに気付き、失望している。日本のジャーナリストの多くは、実務経験が無いにもかかわらず、また事件の周辺を飛び回るだけの存在にも拘わらず、あたかもその分野の専門家であるかのような口を利くことがある。その勘違いや、おこがましさには耐えられない。だから当事者ならやらないような、ピント外れやガセの報道、誤報をしばしばする。世間で信じられるようなステレオタイプな考え方で事実と異なるシナリオを組み立てて伝えたりする。しかも重要であるにも関わらず報道や解説しない事柄も多く、後から知る事件・事象が結構ある。さらに国際的には米国寄りのネタで、国内的には大本営発表の垂れ流しなので、どの新聞やテレビも同じ表面的報道になる。だから私は日本のジャーナリストの書いた本は、それが余程の人物でない限り読まないことにしている。
“失われた20年”の挙句の果てに、3.11を経験し、その際の一般人被災者の振る舞いは世界的称賛を浴びたが、指導者層の行動は果たして世界から尊敬されるものとなっているだろうか。どんな悲惨で甚大な被害・衝撃を受けても、一向に変わらない日本、それで良いのか。60年以上前は敗戦で、“国破れて山河在り”となったが、多くの命と財を失いマイナス状態から日本は方向転換を遂げ、その後大きく発展した。しかし、この度の惨事では無反省のまま、いつの間にか旧態へと退行している。我等が首相はどうやら、さらに昔の戦前までに日本を引き戻そうとしているように見える。*2これほど未来展望のない社会で良いのだろうか。
残念なことに、この本ではこういう課題には答えてくれていない。歴史の真相(或いは深層)を垣間見せてくれているだけだ。今は、この本で取りあえず、自分で自分なりにさぐってみるより他ない。
*2:例えば、この本では“日米安保はビンの蓋”との米国人の見方を紹介している。つまり、日米安保は、多くの日本人は米国が日本を守るためと誤解している。しかし米国では日米安保や在日米軍は、日本に軍国主義が復活しないようするためのビンの蓋だ、ということは半ば常識である、と指摘している。一見陽気な米国人は、呑気な日本人を無条件で受け入れている訳ではなく、猜疑の中で自らの国益を冷静に計算しているのだ。それを忘れてはならない。
現在、日本に改革、否、革命は必要だ。なぜならば、このままでは国家財政の破綻は明白だからだ。財政が破綻した国家や政権が長らえたということは、歴史上あり得ない。その革新は単なる財政改革ではなく、幅広い社会的、文化的革新でなければ、日本に将来はない。
だから、この革新において何を改め、何を残すのか、その原則をどうするのかは、見定めておいた方が良い。無原則な革新は、将来に禍根を残す。特に、国際化を言われる現代において、例えば和とは何か、日本のアイデンティティ(譲れないモノ)はどこにあるのか、を知っておく必要がある。つまり、日本らしさ、日本人らしさとは何かを知って、それを失わないようにするべきではないか。そしてそれは、グローバル・スタンダードと齟齬をきたすものか。齟齬をきたすとすればどこに問題があるのかも、検討しておく必要がある。それを見極めずに行われる革新は、その将来に禍根を残すことは必定だ。
戦後の改革には、米側の一方的な意図が徹底され、それが現在の日本社会の歪めている要因と思われる部分が散見される。例えば、給食でパンを採用したため米飯食がその後減少し、それが米国からの小麦輸入増大と、その後の減反政策につながっているのは明白だ。“瑞穂の国”の文化を変えたのだ。それが、農村風景を変え、今更ながら里山復活などと声高に言わなければならない要因になっている。
ところで、この本の各章の終わりには、“課題”が設けられている。学生への講義の後に出される宿題のようなものだ。その内の一つに次のような設問があった。“近年、「グローバルな人材」という掛け声を聞くことが少なくない。その内実を探つてみよう。”“あなたは「グローバルな人材」になれるか。”これに、答えるには、こうしたことに関するある程度以上の識見は必要ではないかと思う。
私は、国際化のために大学での英語の講義が近年増加傾向にあることに一抹の不安を覚えている。この本でも、“サミュエル・ハンチントンも言うように、言語は民族のアイデンティティを支える鍵だということを考えれば,安易な英語公用語化論は、民族の存続を危うくする。”と指摘しているが、和文の学術論文等でもカタカナ用語が異様に増加している。一旦、日本語や漢語に訳す手間を省いて、英語をそのままカタカナで使っているのだ。ISOの規格書にも、“マネジメント・レビュー”等に見られるように同様の状態だ。取りあえずは、仕方ないかもしれないが、こうしたことが続けばやがて情報格差となって階層間の意志疎通が困難となるようなこと懸念され、“民族の存続を危うくする”場合も出てくるのではないかと懸念している。
ここでも使っている“アイデンティティ(誰であるかを明らかにすること:「自己認識性」で良いか?)”はいかにも和訳し難い言葉だ。日本語にするには、余程の漢語力が必要だが、我々は戦後教育でそれを失った。明治維新後、欧米の言葉を多数日本語にした。その多くは中国へ逆輸出された。だが、今の日本人はそのアイデンティティを失いつつある。
「自己認識性」の乏しい改革は改革とはならず、将来に禍根を残すばかりだ。現に敗戦後の改革で見られる、戦後民主主義、戦後の教育体制、平和に対する覚悟、国家観、それで良かったのかというようなモノが多い。だから、“戦争”を知っている人々の多くが亡くなって来ると、途端に間違った歴史修正主義がはびこって来る。このような間違った情報を意図的に喧伝しているとすれば卑怯であり、破廉恥な行為である。由って来たる現在自己を客観的に認識できない者に、適切な改革は不可能だ。そのような存在は、世界と衝突し続けるだけで、孤立化する一方だからだ。
この本の著者の問題意識は、冷戦終了後も“日本ほど、「資本主義の勝利」というお決まりの台詞以外、ほとんど頓着されることがない社会も珍しいのではないか。それは、権力の不合理を等閑視しがちな保守回帰と重なり、その結果、親米であれば対米従属すら問わない思考停止”があるという指摘にある。この指摘は、はなはだしき対米従属にもかかわらず、“アジア観やアジア認識といえば、「貧困」で「低賃金」という旧間に属する後進国イメージから脱することができず、「アジアの貧困や格差は深刻だ」という常套文句の文脈(=南北問題的認識)に落ち着いてしまう。その結果, 日本だけがアジアで唯一の先進国だという”鼻持ちならない上から目線の優越感につながる。これも一種の思考停止によるものだろう。しかし、私の国際感覚にもその傾向が多少あるが、これは日本のマスコミの偏った情報に影響されているように思う。そういう警戒心を抱いていても、残念ながらこの体たらくで、恐ろしいほど間違った報道に馴らされてしまっている。
とにかく日本に革新が必要だがそのためには、現代の国際社会の真相(深層)を知った上で、認知的複雑性と歪みのない世界観を持って、「自己認識性」を失わずに改革の方向性を見極める必要がある。そして、それは各地域の文明史に関わる課題でもある。明治維新は、それができて成功した稀有な革新であった。
日本の夏は、60年前の敗戦時に思いを致す季節でもある。このような時に、こういった本を読んで大いに刺激を受けるのは良いことではないか。
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