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CO2削減か人口抑制か―現在の私の世界観

先週、11月29日の朝日新聞夕刊のトップ見出しに“「京都」延長なら離脱 COP17政府方針を決定”とあった。何だぁ??!!と思って見出しのわきにある概要記事を読んだ。すると“野田政権は29日、地球温暖化問題に関する閣僚委員会(座長・野田佳彦首相)を開き、南アフリカで開会中の国連気候変動枠組み条約締約国会議(COP17)の対応方針を決めた。2012年末で温室効果ガス削減の義務づけ期間が終わる京都議定書について、次の約束期間をつくる「延長」には加わらないことを確認。仮に延長が決まった場合には参加を拒否し、先進国に削減義務を課す「京都体制」から離脱する姿勢を鮮明にした。”とあり、本文記事には“世界一の排出国である中国に義務がなく、2位の米国が批准していない京都議定書は排出削減につながらないとして、米中も含めて削減義務を果たす新体制を目指すとした。”とあった。極めて珍しい、政権発の正論である。私には環境政策正常化への重要な第一歩と映った。しかし、当日のテレビ報道ではこれに触れているものはなかったように思う。

私はCO2が地球温暖化の主因であるとは思っていない。むしろ、その説は何か特別の利害関係者のプロパガンダだと思っている。利害と言うより、受益を目指してのものであり その筆頭は原発推進論者ではないかと思っている。だが原発推進論者は今や、フクシマで世界的に立場が悪い。そのせいか、CO2削減の声は 最近小さいように思える。それに雷同する世論も声が小さくなった。CO2を諸悪の根源と思っているような“狂信的環境保護団体”も何故か声が小さくなったような気がする。だから、朝日新聞がトップで扱ったニュースを各テレビ局は無視できると見て扱わなかったのだろう。
だが、それにもかかわらず政府は 未だ恐る恐るの様子だ。 官邸のホームページを見ると、それに関し 一体 何を言いたいのか曖昧な表現で伝えているのである。

ところでCO2を悪の根源と狂信する人は吐く息でCO2を排出しないのだろうか。CO2より温暖化効果の大きいというメタンを含んだ屁を排出しないのだろうか。その人が生きていること自体がCO2排出そのもの、否 環境汚染そのものなのだから、それを悪の根源として排斥するならば、自身の罪深さを悟って、率先して自身を消去するべきなのだ。だが、こういう人々にとっては得てして悪いのは自分ではなくて、常に他人なのだ。こういう人の矛先は常に 自分とは無関係の他人に向かうのが普通なのだ。こういう身勝手な人の声が大きくなって “世論”になるのは間尺に合わない。環境問題には、常にこういう自分勝手な要素がつきまとうと思う。環境問題を声高に叫ぶ時、“天につばする”部分があることに注意を払うべきではないか。

要するに“CO2温暖化説”は相当に怪しい。地球温暖化の要因を分析するのなら、地球への太陽からの入熱と 宇宙への放熱の熱バランスを検討して、議論するのが普通だ。環境に関与する熱管理者なら 必ず知っている初歩の分析手法である。だが、“CO2温暖化説”を採る人々は このやり方を無視している。そして放熱側におけるCO2による遮熱効果だけをクローズ・アップして、地球への蓄熱が進み温暖化するとしている。
普遍的に行われている分析方法としては、分析対象への入力と出力を観測し、それにより分析対象の状態を推計して知ることになる。このプロセスを曖昧にするのは 一般的に恣意的議論を目指していると言ってよい。国家財政の歳入と歳出の分析をいい加減にしたまま、増税を図る財務省の議論には怪しいところがある。年金についてはこれが もっと酷く全くのブラック・ボックスのままに破綻が疑われている。このように“CO2温暖化説”は 何かためにする議論と言ってよく、科学的思考とは 到底思えない。
そう思っている内、案の定IPCCのデータ捏造のクライメート・ゲート事件が発覚した。IPCCの取り上げる論文は厳重に査読されていると、かつて自称IPCC関係者は胸を張っていた。にもかかわらず、データ捏造は起きてしまった。問題の論文を査読したと言う学者は一体誰なのだろうか。問題が生じると“関係者”は雲散霧消するものだ。IPCCがノーベル賞受賞した当時の鼻息の荒さとは様子も様変わりである。

こういう怪しい話に国家政策が左右されるのは問題ではないか。いや、既に国際社会が翻弄されてしまった。(だが、世界の多くはクライメート・ゲート事件によって覚醒しつつあるという話もある。) さはさりながら、CO2排出低減のために省エネを推進するというのは、目標は間違ってはいるが、方法論のゴールは正しい。つまり、資源枯渇対策としてのエネルギー資源節約は間違っていないのだ。だから、“CO2温暖化説”に基づく政策を黙認するという学者も多いようだ。
だが、現代の真の地球環境問題の原因は、地球人口が地球環境を持続可能ならしめる限界を超えてしまっていることにあるのである。過剰人口が、資源枯渇を招来しているのが問題の根源なのだ。本来は この過剰人口が 適正水準へ減少するまで何とか省エネしてしのぐべきなのだ。私は、これが正論であると信じている。日本政府の政策もこの方向に転換するべきだと思っている。だから“「京都」延長なら離脱”の政府決定は 環境政策正常化への重要な第一歩と映ったのだった。
(ここで原発推進論が 甦る余地があるのも事実だ。つまり地球上に偏在する石油資源に 人類文明が頼るため二度の世界大戦は起きた。だから リスク分散としての原発には意義があるという議論だ。これは放射能管理技術のリスクを どう見るかで左右される難しい問題だ。つまり 放射能の危険か、世界戦争の危機を選ぶかのリスク選択の問題となる。)

ところで、人間の生活水準が向上すると人口増加率は低減してくると言うのは普遍的真理のようだ。私は最近、戦後すぐの昭和23年に書かれた経済学入門書に 既に そのことに触れているのを見た。その本では人口が幾何級数(乗算)的に増加するというマルサスの人口論*に触れつつ、それを生活水準が高い欧米社会では出生率が低下している事実を指摘して、その誤りを正していたのだ。このことは現在の経済学の最前線では 普遍的真理として認識されている。貧困や戦乱、飢饉の常態化した社会での、出生率は異常に高く、その社会では平均寿命は短い。しかし、高い出生率のため人口増加率も大きい。
従って、地球人口抑制のためには、回り道のように見えるが、世界から貧困や戦乱、飢饉を無くし、生活水準改善の促進をするべきなのだ。とりあえず、国連を中心とした諸機関による地道な人道活動をサポートする必要があるのだろう。いびつな任務下にある自衛隊のPKO活動は 彼らには大変気の毒だが、人類社会持続にとっては大切な使命と言える。それにも増して民生の改善にももっと力点を置くべきなのだろう。

*トマス・ロバート・マルサスは古典経済学の発展に寄与した18世紀の古典経済学者。人口は制限されなければ幾何級数的(乗算的:人口は制約されなければ25年毎に倍加する)に増加するが生活資源は算術級数的(加算的)にしか増加しない、という命題を示し、これが貧困の原因とした。戦前の経済学教科書にはよく登場していた学説のようだ。

ところが人口抑制には大きな問題がある。それは 適正水準に到るまで人口を抑制する際に、人類社会の経済的持続可能性が困難になることだ。つまり、人口減少下での適切な経済発展システムが存在しないことである。現代の経済学では、経済規模の拡大に社会の発展を見ている。人口減少社会では需要拡大を喚起できず、需要が減れば、供給側の拡張はありえず、需要・供給の規模の拡大がなければ経済の発展はない。経済的豊かさがなくなれば人類社会の持続可能性が低下し、社会は崩壊に向かうという問題を生じるのだ。

いや現下の経済体制の問題としては 利潤の再配分が不公正ではないかということもある。それこそが現代社会の矛盾の根源でないか。それは、一部のクレバーで運の良い人間が世界の富を独占しようとしている“強欲”に基づいている。こういう人々は、あの手この手で人類社会に争いを持込んでくるし、逆にそういう社会の歪を利用して金儲けをたくらんでいる。さしずめ、CO2ガスの排出権取引など 怪しさの極みではないか。単なる空気すら金に換える奇妙さと、それを考案する強欲さと狡猾さが うとましい。CO2が地球温暖化の主因とすることで利益を得る最大の関係者は彼らではないか。
こういう強欲な人間が出て来れない社会システムの構築が求められている。そのシステムの考案と構築こそが、現代の人類社会持続可能性の危機を防ぐ喫緊の課題ではないか。
と こういう言い方をすると、何やら私自身が 妙な狂信的社会煽動家と同じに見えてくるかもしれない・・・・。なので、この話はこのあたりで終えたい。

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