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古代京都観光失敗の巻

日本はいつから改竄国家になったのだろうか。
少し前、日本、日本人は真面目で正直だった。そして、その生真面目と正直な気質は日本製品の品質を世界最高に押し上げた。しかし、今はどうだろう。コストダウンに追われ続けて、いつのまにか品質は二の次になった。トップクラスの品質が並み以下、否未満になって、日本人も余裕を失い次第に生真面目さも失った。今や並み未満の品質では、他のアジアの製品に対しても競争力はない。だからこそ、製品は日本では作らなくなった。アジアで作った方が良い品質でしかも安くなるからだ。そして、日本ではモノづくり精神や文化が失われつつある。いい加減な製品が作られる結果だろうか、製品検査のデータ改竄もあった。

その最悪の事例が、新幹線用電車の台車の亀裂事故だ。つなぎ合わせる溶接のために、ただひたすら平面研削したという。その結果、強度が失われたという。何故、そんなに研削しなければならないような寸法精度のない部品を唯々諾々と受け入れたのか。受け入れ検査の基準はなかったのか。そして、何故設計で要求される寸法を無視してまでも削ってしまったのか。製品にどんな本来機能が要求されているのか、作業者は理解せず、外形さえ整っていれば良かったのか。下手に削れば、台車全体の外形寸法が規格基準外になることはなかったのか。
その上に輪をかけて酷かったのは、その製品使用者のJRでの対応だ。JRでのメンテナンスはどうだったのか。過酷な負荷のかかる部分の保守点検に基準はあったのか。それにしたがって実施していたのか。この点の報道は皆無なので、実態は一般人には不明だ。
そうした上での、異臭、異音が発生しても実際に点検して問題は何かを確認しようとしない。いよいよとなって、ようやく大事故寸前の亀裂を発見したという。この事件のJRの対策は“異臭、異音を発見すれば、直ちに列車を止める”という表面的なことではなかったか。これで再発防止は可能なのだろうか。JR西日本は社員に“考動主義”を徹底するということだったはずだが、これら一連の結果は、対策も含めてその“考動主義”からは程遠いものではなかろうか。いかにもそれが表面的な言葉遊びで終わっていることを示しているのではないか。これでは、JR西日本はいずれまた大事故を起こすのではないかという、不安は大きい。
この顛末、製品を作る側とその製品を使ってサービスを提供する側のいずれも不真面目で不誠実ではないか。ヴァリュー・チェーン全で、不真面目と不誠実の連鎖ではないか。

じゃぁこうした事態に対するISOの対応はどうなのか。だがISO審査は虚偽には無力だ。規定の審査時間内にウソを見抜くのは非常に困難だ。そして“事実”を記載されたハズの記録と記録の間に整合性があれば、問題ないものと見做さなければならない。整合性があるように作られたウソは見抜けない。だから、データを改竄した企業でもISOの審査・認証されていることは、十分ありえる。それがISOの一般社会からの信頼性を損なう原因になっているのではないか。欺瞞を見抜く審査技術があるのなら、審査員教育に導入しなければならないのではないか。

最近は無謬性を誇った高級官僚ですら、決済された文書の改竄という欺瞞をした。
ところが、この国では意図的削除は“改竄ではない”ので、つまり事実を捻じ曲げた虚偽ではなく、事実の内のある部分を隠蔽しただけなので、改竄にはあたらず、処罰対象ではないことになるらしい。それで良いのか。
この国は改竄天国。これでは世界から信用されなくなる。

それよりも、その改竄問題で、国政が混乱している。この間、米朝首脳会談開催の動きがあり、日本が枠の外に置かれる可能性が高まっている。どうやら日本の政治が混乱している間に、米朝間で交渉が進められそうなのだ。それを主導したのは韓国・文在寅政権だ。一時、韓国政府と米国政府には意思疎通に欠ける部分があると日本政府は楽観していたが、ここへ来て米韓は結構緊密に連携していると見え、逆に日本には取り残されつつある。米国での韓国ロビーが根強く活躍しているためではないか。そして従軍慰安婦問題も一向に収まらず、国際的には世論を動かす韓国が優位になりつつあるのではないか。現にサンフランシスコでは見事に敗退した。以前、日本の首相官邸前で従軍慰安婦問題のビラを配る熱心な韓国人の集団を見たことがある。日本人はそういったこと無関心だが、いずれ不利な結果として現れるのではないか。つまりいずれ韓国政府は一連の運動で動かした国際世論を見極めた上で、竹島問題も国際司法裁判所への提訴に応じる事態にも至ることがあるのではないか。その時になってから慌てても事既に遅しとなるのではないか。

微妙な外交的駆け引きで不利になりつつあるのは、モリカケ問題を決着させずに1年も放置した結果ではないか。
安倍首相は日頃“国益重視”とか“国民の生命財産を守る”と言った趣旨を口にするが、現行不一致が目立ち過ぎないか。1年もあれば黒白は付けられたはずだ。国のトップが誤魔化し続けた結果だ。
彼のライフワークだと公言している拉致被害の問題も決着は未だだ。被害者家族が高齢になっておられるが、首相は厚顔で時を稼いでいるかのようだ。これで“国益重視”の姿勢と言えるのか。こんなインチキな人物が首相であり続けるのは国辱ものではないか。国会で野次を飛ばすのは戦後最悪の首相ではないのか。にもかかわらず、少なからずの国民が、“安倍氏にかわる人物は居ない”と結構真面目な表情でノタマウのだ。どういう御考えなのだろうか。
しかしさすがに、先週の初めから国営放送の報道姿勢が大きく変わったように見える。いよいよ現政権の終わりの始まりが見えて来たのではないか。それでも御当人は無恥にも未だ恋々として誤魔化そうとしているように見える。
だが隣国では拙い政権はあっさり取り換えられてしまった。ところが日本では、政権の不祥事があってもそうした動きは中々見られない。この国の民度はその隣国の足元にも及ばない低レベルなのだろうか。
そして任意で改竄可能な公文書とは一体何なのだろうか。この国の文書管理システムはそれほど脆弱なのだろうか。この1点をとっても この国の法規制やシステムの甘さは、一流先進国とは言えない。改竄された文書が出てきた現在、改竄される前の文書とその後の文書の両方が存在するが、現在はどちらが正規の文書となっているのか。そして、それは誰が承認しているのか。かつて、“経済は一流、政治は二流”と自虐していたが、今や“改竄低レベル国家”ではないのか。


さて、先週はブログ投稿ネタが欠乏。そこで週末、ネタ作りに京都に出かけた。京都では午後審査員研修会が開催予定だったので、午前に何かを見に行こうと思ったのだ。ところがあいにくの雨。それでもネタ作りが大事と思いつつ時間を1時間遅らせてでも、とにかく出かけたのだ。
そこまでして目指したのは京都アスニー(京都市生涯学習総合センター)。そこで開催されているという“特別展 よみがえる古代京都の風景~遺跡復元鳥瞰図の世界~ 第3期「京都市内遺跡」”と“企画展 寝殿造の虚像と実像”を見に出かけたのだ。古代京都の風景や寝殿造りがどのようだったかには、興味があるではないか。場所はJR二条駅から北西方向にある。

阪急で大宮に出て、市バスで千本丸太町に到着。バス停西に小さな公園がある。小雨の中、入って行くと大極殿跡の石碑があった。
Wikipediaによれば大極殿は“古代の日本における朝廷の正殿。宮城(大内裏)の朝堂院の北端中央にあり、殿内には高御座が据えられ、即位の大礼や国家的儀式が行われた。”また、大極殿に関する平安時代の歴史年表は以下の通りだ。
 793年、大極殿の建設が始まる。
 794年、10月、平安京遷都。
 795年、大極殿は完成。その後、周囲の建物が次々に建て増しされる。
 815年、大極殿の大掛かりな修理が行われている。
 876年、大極殿が焼失した。(第一次大極殿)
 879年、再建された。
 1058年、大極殿が焼失した。(第二次大極殿)
 1072年、第二次再建。
 1157年、大内裏が修造される。大極殿も修理される。
 1177年、大極殿が焼失し、以後は再建されることはなかった。(第三次大極殿)
いわゆる平安時代は消失のたびに再建されていたようだ。その後、“朝廷の儀式の中心が内裏の紫宸殿へ移行していくのに従い衰微していった。”つまり、公権力が武家・源頼朝に移行するにつれて天皇の私生活に公式行事が取り込まれていったということか。“大極殿遺蹟”とある石碑は“1895年建立、湯本文彦碑文、山田永年書”によるという。

そこから町屋の中を通って西方へ進む。やがて出た南北の大通りで、左手に京都アスニー駐車場との看板が見え、比較的大きな総合病院がある。その病院の西側に京都アスニーはあるはず。一旦、丸太町通に出て西へ歩くと目的地。
京都アスニーでは、当然展示のための何か案内表示があるかと探したが、何も見当たらず。図書館の受付の女性と目が合い、聞いてみると、担当に電話で問い合わせてくれて、どうやら展示はリニューアル工事中で、休止の由。ホームページには“平成29年12月18日(月)~平成30年6月1日(金) ※臨時休館あり(HP確認)”とあるのを、HP確認を怠った結果のようだ。残念。
これは、撤退せざるを得ない。得るものなく戻るのだからコストをかけるのは惜しい。バスには乗らず、未だ小雨の中徒歩で大宮に戻ることとした。
アスニー中庭には、平安京造酒司跡(みきのつかさあと)の立札もあった。この付近に酒造のための甕や土器が出土したようだ。それらの展示はあったが照明は落とされて見難かった。

アスニーを出て戻る途中、また一つ遺跡に立ち寄ることとした。豊楽殿遺跡だ。ネットによれば、次の通り。
“豊楽殿は,平安京大内裏にあった豊楽院の正殿。東西九間,南北四間の建物で,屋根には緑釉瓦が葺かれていた。元日節会,新嘗祭・大嘗祭の節会,外国使節入朝時等の国家的饗宴が行われた。完成したのは少なくとも延暦19(800)年以降で,康平6(1063)年豊楽院は焼失し,以後再建されることはなかった。この石標はその跡地を示すものである。平成2年に「平安宮豊楽殿跡」として史跡に指定されたが,平成20年にすぐ北の「平安宮内裏内郭回廊跡」(昭和54年史跡指定)と統合し「平安宮跡 内裏跡・豊楽院跡」と名称が変更された。”
石碑はなく、フェンスで囲われた空き地に遺跡説明の看板があるだけだ。

だがしかし、この京都北西一帯の地に平安京の政治の中心があったとは、全く知らなかった。今の御所がそうだとばかり思っていた。朱雀門の遺跡もこの地の南東に在る。これはますます、アスニーにある古代平安京のジオラマを見ておくべきだ。いずれ又来るべし。
その後大宮方面を目指し、徒歩で南東に向かう。JR二条駅付近西側を通過。和菓子作り体験で有名な京菓子司・よし廣の店舗前も通ってみた。その後、バス道でもある後院通の斜め道を大宮に向かって歩く。

大宮で昼食とする。少々疲労感あるも、何を食べるか。安くて早くて美味いのは牛丼、それも良いが、あまりにも普及したチェーン店のレシピでは何か少々物足りない。というか、こんなフレーバと分かっていてはワクワク感が無くつまらない。
という次第で、親子丼を食べログで探す。この大宮では結構丼物を出す店はあるようだ。フト目に止まったのは“名代親子丼”を掲げる“とり伊”だ。食べログでも結構高得点。ホームページを見てみたが、夜の宴会“水炊き”等が中心の店のようだ。1階カウンター席はランチ専用のようだ。場所は大宮の東、四条通から狭い南北の猪熊小路を少し南に入ったところ。小路に入ると直ぐに“とり伊”の看板が右手に見える。
建物は今風の和風様式。入口は引き戸。そおっと開いて中に入る。店内はオバサン軍団の1隊とその斜め向かいの手前に若い男性が1人いるだけ。オバサン達が結構騒いではいるがあまり気にならない。その軍団とは反対側の左手奥に席を占める。カウンターと言っても、調理場と向き合うのではなく、客同士向き合う形式で、座ると目隠しはあるので、孤立感はあり、一人でゆっくり食べられる。座席ごとに電磁コンロが据えられている。水炊き用であろう。着席すると、しばらくしてオバサン軍団は何故か急いで去って行った。その後、男性客が1人、2人とやって来た。

注文後、しばらくしてその親子丼は出て来た。とり伊・特製スープと漬物付きだ。
丼の蓋を開けると、真ん中に真っ赤な玉子とは思えない黄身が載っているのにビックリ。思い切って箸でそれを真ん中から突き崩す。しまった、無駄に丼の縁に付いてしまう。だがしつっこい濃厚感はない。鶏肉(かしわ)はさすがに専門店なので、しっかりしている。店屋物は味が濃いものだが、酷くはなく、十分美味い。これで690円、とは良いコスパ。
ちなみに特製スープは鶏がらスープだ。これにウズラ卵とショウガが入っている。スープそのものには味付けはされていないので好みで塩や七味で調整の必要がある。
昼食時に意外に客は少なく、落ち着いて食べられる。地元ではあまり目立ってないのだろうか。献立は他にもあるので、また来たい。久しぶりに十分満足できる店だった。

御蔭様で満腹感に浸りつつ、午後の研修地に向かう。近くの金券ショップ・トーカイで目的地までの阪急の時差切符を購入。10円、20円をケチる。

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