The Rest Room of ISO Management
ISO休戦
根性、気合、そして いじめ
最近、スポーツ界での指導にともなう暴力が話題になっている。日本のスポーツ指導における暴力は、以前から根強くあり、一向になくなることはなかったようだ。それが、公立学校で死亡事件に発展することで その学校を管理する立場の行政のトップが その“指導”のあり方に問題があると介入した。かねてより、教育行政のあり方、特に教育委員会制度を問題視していた 市長による介入である。そこへ、日本のナショナル・チームにおける“指導”にまつわる暴力沙汰が 露見し、東京へのオリンピック誘致と絡んで騒ぎとなっている。こういう状態は 健全な社会の在り様であろうか。
本来、暴力は刑法上の犯罪である。だがそれが 教育上の指導にまつわる場合は容認されるという雰囲気があり、根強く支持されるという風土があり、それは 日本特有の文化となりかけていた。私は この傾向に 幼い頃から違和感というより嫌悪感があった。それが ようやく問題視されるようになった、という印象を持っている。
今回は、この最近の動向に関して、乏しい情報と知識にもとづいて ざっくりした感想を述べてみたい。
思えば、こういうスポーツにおける暴力的指導が顕わになったになった最初は、東京の大学のクラブ活動で 起きた“死のしごき事件”だったように思う。これは クラブの先輩が後輩に過剰な負荷を与えて練習させたというものだったように思う。ある種の“いじめ”に似た印象を受けるものだった。それ以来 長い年月が経ってしまった。しかし、その後も スポーツ指導においては、“発奮”させるためと称しての暴力が 随所で日常化していたに違いなく、したがいマスコミも取上げる余地は少なかったのだろう。珍しいことではないので、ニュース価値が無かったのだ。そして、この暴力を伴うスポーツ指導のあり方は、成長期の子供に対する教育現場にも蔓延していたと思われる。恐らく、そういう背景があって、学校教育の場での事故も絶えることがなかったのではないか。無理を承知で “根性”養成のためにやらせることも多々あったと思われるがあまり表沙汰にはなっていない。ところが最近、プロの相撲部屋でのけいこ中の弟子の死亡事件が起きた。これも暴力的指導があらわになった事件だった。
いかなる指導も無理強いはあってはならない。ところが暴力を伴う体罰は違法としながらも、“愛情”があれば容認できるという“思想”で支持され続けた。“愛”などという不確かなものを基準に暴力を容認してきたのだが、どうやら場合によっては それも怪しいものになって来ていた。
一時 テレビ番組等で流行った“スポーツ根性モノ”は、こうした“思想”を美化し、賛美する傾向を助長した。これは日本の“文化”であるかのようだ。“発奮”させるためか、“気合ダ”を連呼して自分の娘をコーチしている元プロ・レスラーも時々テレビに登場する。
だが、あの桑田真澄氏も指摘するように、“コンジョー!”で何事かがなせるものなのだろうか。一時的な感情の激発を持続させ、それで継続的な努力を維持するというのは非常に困難なことではなかろうか。冷静な理詰めでの何かを成そうという意思がなければ、それは不可能なことではないか。その“何かを成そうという意思”は、“気合ダ”という掛け声や “発奮”させるための暴力で醸成されるものではない。その“気合ダ”を連呼する元プロ・レスラーにも本当は、その桁外れの無意味さに滑稽さバカバカしさを感じるべきなのだ。まして、日本文化PRと称して最近インドで根性アニメの放映が始まったようだが、双方の勘違いで日本への国際的誤解にならないようにして欲しいものだ。
かなり以前、オリンピック目前のナショナル競泳チームのコーチがテレビ・ニュースのインタビューに答えて、“これからは練習あるのみです”と言っていた。このコーチ、その重要な時期を安易な根性論で乗り切ろうとしているのかと不安に思っていたら、案の定 チームは惨敗した。その後、そのようなコーチ陣は一掃されたようで、最近のチーム成績は 非常に良好である。その背景には科学的な対応、心理学や脳科学、スポーツ生理学的分析に基づくトレーニングへと進化してきた結果だと聞いている。世界ではそのような精神論に基づく暴力的指導は効果がないとして80年代には脱していたという。
ところが、日本の成長期の子供に対する教育現場や柔道のような伝統的格闘技の分野では、未だに根性論が幅を利かせているようだ。また日本人のコミュニケーション能力の低さが、言葉より手を先に出す単純な指導が良い、むしろその方が効果的とする間違った気風があるのだろう。こうした論理的コーチング力の乏しさの結果、有為の才能が去り選手層が薄くなっていたのなら大きな禍根となる。先進国日本のオリンピックでのメダル獲得数が、その国力の割には少ないのはこの辺の事情によるものかも知れない。日本のスポーツ指導層の驚くべき後進性が問われている。
暴力を伴う指導が有効であると言えないもう一つの理由は、それをふるう者の側で必ず無制限に拡大して行く傾向にあることだ。それは少なからず傷害事件、致死事件となって露見するのだ。さらに、問題なのは世代間で伝わり悪しき伝統として残ってしまうことだ。だからこそ、今の日本のスポーツ界での根深い問題なのだ。
いや、問題は日本社会にある もっと根深い 思考傾向にあるのかも知れない。
歴史は勝者のものだ、と言うのは至言である。成功したものの意見だけが この世に残り、敗者の言は消え去ってしまう。だから、良く見ると、この世は強者の文化に満ちている。成功者は、指導を受けた時の暴力をきっかけに“発奮”し、成功したと語るものが多い。だが、それは単に 運の良いきっかけとなっただけなのだ。そのことに 成功者当人も気付いていないから始末に終えないのだ。
本当は、強者の文化は 文化ではない。弱者を救えない文化は、人類が人類社会を運営して行く上で必要なものを欠いているからだ。弱者への暖かい眼差しのない文化は、“人”を“人”として見ない文化であり、“人”を否定する考え方につながるのだ。強者を否定するのではない。弱者を否定せず その存在を尊重するだけなのだ。そもそも強者は、弱者の存在によって浮き彫りになっているだけの存在なのだと言うことに気付かなければならない。強者の存在は 相対的なもので、絶対的なものではなく、良い運によってそうなったという側面が強いのだ。
強者の適者生存は 確かに自然の摂理かも知れない。しかし、弱者の否定は、時と場合によっては それを肯定する人自身を否定するという自己矛盾につながるのだ。それは ひいては多くの人の存在価値を否定することにつながる。いかに自然の摂理であっても、“人”を否定する考え方には人類は抗うべきだ。
適者生存を肯定するのは ファシストに見られる特徴だ。ファシズムは 強者を尊重する。マッチョが大好きだし、暴力と親和性が高い。だが、強者の論理は 時と場合によっては、それを主張する当人に牙を剥く自己矛盾をはらむ。だから頭の良いファシストは、事前にそれを予防して時として卑怯な態度をとり、責任を回避する。あるいは、誰が責任者なのか 分からないような仕組や文化を作っておいて、その中で活動し、人々を虐げるのだ。
適者生存、自由競争の論理は 一見美しいし、分かり易い論理のように見える。しかし、それは時と場合によって生じる自己矛盾に考えが及んでいないと言う点で 認知的複雑性を欠く単純な論理なのだ。
子供の間で生じる“いじめ”は、こうした大人社会の思考が反映したものではないか。いわゆる“キモイ”という感情で、自己と異なる風の者の存在を否定し、それを やがて暴力的に排除する姿勢である。弱者をも暖かく包含する多様性を否定する思考の反映である。自己と異なる存在を否定することも、時と所によってはその当人を否定する自己矛盾に陥ることになる。だから、常に大勢を背景に “いじめ”は横行する。偏狭で卑怯な精神のなせる業だ。
多様性は社会を強靭化するというのは、現代社会科学共通の思考基盤だということを肝に銘じるべきだ。だからこそ近代スポーツは、偏狭で卑怯な精神を忌避することも忘れてはならない。
日本の文化は 元々は争いを好まない文化だと言われる。それは古代 縄文人と弥生人の闘争で見られ、激しい闘争は初期に見られたが、やがて融和して行ったと言う。このような融和現象は人類史では珍しいことだとも言う。その後、“和をもって貴しとなす”に至り、その後 これが日本人の考え方の基本になった。それ以降 日本人は暴力を嫌悪する民族性を確かなモノとして獲得したという説がある。
だとすると、この“根性”と それに伴う暴力性の容認いや もっと積極的に肯定する近代日本人の非人間的傾向は どこから来たのであろうか。戦前の軍国主義的発想の根深い残滓からであろうか。それとも もっと前の江戸期からのものであろうか。いや、江戸時代こそ暴力は禁忌とされた整然とした社会だったと言うではないか。
今回の 一連の事故、事件の要因が もし、ファシズムを肯定するような雰囲気が 今の日本社会の中で醸成されて来た結果ならば警戒しなければならない。“笑顔のファシスト”と おぼしき政治勢力が 台頭して来ているのは、そういうムードの表れなのかも知れない。しかし、今の奇妙さは、大阪の高校で自殺した生徒の叫びを 真摯に受け止め、教育行政に正当に介入したのは、その“笑顔のファシスト”の頭目として目される御仁であったことだ。
そう言えば、先週のある朝、テレビのワイド・ショウは、この超多忙の大阪市長をわざわざ朝の生放送に引きずり出して、下らない質問を繰り返していた。しかし、答える市長は 一言一言辛抱強く丁寧に答えていた。まさに、“改革”とはこのような蒙昧な連中を相手にした下らないことの繰り返しなのかも知れない。下らないことでもマスコミは敵に回さない、そうしたことをこの御仁は心得ているのだろう。しかし、あの番組と その人気司会者には時代遅れの悪意ある底意が 読取れて不愉快そのものであった。彼等こそ、その時代遅れの思考を引きずっていると思われる。事件の構造自体は複雑ではないが、それが理解できないと言うのなら、もっと複雑な政治・経済の解説を彼らが語るべきではない。
しかし、あの市長、そのように弱者の叫びを真摯に受け止められるのであれば、その政治姿勢を もっと 弱者の視点に寄り添うものにして欲しいと思う。それともヒョッとして 存外 単純な思考回路の御仁なのであろうか。表面的な理解には頭の回転は良いが、しかし思考回路が単純で複雑で深い問題には無理解な御仁と言うのは 非常に評価しづらく、厄介な存在となる。
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本来、暴力は刑法上の犯罪である。だがそれが 教育上の指導にまつわる場合は容認されるという雰囲気があり、根強く支持されるという風土があり、それは 日本特有の文化となりかけていた。私は この傾向に 幼い頃から違和感というより嫌悪感があった。それが ようやく問題視されるようになった、という印象を持っている。
今回は、この最近の動向に関して、乏しい情報と知識にもとづいて ざっくりした感想を述べてみたい。
思えば、こういうスポーツにおける暴力的指導が顕わになったになった最初は、東京の大学のクラブ活動で 起きた“死のしごき事件”だったように思う。これは クラブの先輩が後輩に過剰な負荷を与えて練習させたというものだったように思う。ある種の“いじめ”に似た印象を受けるものだった。それ以来 長い年月が経ってしまった。しかし、その後も スポーツ指導においては、“発奮”させるためと称しての暴力が 随所で日常化していたに違いなく、したがいマスコミも取上げる余地は少なかったのだろう。珍しいことではないので、ニュース価値が無かったのだ。そして、この暴力を伴うスポーツ指導のあり方は、成長期の子供に対する教育現場にも蔓延していたと思われる。恐らく、そういう背景があって、学校教育の場での事故も絶えることがなかったのではないか。無理を承知で “根性”養成のためにやらせることも多々あったと思われるがあまり表沙汰にはなっていない。ところが最近、プロの相撲部屋でのけいこ中の弟子の死亡事件が起きた。これも暴力的指導があらわになった事件だった。
いかなる指導も無理強いはあってはならない。ところが暴力を伴う体罰は違法としながらも、“愛情”があれば容認できるという“思想”で支持され続けた。“愛”などという不確かなものを基準に暴力を容認してきたのだが、どうやら場合によっては それも怪しいものになって来ていた。
一時 テレビ番組等で流行った“スポーツ根性モノ”は、こうした“思想”を美化し、賛美する傾向を助長した。これは日本の“文化”であるかのようだ。“発奮”させるためか、“気合ダ”を連呼して自分の娘をコーチしている元プロ・レスラーも時々テレビに登場する。
だが、あの桑田真澄氏も指摘するように、“コンジョー!”で何事かがなせるものなのだろうか。一時的な感情の激発を持続させ、それで継続的な努力を維持するというのは非常に困難なことではなかろうか。冷静な理詰めでの何かを成そうという意思がなければ、それは不可能なことではないか。その“何かを成そうという意思”は、“気合ダ”という掛け声や “発奮”させるための暴力で醸成されるものではない。その“気合ダ”を連呼する元プロ・レスラーにも本当は、その桁外れの無意味さに滑稽さバカバカしさを感じるべきなのだ。まして、日本文化PRと称して最近インドで根性アニメの放映が始まったようだが、双方の勘違いで日本への国際的誤解にならないようにして欲しいものだ。
かなり以前、オリンピック目前のナショナル競泳チームのコーチがテレビ・ニュースのインタビューに答えて、“これからは練習あるのみです”と言っていた。このコーチ、その重要な時期を安易な根性論で乗り切ろうとしているのかと不安に思っていたら、案の定 チームは惨敗した。その後、そのようなコーチ陣は一掃されたようで、最近のチーム成績は 非常に良好である。その背景には科学的な対応、心理学や脳科学、スポーツ生理学的分析に基づくトレーニングへと進化してきた結果だと聞いている。世界ではそのような精神論に基づく暴力的指導は効果がないとして80年代には脱していたという。
ところが、日本の成長期の子供に対する教育現場や柔道のような伝統的格闘技の分野では、未だに根性論が幅を利かせているようだ。また日本人のコミュニケーション能力の低さが、言葉より手を先に出す単純な指導が良い、むしろその方が効果的とする間違った気風があるのだろう。こうした論理的コーチング力の乏しさの結果、有為の才能が去り選手層が薄くなっていたのなら大きな禍根となる。先進国日本のオリンピックでのメダル獲得数が、その国力の割には少ないのはこの辺の事情によるものかも知れない。日本のスポーツ指導層の驚くべき後進性が問われている。
暴力を伴う指導が有効であると言えないもう一つの理由は、それをふるう者の側で必ず無制限に拡大して行く傾向にあることだ。それは少なからず傷害事件、致死事件となって露見するのだ。さらに、問題なのは世代間で伝わり悪しき伝統として残ってしまうことだ。だからこそ、今の日本のスポーツ界での根深い問題なのだ。
いや、問題は日本社会にある もっと根深い 思考傾向にあるのかも知れない。
歴史は勝者のものだ、と言うのは至言である。成功したものの意見だけが この世に残り、敗者の言は消え去ってしまう。だから、良く見ると、この世は強者の文化に満ちている。成功者は、指導を受けた時の暴力をきっかけに“発奮”し、成功したと語るものが多い。だが、それは単に 運の良いきっかけとなっただけなのだ。そのことに 成功者当人も気付いていないから始末に終えないのだ。
本当は、強者の文化は 文化ではない。弱者を救えない文化は、人類が人類社会を運営して行く上で必要なものを欠いているからだ。弱者への暖かい眼差しのない文化は、“人”を“人”として見ない文化であり、“人”を否定する考え方につながるのだ。強者を否定するのではない。弱者を否定せず その存在を尊重するだけなのだ。そもそも強者は、弱者の存在によって浮き彫りになっているだけの存在なのだと言うことに気付かなければならない。強者の存在は 相対的なもので、絶対的なものではなく、良い運によってそうなったという側面が強いのだ。
強者の適者生存は 確かに自然の摂理かも知れない。しかし、弱者の否定は、時と場合によっては それを肯定する人自身を否定するという自己矛盾につながるのだ。それは ひいては多くの人の存在価値を否定することにつながる。いかに自然の摂理であっても、“人”を否定する考え方には人類は抗うべきだ。
適者生存を肯定するのは ファシストに見られる特徴だ。ファシズムは 強者を尊重する。マッチョが大好きだし、暴力と親和性が高い。だが、強者の論理は 時と場合によっては、それを主張する当人に牙を剥く自己矛盾をはらむ。だから頭の良いファシストは、事前にそれを予防して時として卑怯な態度をとり、責任を回避する。あるいは、誰が責任者なのか 分からないような仕組や文化を作っておいて、その中で活動し、人々を虐げるのだ。
適者生存、自由競争の論理は 一見美しいし、分かり易い論理のように見える。しかし、それは時と場合によって生じる自己矛盾に考えが及んでいないと言う点で 認知的複雑性を欠く単純な論理なのだ。
子供の間で生じる“いじめ”は、こうした大人社会の思考が反映したものではないか。いわゆる“キモイ”という感情で、自己と異なる風の者の存在を否定し、それを やがて暴力的に排除する姿勢である。弱者をも暖かく包含する多様性を否定する思考の反映である。自己と異なる存在を否定することも、時と所によってはその当人を否定する自己矛盾に陥ることになる。だから、常に大勢を背景に “いじめ”は横行する。偏狭で卑怯な精神のなせる業だ。
多様性は社会を強靭化するというのは、現代社会科学共通の思考基盤だということを肝に銘じるべきだ。だからこそ近代スポーツは、偏狭で卑怯な精神を忌避することも忘れてはならない。
日本の文化は 元々は争いを好まない文化だと言われる。それは古代 縄文人と弥生人の闘争で見られ、激しい闘争は初期に見られたが、やがて融和して行ったと言う。このような融和現象は人類史では珍しいことだとも言う。その後、“和をもって貴しとなす”に至り、その後 これが日本人の考え方の基本になった。それ以降 日本人は暴力を嫌悪する民族性を確かなモノとして獲得したという説がある。
だとすると、この“根性”と それに伴う暴力性の容認いや もっと積極的に肯定する近代日本人の非人間的傾向は どこから来たのであろうか。戦前の軍国主義的発想の根深い残滓からであろうか。それとも もっと前の江戸期からのものであろうか。いや、江戸時代こそ暴力は禁忌とされた整然とした社会だったと言うではないか。
今回の 一連の事故、事件の要因が もし、ファシズムを肯定するような雰囲気が 今の日本社会の中で醸成されて来た結果ならば警戒しなければならない。“笑顔のファシスト”と おぼしき政治勢力が 台頭して来ているのは、そういうムードの表れなのかも知れない。しかし、今の奇妙さは、大阪の高校で自殺した生徒の叫びを 真摯に受け止め、教育行政に正当に介入したのは、その“笑顔のファシスト”の頭目として目される御仁であったことだ。
そう言えば、先週のある朝、テレビのワイド・ショウは、この超多忙の大阪市長をわざわざ朝の生放送に引きずり出して、下らない質問を繰り返していた。しかし、答える市長は 一言一言辛抱強く丁寧に答えていた。まさに、“改革”とはこのような蒙昧な連中を相手にした下らないことの繰り返しなのかも知れない。下らないことでもマスコミは敵に回さない、そうしたことをこの御仁は心得ているのだろう。しかし、あの番組と その人気司会者には時代遅れの悪意ある底意が 読取れて不愉快そのものであった。彼等こそ、その時代遅れの思考を引きずっていると思われる。事件の構造自体は複雑ではないが、それが理解できないと言うのなら、もっと複雑な政治・経済の解説を彼らが語るべきではない。
しかし、あの市長、そのように弱者の叫びを真摯に受け止められるのであれば、その政治姿勢を もっと 弱者の視点に寄り添うものにして欲しいと思う。それともヒョッとして 存外 単純な思考回路の御仁なのであろうか。表面的な理解には頭の回転は良いが、しかし思考回路が単純で複雑で深い問題には無理解な御仁と言うのは 非常に評価しづらく、厄介な存在となる。
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