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伊丹・バラ園と清酒発祥の地の散策

“第25回参議院選挙が7月4日に公示され、全国で370人が立候補を届け出た” という。ダブル選挙とはならず、野党もどうやら落ち着いて選挙戦に臨めそうな様子ではある。

ところで、田原総一朗氏が“ウソが常識と化した安倍内閣の高い支持率に違和感”がある、と言って既に1年近く経った。しかし、内閣の支持率は最低で40%を確実に維持し続けて来た。結果として、安倍氏の“ウソ”が国民から支持されているのである。これは異常事態であり、日本の民主主義の危機である。
その後も麻生太郎金融担当大臣の諮問への答申としての“年金以外に2千万円の自己資産をつくる必要がある”という報告書を6月11日に“受け取らない”と、とんでもない発言をした。そして、自民党の国会対委員長は“報告書はもうなくなったわけだ。だから予算委員会を開く必要はない”と言って委員会開催を拒否したのだ。
こうした問題に野党がどんなに騒いでも、“臭いものにフタ”でほおかむり、そ知らぬフリで選挙戦へ突入。麻生氏が記者団に向かって曰く。“それで、一体どれほど支持率が下がったと言うのか?ホレ見ろ、大したことはないやないか。ヒッ、ヒッ、ヒッ・・・”とほくそ笑んで見せた。政権は、どこまでやっても付いて来る国民をバカにしているのだ。これでエエンか?!

朝日新聞は7月に入って、“「安倍支持」の空気・2019参院選”という3回の連日の特集を打って、国民の安倍支持構造の謎を追う試みを示した。これは政治学的にも面白い課題ではあろう。
それによると“安倍内閣の支持率は、18~39歳の男性で際立って高いのが特徴だ。朝日新聞の世論調査で過去3年の平均を見ると、18~29歳の男性は57.5%、30代男性は52.8%。男女の全体は42.5%だった。さらに、閣僚らの不祥事が起きても、この世代の支持率は一時下がってすぐに回復する。”
こうした若い安倍支持者の実像に迫って、“彼らが生きている世界と政治がつながっていないような感覚”があり、“安倍内閣への「ゆるやかな支持」と、政治への「冷ややかな視線」の二つが共存している。”と評している。これを別の表現では“自分でなんとかするしかない。だから変化を望まない―。”ということになるのだという。
不安定な非正規の深夜労働に従事する30代後半の男性、支持政党は自民。何故か?自民で“よくはならないが、悪くもならない” と見ているからだ。格差の拡大や貧困を“仕方ない。自分がこう(貧困に)なったのは自分が考えた結果だ。”と答えるという。こうした思考で、“「格差が広がってもかまわない」と考える人の割合は、この10年で各所得層で増えた。・・・そして貧困層の4割は自己責任論を肯定する”のだそうだ。若い貧困層に広がる“自民支持、格差拡大の容認、自己責任論”。私には不思議な現象だ。
次のような意見もあるという。“政権は代えたいけど、野党の公約が実現できるように思えない。”“結局、今の政権が続くのなら、選挙に行く意味ってあるかな”。それは深い政治へのあきらめと絶望感が広がっていることを意味している。

その政治不信の元凶が、論戦を回避する安倍政権の姿勢にあるのではないか。質問には正面から答えず、常にはぐらかし、聞いてもいないことを言って時間を潰す不真面目な安倍氏の姿勢にある。
はたまたそんな下品な政権にすり寄るマスコミにも責任は大いにある。今の日本のマスコミは真に“社会の木鐸”たり得ているだろうか。そういう点でも、日本の報道の自由は失われている、というのが国際的な定評のようだ。この問いに日本のマスコミも、正面から応えようとはしていない。
それよりも、野党への不信が非常に大きい。民主党の政策不全が、多くの日本人の不信、絶望感の根底にあるのではないか。民主党政権の前半初期に小沢氏が利権を独り占めしようとして、混乱したことがあった。これに途中から民主党の良心も気付いて修正しようとしたが間に合わず、政権を手放す結果となった。或いは、首相の意向をまともに受け止めずサボタージュした官房長官が居て、政策の実行の徹底ができなかった。そういった齟齬があったが、これらは政権担当のノウハウが無かったことによることから来ていた。だから、日本国民はもう少し辛抱強く野党を中止する必要があったのだが、性急に結論を出してしまったのではなかろうか。
この結果、安倍氏の“悪夢”発言となり、さげすむ嘲笑の対象としている。多くの国民がこれに同調する理由が良くわからないというのが、私の感想だ。

先日、仕事仲間で飲んだ時、私がこんな調子で安倍批判をしていたところ、突然切れたようにある人から“じゃぁ誰が良いというのだ。代案を示せ。代案無しで批判は許さない。”と言われた。普段は温厚な人だったので、若干驚いたのだった。合理的に考えてダメなのもを、或いは少々感情が入るが“嫌なもの”を無条件に批判してはならない、世間ではこういう風潮が広がっているようだ。
だが、それで民主主義的と言えるのだろうか。イヤな政治・政策を無条件に批判してはならないのだろうか。批判するには代替案が必要なのだろうか。代替案も無いくせに、批判してはならないのだろうか。歴史上、どんな立派な政治家も時には無条件に批判や中傷、風刺の対象となったものだ。それを許さないのは独裁政治礼賛につながるのではないか。日本の政治的社会心理はいつのまにか北朝鮮化して来ているのではないか。

どうやら権力者に寄り添うべしという同調圧力が、これ以外の様々な形態で日本社会の隅々に行き渡っているようだ。その上に、短い文章の読解力の欠如した若者も相当増えていて、雰囲気で流される傾向にあると、あるAI研究者は警告している。ただでさえ“空気”で左右される“癖”を持ったこの国は何処へ漂流して行くのであろうか。
再三繰り返すが、これは異常事態であり、日本の民主主義の危機である。そう思いませんか?


さて、梅雨入り前のことで、少々日が経っていて恐縮だが超安近短観光をやったので、それをご紹介したい。場所は伊丹。伊丹はWikipediaでは次のように紹介している。“兵庫県の南東に位置し、東に猪名川、西に武庫川が流れている。市域は全体に平坦で起伏のなだらかな地形であり、「伊丹台地」と呼ばれる。JR宝塚線と阪急伊丹線が南北に縦断している。大阪市からは約10kmと近い。 市の中央部を天神川・天王寺川が北から南へ流れている。”関西人には、関西空港ができるまでは唯一の空の玄関として知られていた。今でも結構な飛行機の発着がある。阪急の宝塚線と神戸線、今津線できれいに取り囲まれていて、空港以外で訪れる機会の少ない都市でもある。その阪急の塚口から伊丹線で阪急伊丹に至ると、そこが伊丹の町の中心になる。JR伊丹はどちらかというと、この伊丹市街の東の端、というイメージだが最近、この駅の東側にシネコン併設の“イオンモール伊丹” が出来て賑わっている。
この駅の西側には有岡城址がある。織田信長が中国攻めの際、荒木村重が有岡城に依って謀反の姿勢を示したので、羽柴秀吉は黒田官兵衛を使者に送ったが、これを土牢に幽閉軟禁したことで有名。黒田官兵衛はこの時に足を悪くしたと言われている。このJR伊丹から阪急伊丹の間が、伊丹の繁華街と見て間違いない。

実は、昨年の暮れから腰痛に悩まされ、近所の整骨院に通っても改善しなかった。以前は、近所の整骨院で優秀な整体師さんが居たのだが、10年近く前に地元に戻って開業していると噂では聞いていた。そこでネットで調べてそこへ通うようになったのだが、それが伊丹の鴻池だった。

通う内に知ったのが伊丹市バスの終点、荒牧バラ園。そこで、行ってみることにしたのだった。伊丹市営で面積1.7haで矩形の敷地。入園無料で公開は9:00~17:00まで。最盛期 200種類1万本のバラが咲いているという。終点のバス停は、その公園の北東側にある。公園入口は公園東側の通りの南寄りにある。正門に立つと、公園内を北西へ直線道路が伸びており、その先に赤い3本柱の“平和モニュメント”(彫刻家・井上武吉・1991年5月)があるのが見える。
実は、ゴールデン・ウィークあたりが見頃とのことで、その時期は観光バスが結構やって来て賑わっているとのこと。そういう点では、行ったのは6月中旬だったので人出は殆どなく落ち着いて、園内散策が出来た。この時は未だ気温もそう高くは無く、どんよりと曇っていて絶好調ではなかったが、散策には十分であった。気候が良ければ、のんびり廻れば最大2時間程度はゆっくりできるのではないだろうか。

公園の南側には道路を隔てて、“みどりのプラザ”というゾーンがある。そこに建物があって、中には、園芸の実習室、相談・・・休憩コーナー、展示・図書コーナーがある。特に、展示コーナーでは、バラ公園や伊丹市のみどりのことをパネルで紹介していた。そこでは、次のような内容で伊丹での植栽産業の歴史的展開を紹介していて、そういう伊丹の歴史的背景があるのだ、と知った次第だ。

伊丹市西北部は温暖な気候と、天神川・天王寺川によって山から運ばれた植木生産に適した土壌に恵まれ、古くから植木など園芸生産が盛んであった。
(西北部に隣接する)宝塚市山本地区で1593年(文禄2年)に接木技術が考案されたのをはじまりに、江戸時代に入ると、伊丹でも植木生産が本格化し、東の地区ではミカン苗木の生産が盛んであった。
江戸後期には、諸藩の大名が得意先となり、牡丹などを九州から東北にかけて出荷している。
明治から大正時代になると、東野地区で南京桃と温州ミカンの生産が、また、荒巻地区を含む旧長尾村で新種の洋種バラ苗の生産が盛んになるなど、栽培技術や苗木生産も多様化した。
昭和に入ると、周辺地域の都市化を背景に住宅用の庭木生産や庭園造りの需要が高まり、我が国を代表する園芸生産の一角として大きく発展した。

バラ園の西側にはその天神川がありこの時は川の水は干上がっていたが、高い堤防で囲まれていた。一部の道路が川床の下をくぐっている程だ。この川の左岸の堤防を川下に向かって歩いて、鴻池の整骨院へ散歩がてら向かった。目線が高いので気分的には爽快である。

整骨院で施術を終えていつも通り阪急伊丹に向かう市バスに乗って帰るのだが、鴻池バス停の西側に何かが見えていて、気になっていた。この日はついでにその何かを確かめようと近付いて見に行った。
すると碑のようなものがあり、金属板に“清酒発祥の地・鴻池”の表題が示され、次のような内容の記述があった。
戦国時代の1578年(天正6年)、尼子氏の家臣・山中鹿之助の長男、新六幸元が遠縁を頼ってここ鴻池村に住みつき、酒造りを始めた。最初は濁り酒を造っていたが、1600年(慶長5年)に双白澄酒(もろはくすみさけ:清酒)の製法を発見することができた。
この清酒を江戸へも運んで販売し、次第に財を貯え、後に分家を大坂(大阪)に出して、酒販売・海運業・金融業でも成功を収めた。これが豪商・鴻池家の始まりである。

日本酒の清酒は伊丹市(又は奈良市)が発祥とは知ってはいたが、それは有岡城址近くの市街地だろうと勝手に思っていた。そして今にも企業名に残る“鴻池”の先祖が、戦国稀代の英雄・山中鹿之助とは知らなかった。大阪に地名として“鴻池新田”が残っているが、そのルーツは伊丹の鴻池だとは知らなかったのだ。
山中鹿之助は、私もそれほど詳しくは知る訳ではないが、毛利氏に滅ぼされた山陰・出雲の大大名尼子氏の家臣で、尼子氏再興のために東奔西走し、八面六臂の働きをした英雄と聞いている。尼子氏再興に当たって、三日月の前立と鹿の角の脇立のある特徴的な兜を着け、“我に七難八苦を与えたまえ”と三日月に祈ったという戦国時代のエピソードは有名である。その生涯は正に“七難八苦”の末に非業の死を遂げたという悲劇の英雄だ。羽柴秀吉も尼子氏を擁する山中鹿之助一党を反毛利勢力として体よく利用している。その彼が、江戸期最大の豪商の先祖だったとは全く知らなかった。

歴史のある古い町、伊丹は結構見どころが多いと知って改めて驚いた次第である。
伊丹が初めての人は、JR伊丹から西に阪急伊丹に向かい、市バス利用でバラ園や昆陽池を見て歩くのが良いだろう。昆陽池は冬場、白鳥など渡り鳥が見られるので知られている。

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