The Rest Room of ISO Management
ISO休戦
今年の株主総会から―企業経営戦略に思いを致す
国際情勢複雑怪奇!と言って総辞職した内閣が戦前にあった。残念ながら、これは歴史的事実だ。この時、日本が直面した主要国際問題は中国であった。戦前はほぼこのハンドリングを誤らないこと一点が日本の外交課題であった。それにもかかわらず、欧州に反英米の仲間を見つけようとしてドイツに接近して欧州外交に首を突っ込んだが、そのドイツが世界の仮想敵国のソ連と不可侵条約を結んだのを見て驚愕して、“複雑怪奇”と叫んだのだ。いわば日本にとってはどうでも良いことで、あまりにも慌てて狼狽した格好だ。その挙句の果てに、肝心の日本の対中政策に介入してきた米国との極めて重要な外交交渉に失敗して勝てない戦争に自ら飛び込んでいった、笑えない滑稽さがあった。
その時、ソ連が送り込んだスパイ・ゾルゲに日本政府中枢の基本戦略を読まれ、それを聞いたスターリンは安心してシベリアに居た膨大な対日戦力を対独戦に割くことができたのだ。日本は当時の友好国ヒトラー・ドイツに利敵行為をした格好だ。ここにも何だか日本の不細工外交が透けて見える。ドイツは気の毒にもその事情を知ることはなかったようだ。
さて、現代の国際社会は当時の複雑さと比べてはるかにややこしい。このややこしさの中心にトランプ氏が居る。日本周辺でも米中貿易、北朝鮮核武装、日韓関係、対ロシア北方領土等々の問題があるが、中東ではイランの核開発とホルムズ海峡防衛等、拡大する一方だ。
G20では、そこに人類文明問題である環境特にマイクロ・プラスティック問題が焦眉、さらにこの度はAIに絡んで情報の扱いに関する国際的規制を検討することになったようだ。
国際問題は広範囲にしかも複雑さを増している。そこで見失ってはいけないのは、正しい価値観、正義観だ。中国共産党の価値観や正義観は、これまで人類が獲得してきた正しい価値観、正義観とは大きく乖離していることは間違いない。香港問題はその文明観の激しい相克の渦中にある。北京側に立つのか、香港人側に立つのか答えは決まっている。なので、決して静観していて良いものではない。
これまで安倍首相は何ら外交的に得点を上げられず、イラン訪問も赤恥に終わり、このG20の議長役で何とか得点したい、焦りで一杯ではないか。せいぜいで鞘当てに文在寅の会見拒否くらいか。外交力の乏しい日本の伝統、おまけにあの首相にして複雑な世界の外交を巧く取りしきれたのだろうか。結局、全てトランプ氏に持って行かれた。
トランプ氏は意気軒昂。習近平氏は終始顔色なく、それでも何とかトランプ氏の譲歩を勝ち取った。会談前は関税10%課税案が有力とされたが、それより大きな譲歩だった。習氏の面子を潰しては、元も子もないと米側は考えたのだろうか。
それにしてもトランプ氏は独裁者がお好き。習近平氏、プーチン氏、金正恩氏。それを手玉に取っているかのようなパフォーマンスだ。特に、金正恩は信長の下で走り回る藤吉郎のようだ。
ところで中国の不況を不思議に誰も指摘しないが、中国の失業者は増える一方のはずではないか。この3月に既に李克強首相は“失業者へのケア”を注意喚起したようだ。その後も中国から内外の企業・資本が東南アジアに移動しているという。
失業者増加で中国社会は持つのだろうか。監視カメラとAI活用で治安維持は万全なのだろうか。それにも限界があろう。失業者の不満増大は充満し抑え込めば抑えられた分、マグマが爆発した際のエネルギーは強烈なものになるのではないか。
ところで先週、国会会期終了の首相記者会見で気になったのが、あたかも野党は国民の内に入っていないようなニュアンスが漂っていたことだ。この首相にして当然ではあろうと思うが、これで一国を代表する首相発言とは考えられず、残念感で一杯になった。“年金問題では野党の方々に相当な御心配を頂き”といったような台詞の一つも言えないのだろうか。そういう度量の大きな発言がない。かつては自民の首相には、そういう気遣いの出来る人物が結構居たように思うが、それだけでも小粒な印象だ。 そんな状況で参議院選挙を上手く乗り切れるつもりだろうか。
麻生氏は“それで、政権支持率はどれだけ落ちたというのか。”と記者団に凄んで見せた。あの図は拙かったのではないか。油断そのもの、あの自信は一体どこから来るのだろうか。
それから気になったのは、最高裁の次の判決だ。
“長崎県の諫早(いさはや)湾干拓事業をめぐる二つの訴訟で、堤防排水門の開門を認めない判決が確定した。最高裁第二小法廷(菅野博之裁判長)が26日付の決定で、開門を求めていた漁業者の訴えを退けた。”
日本の司法のトップは、大規模自然破壊を“正義”として是認したことを意味するのではないか。それで良いのか、それが日本の“良識”であろうか。これは単なる漁民と農民の争いではない。より大きな価値観、文明観の問題であり、より大きな普遍性を求める“正義”の問題なのだ。そういう認識が、正しく日本の司法のトップ最高裁判所にあったのだろうか。もし、無かったということならば、大きな失望でしかない。カントよりも古い、封建時代の発想ではないか。
大崎事件でも司法の権威にこだわった判断をしたのではないか。権威にこだわるのではなく、“正義”にこだわらなければ逆に“権威は地に落ちる”ものだ。“小者の考え、休むに似たり”では困るのだ。
さて先週で、年中行事の大手企業の株主総会のシーズンは終わった。今年は、地元の大阪ガス㈱と川崎重工㈱、それからグンゼ㈱に行った。グンゼは京都の綾部にあり、遠いが今年は行ってみることにした。去年はマツダ㈱だった。来年は東京に行ってみるか。今回はそのグンゼ・綾部訪問記としたい。
さて、グンゼ株主総会は午後1時から開催なので、午前中はグンゼ・スクエアを見学し、昼食は綾部駅付近で牛肉専門店で食べる予定とした。実は10年ほど前に次駅・淵垣のオムロン綾部事業所に工場見学に来たことがあり、その時も午前中を綾部で過ごしたことがあったので、土地勘は少しある。当時はグンゼ・スクエアは無かった。
当日7時半頃神戸を離れ、新快速で京都に8:24着。一旦、改札を出て綾部までの切符を買って、再入場。JRの不思議さで、こうした方が運賃が安くなるのだ。都市部と地方の料金体系が異なるための現象のようだ。おまけに、ICOCAも綾部の手前、園部までなので綾部まではICカードも使えない。
08:38発の特急・まいづる1号 [東舞鶴行き] きのさき3号 [福知山行き]の自由席に乗り込む。この列車、綾部で東舞鶴行きと福知山行き東西に分かれて行くことになっている。車内検札が、すぐにやって来たので自由席特急券を購入。車掌業務も大変だ。今回は切符を買っていたが、間違ってICカードを使っていたら、どう対処したのだろうか。
予定通り09:42に綾部着。この駅の改札に人がいたが、何故ICOCA化しないのだろうか。帰りの京都までの切符を買って、時刻表をスマホに撮って、北側の出口からグンゼ・スクエア見学に出かけた。以前来た時と雰囲気は変わらず、街にひと気が全くないが、自動車は結構走り回っている。グンゼ工場群と本社の付近に来て、左手に古風な洋館の本社、右手に蔵群が見える。本社屋には午後からの総会にもかかわらず、既に看板が見えた。
その道路を隔てて向かい側にグンゼ・スクエアへの門があり、中へ入った。人は殆ど居ない。整備された庭園があった。右手に守衛さんが居そうな木造の建物があり入ってみた。今昔蔵とあるが無人で節電で消灯状態、暗い中でパンフレット類が置いてある程度を確認。成果なく、外に出て奥の創業蔵、現代蔵、未来蔵の建物に近付く。
手前の大きな蔵・集蔵には施錠あり、創業蔵から入る。1階は絹布の製造とその歴史の展示である。絹布は中国で作られたのが人類史上最初のようだ。
全く知らなかったが、絹繊維は繭の殻を解いて作るという。繭1個で約1kmの繊維が取れるという。この繭を解す時、“糸口”を見つけると言ったようだ。繭を解しきった後、そこには蚕の蛹が残るが、これは廃棄されるのだろうか。そうなれば、次の世代の蚕繭は別に繊維を取らずに残しておくのだろうか。無人に付き、こうした質問を発する相手は居ない。
2階はグンゼ創業者・波多野鶴吉とグンゼの歴史展示。鶴吉は何鹿(いかるが)郡(今の綾部)に生まれ、京都に出て学生時代(京都中学)を過し、その後事業を志したが全て失敗し、帰郷。小学校の教職を得るが、子供たちが養蚕農家で劣悪環境の中にあるのを一念発起して、地場産業の養蚕業振興を志したという。しかし、当時は何鹿の絹糸は粗悪品の代名詞だったので、品質改善に取り組んだという。恐らく京都の学者も動員したのだろう。
そして何鹿郡蚕糸業組合の組合長就任後、1896年(明治29年)蚕糸業組合を母体に郡是製絲株式会社(現・グンゼ株式会社)を創業し、地場・地域振興に努めた。この社名の“郡是”は、郡の方針や方向性という意味だ。
自分の周囲の人たちとの関わりの重要性や人間愛に目覚め、”人間尊重と優良品の生産を基礎として、会社をめぐるすべての関係者との共存共栄をはかる”という創業の精神を会社の柱とした。この明治中期にすでに現代におけるステークホルダーの重要性に気付いていた稀有な経営者であった。実際に“工女”(グンゼでは”女工”でなく、“工女さん”と呼んで尊重)教育を重要視、会社内に教育部を設置して高名な教育者である川合信水を招聘し、自らもその教えを受ける形で社内教育を推し進めた。“善き木に善き果が実り、善き人が善き糸をつくる”として人格形成こそが優良品の基礎であるとした。
その後、戦時中は軍需工場に一時転換したというが、戦後は絹から綿やナイロン製品に転換して、下着・靴下のナショナル・ブランド・メーカーへと成長したという。現代蔵、未来蔵は写真撮影禁止であった。
外に出てバラ園をめぐったが、“あやべ特産館”は残念ながらこの日休館、ついでにカフェもお休み。何故わざわざそんな日に株主総会を設定したのだろうか。地場産業を大切に考えるのならば、もう少し配慮があって良さそうなものではないか。
時間的に11時半近くなので、駅前へ向かう。1.5時間以上も前の午前にもかかわらず、株主総会の場所を示す案内員が既に要所に配置されていた。“気が早いのでは?”と係員に言うと“早々と来られる方が居られますので・・・”と濁していたが、本当だろうか。総会配慮にアンバランスがある。
東側の踏切から南側へ回り込んで西進。京都和牛専門の栄亭 綾部本店を目指す。“ランチは御自分で焼いて頂くメニューしか、有りません”の由。店は1人で切り盛りの様子で、仕方あるまい。焼肉は値段的にもこんなもの、という印象。正午付近には他にも客は結構入って来た。とにかく人口が少ない中での商売はこんなものなのだろう。
肝心の株主総会。集まる株主はせいぜいで感覚的に500名程度だろうか。千名は越えていないと思う。会社説明も30分、株主質問も3件約30分、ほぼ1時間であっけなく終わってしまった。早く帰れるのは良いのだが・・・。質問の中に高齢者の“いつまでたっても、下着と靴下でいいのか”というのがあったが、質問自体が当を得ていないので、回答も“現在の製品比率は下着と靴下で50%を切っています。”という意味の通り一遍の内容だった。
この日グンゼ敷地内の記念館は開放しているとのことで、見学できた。グンゼ・スクエアの内容を繰り返すが、より深く知ることができると思い入館しほぼ期待通りだった。特に1933年(昭和8年)頃のグンゼ綾部工場のジオラマが展示されていて、見るとその規模は今より大きく、国鉄・綾部駅より南にまで敷地は広がっていた。この年、関西は大大阪を中心に今より繁栄し、地下鉄梅田・心斎橋間の開通、城東線(今の環状線)の電化、阪神の岩屋・三宮間の地下線開通があった。
さて、グンゼについてこのまま株を所有するかという観点で総括すると、圧倒的な過去の栄光と地場産業としての立ち位置から、技術革新の中での現代化に股裂き状態に陥っている印象が強い。それに地元を大切にすると言っても、少々中途半端感がある。そこから脱するには、過去の栄光と地場産業を大切にする財団か子会社を設立して、思い切って綾部市振興に100%専念させることが良いのではないかと思う。組織を持続可能とするには収益を挙げる必要があるが、例えば地元の気息奄々の養蚕事業をもっと近代化して再興し、京都の着物産業に供給することも考えられる。
グンゼ本体は本社を京都や大阪に移して、思い切って現代化する必要があるのではないか。それこそ下着・靴下部門も別会社に切り離した方が良いようにも考えられる。むしろ、そうしなければ逆にグンゼ自体が巨大資本に買収され、地場の綾部からも姿を消す可能性は大きいのではないか。
恐らく今の経営幹部はそこまで考えていそうもないので、私は株を少しずつ手放そうか、と思うようになった。当事者には深刻な問題ではあろう。
週末NHKスペシャルで、“これが東京ミラクルだ”を放送していた。日本の鉄道の正確さを誇る内容だったが、驚いたのはJR事故後のダイヤ復旧で未だに“スジヤ”が職人技で対応しているということ。このAI/IOT時代に未だ、人の職人技に頼っているようなのだ。だからダイヤ復旧に“正解がない”とまで言い切っていた。列車ダイヤはロジックの塊ではないのか。それがコンピュータに馴染まないとは普通には考えられない。京浜急行の列車車庫入れも、同じように職人技で対応とのこと。それを誇るかのように放送していた。そしてインドネシアに鉄道運営ノウハウを、そのまま輸出したという。オメデタイ限りだ。10年後にインドネシアから苦情が来ないことを祈るばかりだ。
日本全体が、こういう意識だからこの国は今世紀後半に“AI/IOT技術革新”に出遅れて、三流国家に転落したと評価されるのではないか。
実は、川重の株主総会で未来に繋がる投資として語られていたのは、豪州の褐炭から水素エネルギ-を取り出すサプラーチェーンの形成であった。これは中々結構なことだが、“AI/IOT技術革新”に関連した開発投資案件はない。川重の技術資産に鉄道車両製造があるが、これと関連して鉄道運営システムの開発にどうして乗り出さないのであろうか。“AI/IOT技術”に苦手な部分があるというのなら日立製作所と組むことを考えても良いのではないか。そうして先述の鉄道運営に職人技の必要な部分をAI化して、生産性を向上させる努力が必要なのではないか。鉄道運営システムの進化はいずれ、交通全体のシステム運営に広がって行くはずだ。豪州の褐炭開発よりはるかに汎用性のある技術ではないか。だからこの技術を手に入れることは、将来の事業展開に大いに利するはずだ。また、そうしたシステム下での有用な車両形態はどのようなものか、という展開へも先回り可能となるではないか。
日本の産業界にこうしたビッグ・ピクチャーが無いのはどういうことなのだろう。ちょっとした想像力すらないのだろうか。想像力は創造力に通じると言う。何だか、日本の教育に問題があるのではないかという気がするが、どうだろうか。早急に教育を是正しても効果が現れるのは、今から30年後になる。そういう意味では、既に手遅れなのだろうか。
その時、ソ連が送り込んだスパイ・ゾルゲに日本政府中枢の基本戦略を読まれ、それを聞いたスターリンは安心してシベリアに居た膨大な対日戦力を対独戦に割くことができたのだ。日本は当時の友好国ヒトラー・ドイツに利敵行為をした格好だ。ここにも何だか日本の不細工外交が透けて見える。ドイツは気の毒にもその事情を知ることはなかったようだ。
さて、現代の国際社会は当時の複雑さと比べてはるかにややこしい。このややこしさの中心にトランプ氏が居る。日本周辺でも米中貿易、北朝鮮核武装、日韓関係、対ロシア北方領土等々の問題があるが、中東ではイランの核開発とホルムズ海峡防衛等、拡大する一方だ。
G20では、そこに人類文明問題である環境特にマイクロ・プラスティック問題が焦眉、さらにこの度はAIに絡んで情報の扱いに関する国際的規制を検討することになったようだ。
国際問題は広範囲にしかも複雑さを増している。そこで見失ってはいけないのは、正しい価値観、正義観だ。中国共産党の価値観や正義観は、これまで人類が獲得してきた正しい価値観、正義観とは大きく乖離していることは間違いない。香港問題はその文明観の激しい相克の渦中にある。北京側に立つのか、香港人側に立つのか答えは決まっている。なので、決して静観していて良いものではない。
これまで安倍首相は何ら外交的に得点を上げられず、イラン訪問も赤恥に終わり、このG20の議長役で何とか得点したい、焦りで一杯ではないか。せいぜいで鞘当てに文在寅の会見拒否くらいか。外交力の乏しい日本の伝統、おまけにあの首相にして複雑な世界の外交を巧く取りしきれたのだろうか。結局、全てトランプ氏に持って行かれた。
トランプ氏は意気軒昂。習近平氏は終始顔色なく、それでも何とかトランプ氏の譲歩を勝ち取った。会談前は関税10%課税案が有力とされたが、それより大きな譲歩だった。習氏の面子を潰しては、元も子もないと米側は考えたのだろうか。
それにしてもトランプ氏は独裁者がお好き。習近平氏、プーチン氏、金正恩氏。それを手玉に取っているかのようなパフォーマンスだ。特に、金正恩は信長の下で走り回る藤吉郎のようだ。
ところで中国の不況を不思議に誰も指摘しないが、中国の失業者は増える一方のはずではないか。この3月に既に李克強首相は“失業者へのケア”を注意喚起したようだ。その後も中国から内外の企業・資本が東南アジアに移動しているという。
失業者増加で中国社会は持つのだろうか。監視カメラとAI活用で治安維持は万全なのだろうか。それにも限界があろう。失業者の不満増大は充満し抑え込めば抑えられた分、マグマが爆発した際のエネルギーは強烈なものになるのではないか。
ところで先週、国会会期終了の首相記者会見で気になったのが、あたかも野党は国民の内に入っていないようなニュアンスが漂っていたことだ。この首相にして当然ではあろうと思うが、これで一国を代表する首相発言とは考えられず、残念感で一杯になった。“年金問題では野党の方々に相当な御心配を頂き”といったような台詞の一つも言えないのだろうか。そういう度量の大きな発言がない。かつては自民の首相には、そういう気遣いの出来る人物が結構居たように思うが、それだけでも小粒な印象だ。 そんな状況で参議院選挙を上手く乗り切れるつもりだろうか。
麻生氏は“それで、政権支持率はどれだけ落ちたというのか。”と記者団に凄んで見せた。あの図は拙かったのではないか。油断そのもの、あの自信は一体どこから来るのだろうか。
それから気になったのは、最高裁の次の判決だ。
“長崎県の諫早(いさはや)湾干拓事業をめぐる二つの訴訟で、堤防排水門の開門を認めない判決が確定した。最高裁第二小法廷(菅野博之裁判長)が26日付の決定で、開門を求めていた漁業者の訴えを退けた。”
日本の司法のトップは、大規模自然破壊を“正義”として是認したことを意味するのではないか。それで良いのか、それが日本の“良識”であろうか。これは単なる漁民と農民の争いではない。より大きな価値観、文明観の問題であり、より大きな普遍性を求める“正義”の問題なのだ。そういう認識が、正しく日本の司法のトップ最高裁判所にあったのだろうか。もし、無かったということならば、大きな失望でしかない。カントよりも古い、封建時代の発想ではないか。
大崎事件でも司法の権威にこだわった判断をしたのではないか。権威にこだわるのではなく、“正義”にこだわらなければ逆に“権威は地に落ちる”ものだ。“小者の考え、休むに似たり”では困るのだ。
さて先週で、年中行事の大手企業の株主総会のシーズンは終わった。今年は、地元の大阪ガス㈱と川崎重工㈱、それからグンゼ㈱に行った。グンゼは京都の綾部にあり、遠いが今年は行ってみることにした。去年はマツダ㈱だった。来年は東京に行ってみるか。今回はそのグンゼ・綾部訪問記としたい。
さて、グンゼ株主総会は午後1時から開催なので、午前中はグンゼ・スクエアを見学し、昼食は綾部駅付近で牛肉専門店で食べる予定とした。実は10年ほど前に次駅・淵垣のオムロン綾部事業所に工場見学に来たことがあり、その時も午前中を綾部で過ごしたことがあったので、土地勘は少しある。当時はグンゼ・スクエアは無かった。
当日7時半頃神戸を離れ、新快速で京都に8:24着。一旦、改札を出て綾部までの切符を買って、再入場。JRの不思議さで、こうした方が運賃が安くなるのだ。都市部と地方の料金体系が異なるための現象のようだ。おまけに、ICOCAも綾部の手前、園部までなので綾部まではICカードも使えない。
08:38発の特急・まいづる1号 [東舞鶴行き] きのさき3号 [福知山行き]の自由席に乗り込む。この列車、綾部で東舞鶴行きと福知山行き東西に分かれて行くことになっている。車内検札が、すぐにやって来たので自由席特急券を購入。車掌業務も大変だ。今回は切符を買っていたが、間違ってICカードを使っていたら、どう対処したのだろうか。
予定通り09:42に綾部着。この駅の改札に人がいたが、何故ICOCA化しないのだろうか。帰りの京都までの切符を買って、時刻表をスマホに撮って、北側の出口からグンゼ・スクエア見学に出かけた。以前来た時と雰囲気は変わらず、街にひと気が全くないが、自動車は結構走り回っている。グンゼ工場群と本社の付近に来て、左手に古風な洋館の本社、右手に蔵群が見える。本社屋には午後からの総会にもかかわらず、既に看板が見えた。
その道路を隔てて向かい側にグンゼ・スクエアへの門があり、中へ入った。人は殆ど居ない。整備された庭園があった。右手に守衛さんが居そうな木造の建物があり入ってみた。今昔蔵とあるが無人で節電で消灯状態、暗い中でパンフレット類が置いてある程度を確認。成果なく、外に出て奥の創業蔵、現代蔵、未来蔵の建物に近付く。
手前の大きな蔵・集蔵には施錠あり、創業蔵から入る。1階は絹布の製造とその歴史の展示である。絹布は中国で作られたのが人類史上最初のようだ。
全く知らなかったが、絹繊維は繭の殻を解いて作るという。繭1個で約1kmの繊維が取れるという。この繭を解す時、“糸口”を見つけると言ったようだ。繭を解しきった後、そこには蚕の蛹が残るが、これは廃棄されるのだろうか。そうなれば、次の世代の蚕繭は別に繊維を取らずに残しておくのだろうか。無人に付き、こうした質問を発する相手は居ない。
2階はグンゼ創業者・波多野鶴吉とグンゼの歴史展示。鶴吉は何鹿(いかるが)郡(今の綾部)に生まれ、京都に出て学生時代(京都中学)を過し、その後事業を志したが全て失敗し、帰郷。小学校の教職を得るが、子供たちが養蚕農家で劣悪環境の中にあるのを一念発起して、地場産業の養蚕業振興を志したという。しかし、当時は何鹿の絹糸は粗悪品の代名詞だったので、品質改善に取り組んだという。恐らく京都の学者も動員したのだろう。
そして何鹿郡蚕糸業組合の組合長就任後、1896年(明治29年)蚕糸業組合を母体に郡是製絲株式会社(現・グンゼ株式会社)を創業し、地場・地域振興に努めた。この社名の“郡是”は、郡の方針や方向性という意味だ。
自分の周囲の人たちとの関わりの重要性や人間愛に目覚め、”人間尊重と優良品の生産を基礎として、会社をめぐるすべての関係者との共存共栄をはかる”という創業の精神を会社の柱とした。この明治中期にすでに現代におけるステークホルダーの重要性に気付いていた稀有な経営者であった。実際に“工女”(グンゼでは”女工”でなく、“工女さん”と呼んで尊重)教育を重要視、会社内に教育部を設置して高名な教育者である川合信水を招聘し、自らもその教えを受ける形で社内教育を推し進めた。“善き木に善き果が実り、善き人が善き糸をつくる”として人格形成こそが優良品の基礎であるとした。
その後、戦時中は軍需工場に一時転換したというが、戦後は絹から綿やナイロン製品に転換して、下着・靴下のナショナル・ブランド・メーカーへと成長したという。現代蔵、未来蔵は写真撮影禁止であった。
外に出てバラ園をめぐったが、“あやべ特産館”は残念ながらこの日休館、ついでにカフェもお休み。何故わざわざそんな日に株主総会を設定したのだろうか。地場産業を大切に考えるのならば、もう少し配慮があって良さそうなものではないか。
時間的に11時半近くなので、駅前へ向かう。1.5時間以上も前の午前にもかかわらず、株主総会の場所を示す案内員が既に要所に配置されていた。“気が早いのでは?”と係員に言うと“早々と来られる方が居られますので・・・”と濁していたが、本当だろうか。総会配慮にアンバランスがある。
東側の踏切から南側へ回り込んで西進。京都和牛専門の栄亭 綾部本店を目指す。“ランチは御自分で焼いて頂くメニューしか、有りません”の由。店は1人で切り盛りの様子で、仕方あるまい。焼肉は値段的にもこんなもの、という印象。正午付近には他にも客は結構入って来た。とにかく人口が少ない中での商売はこんなものなのだろう。
肝心の株主総会。集まる株主はせいぜいで感覚的に500名程度だろうか。千名は越えていないと思う。会社説明も30分、株主質問も3件約30分、ほぼ1時間であっけなく終わってしまった。早く帰れるのは良いのだが・・・。質問の中に高齢者の“いつまでたっても、下着と靴下でいいのか”というのがあったが、質問自体が当を得ていないので、回答も“現在の製品比率は下着と靴下で50%を切っています。”という意味の通り一遍の内容だった。
この日グンゼ敷地内の記念館は開放しているとのことで、見学できた。グンゼ・スクエアの内容を繰り返すが、より深く知ることができると思い入館しほぼ期待通りだった。特に1933年(昭和8年)頃のグンゼ綾部工場のジオラマが展示されていて、見るとその規模は今より大きく、国鉄・綾部駅より南にまで敷地は広がっていた。この年、関西は大大阪を中心に今より繁栄し、地下鉄梅田・心斎橋間の開通、城東線(今の環状線)の電化、阪神の岩屋・三宮間の地下線開通があった。
さて、グンゼについてこのまま株を所有するかという観点で総括すると、圧倒的な過去の栄光と地場産業としての立ち位置から、技術革新の中での現代化に股裂き状態に陥っている印象が強い。それに地元を大切にすると言っても、少々中途半端感がある。そこから脱するには、過去の栄光と地場産業を大切にする財団か子会社を設立して、思い切って綾部市振興に100%専念させることが良いのではないかと思う。組織を持続可能とするには収益を挙げる必要があるが、例えば地元の気息奄々の養蚕事業をもっと近代化して再興し、京都の着物産業に供給することも考えられる。
グンゼ本体は本社を京都や大阪に移して、思い切って現代化する必要があるのではないか。それこそ下着・靴下部門も別会社に切り離した方が良いようにも考えられる。むしろ、そうしなければ逆にグンゼ自体が巨大資本に買収され、地場の綾部からも姿を消す可能性は大きいのではないか。
恐らく今の経営幹部はそこまで考えていそうもないので、私は株を少しずつ手放そうか、と思うようになった。当事者には深刻な問題ではあろう。
週末NHKスペシャルで、“これが東京ミラクルだ”を放送していた。日本の鉄道の正確さを誇る内容だったが、驚いたのはJR事故後のダイヤ復旧で未だに“スジヤ”が職人技で対応しているということ。このAI/IOT時代に未だ、人の職人技に頼っているようなのだ。だからダイヤ復旧に“正解がない”とまで言い切っていた。列車ダイヤはロジックの塊ではないのか。それがコンピュータに馴染まないとは普通には考えられない。京浜急行の列車車庫入れも、同じように職人技で対応とのこと。それを誇るかのように放送していた。そしてインドネシアに鉄道運営ノウハウを、そのまま輸出したという。オメデタイ限りだ。10年後にインドネシアから苦情が来ないことを祈るばかりだ。
日本全体が、こういう意識だからこの国は今世紀後半に“AI/IOT技術革新”に出遅れて、三流国家に転落したと評価されるのではないか。
実は、川重の株主総会で未来に繋がる投資として語られていたのは、豪州の褐炭から水素エネルギ-を取り出すサプラーチェーンの形成であった。これは中々結構なことだが、“AI/IOT技術革新”に関連した開発投資案件はない。川重の技術資産に鉄道車両製造があるが、これと関連して鉄道運営システムの開発にどうして乗り出さないのであろうか。“AI/IOT技術”に苦手な部分があるというのなら日立製作所と組むことを考えても良いのではないか。そうして先述の鉄道運営に職人技の必要な部分をAI化して、生産性を向上させる努力が必要なのではないか。鉄道運営システムの進化はいずれ、交通全体のシステム運営に広がって行くはずだ。豪州の褐炭開発よりはるかに汎用性のある技術ではないか。だからこの技術を手に入れることは、将来の事業展開に大いに利するはずだ。また、そうしたシステム下での有用な車両形態はどのようなものか、という展開へも先回り可能となるではないか。
日本の産業界にこうしたビッグ・ピクチャーが無いのはどういうことなのだろう。ちょっとした想像力すらないのだろうか。想像力は創造力に通じると言う。何だか、日本の教育に問題があるのではないかという気がするが、どうだろうか。早急に教育を是正しても効果が現れるのは、今から30年後になる。そういう意味では、既に手遅れなのだろうか。
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