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2022年壬寅の初詣―小雪の京都参詣ミニミニ旅行

コロナ禍の感染拡大が急速である。このままでは医療崩壊、つまり必要な救急や重篤なガン等の検査や医療が後回しになる蓋然性が再び高まっている。だから、感染症法上での現状コロナ禍分類を2類から5類に変更せよとの声が高くなっている。分類とは下図のようなものだ。



これについて報道によれば、“岸田首相は、「新型コロナは変異を繰り返す。いったん変更すると、その後、変異が生じた場合、大きな問題を引き起こす」と述べ、分類の変更に否定的な考えを示した”という。一見論理的、科学的であるかのように見えて実は感覚的な発言ではないか。そういう点では、“現状コロナ禍分類を2類から5類に変更せよ”との御意見も同じだ。
何故か。現状の実態が不明だからだ。明らかに、ο株が主流を成しているのであれば、分類の変更は正しいが依然としてδ株が半数かそれ以上であれば、分類の変更は岸田首相の見解が結果として正しいことになるのではないか。首相の指摘のようにさらに変異した場合はどうするのか。その実態を知るためにもどんな株が増殖しているのか知る必要があるのではないか。どんな株がどう分布しているのかで対処・対策を迅速に変更させるのが当然であろう。
要は検査が不十分なのだ。PCR検査はかつてよりは普及したようだが、その検査の何分の一かはどんな株なのかの分類をする検査をするべきなのだ。そうでなければ正確な政策判断はできない。やはり、いかなる段階に至っても問題の実態をできるだけ正確に把握して対策を講じるのは、問題解決のための常道なのだ。それに反する意見・見解は邪道だ。紀元前に生きた孫子の有名な言葉、“敵を知り己を知れば、百戦危うからず”は基本のキである。
未だに、“PCR検査は意味がない”とのたまう御仁が幅を利かせるこの社会の異様さを感じる。 少なくとも下水の汚染状態を調査することで地域的な全貌の概要を知ることはできるはずだ。兎に角できることは何でもするべきではないのか。

北朝鮮のミサイル実験が頻繁だ。そして“北朝鮮が令和元年5月以降これまでに40発を超える頻繁な発射を繰り返しており、その目的がミサイル技術の向上にあることは明らかだ”となっている。
だが私は北朝鮮の独自のミサイル技術の自主開発は断念し、ロシアから買った最新のミサイルの性能をテストしている、というのが実態ではないかと見ている。つまりロシア=プーチンが北朝鮮に最新のミサイルを売りつけて、なけなしの金を北朝鮮から巻き上げている、という構図が気になるのだ。
中国と一体となって東北アジアでの緊張を煽ることは、ロシアの利益になる。ウクライナへ注目する世界の視線を少しでも逸らすことが、ロシア=プーチンの金儲けとダブルの利益になるのだ。カザフスタンでの騒動もロシア=プーチンの仕業だという。これは最早、世界のヤクザ。
ロシア自身も北方領土での軍事演習を繰り返しているようで、日本の自衛隊も非常に緊張状態にあるようだ。自衛隊は南勢方面の海域警備と同時に北方警備にも意識しなければならないという、2正面警戒態勢に陥っているのだ。
ロシアは経済力もないにもかかわらず、軍事的膨張を続けている。最早、プーチンによる軍国主義国家ではないだろうか。このような国の持続可能性は低いと見るべきだが、その前に日本社会の脆弱性が増していることが残念だ。
この情勢を米国はどう考えているのだろうか。

最近、TVでのメタバースの紹介が頻繁になってきている。 仮想現実といえば最近私が入れ込んでいる仏教の般若心経“色即是空、空即是色”を連想する。いわば、現実は実態ではないのだ、という諦観だ。この思想が紀元300年から400年の間にインドで成立していたというのだから、驚異的である。
まぁ、そうなれば別荘地や観光地に引っ越しして生活できる。時空の障害はない。イングリッド・バーグマンとデートすら可能だ。言葉の障害もない。
それがどこまで実体的感覚と馴染むようになるのだろうか。そのためには金はいくら必要になるのだろうか。否、どんな金儲けのネタになるのだろうか。それが今年どの程度のものに発展するのだろうか。それで、戦争の実体がなくなり、仮想現実で終われば結構なことではないか。逆に、それだけが残酷な実態として残るのならば意味がない。

それはそうと、もういい加減SDGsゴッコは止めようではないか。
SDGsをやっているとノーテンキにのたまう会社で、堂々と定年制を敷いているのは問題ではないのか。年齢制限は差別ではないのか。さりとて、老人が権力をふるっている会社も問題ではないか。会社が“環境改善”のために社員に“里山活動”をさせて私生活にまで影響を及ぼすのが正しいSDGsなのか。強い組織が相手に不利な契約を押し付けることがSDGsに適うことなのだろうか。全従業員にLGBT含めて“性差別意識”は全くないと言えるのか。しかも未だに女性従業員に下らないコトを押し付けていないか。
当たり前と思い込んでいることが、“誰一人取り残さない”などという崇高な命題に本当に応えていることになっているか、根本から見直さなければならない、と思うのだがどうだろうか。それが不十分のままで、特定の組織の活動がSDGsに適合していると誰が保証できると言うのか。それは最早“全能の神のみぞ知る”領域ではないのか。


さて先週末の午後に又、お定まりの研修会の京都開催があった。スワ、ここで午前中に未だ行っていない初詣が京都で出来るとばかりに、例によって松尾大社と初詣には初めて八坂神社に出かけたので報告したい。間が悪いことに前夜近畿を寒気団が襲って、深夜、寒くて眠れず慌ててパジャマの上にジャージを着てようやく眠ったほどだった。
翌朝、住んでいる神戸は少々寒いが何事もなく晴れて明けた。予定通り、いつもより早目に起きて出かけた。例によって阪急で向かう。桂で乗り換えて、ふと目を電車外に向けて驚いたのは、雪景色だったことだ。それまで電車内では本を読んでいて全く気付かなかったのだ。雪景色への変化は急激になるものだと、そこで変に納得。ここで雪景色が楽しめる。
阪急・松尾大社駅では軌道上に意外に雪がこんもりとなっている。大社までの参道の雪景色は全く初めてだ。足元が滑らないように、状態を見極めながら歩を進める。



やがて楼門にいたるが、境内に結構こんもり積雪がある。あとで分かったが、敷き詰められた細かい砂利が断熱効果を示してこうなったようだ。
突当たり神楽殿に干支の虎の大きな絵が掲げられている。それを迂回して、本殿にてお参り。“本年も家族共々よろしくお願いいたします。そして本年こそ・・・。”
例によって、本殿裏に廻る。北末社の滝御前で吹き降ろす風が、この天候でどうなっているか気になったのだ。特に初夏はこの風が常にさわやかに冷たく吹き降ろしていて、神意さえ感じられるような気がするものだったからだ。先ずは、手前の亀の井で手、口の洗い。そして滝前に立ったが、やっぱり風はなくその神意は感じられず。残念!しかし、お賽銭を上げて参拝。“何卒、本年も・・・”。
踵を返して、社務所に向かう。今年はお御籤を頂戴したい。おみくじ筒で十二番を引いた。財布から千円札を取り出して順番を待つ。女性一人なのだが、何だかテンポが悪くモタモタと中々進まないのにこの時に限って、何故か妙にイライラした。
ところが、いざお御籤を頂くと、大吉だった。ところがところが、我に返るとさっきの財布がない。さっきイライラしつつ無意識にどこかへ入れてしまったのだ。社務所窓口に放置したつもりは全くない。10分ほど慌てて夢中で自分の身体を情けなくもまさぐる。何度捜しても無い。ようやく思わぬポケットに、パスケースに重なって入り込んでいたのを見つけてホッとする。疲れた!この不毛の狼狽は精神的にも疲弊してしまう。あのイライラがいけないとの神意であろうか。否、全てが神意!

この神社の“蓬莱の庭”の雪景色を見てから、参道を駅へ向かう。昼に近くなり、空が晴れて来たので既に雪が解け始めている。このタイミングで滑りやすくなるはずなので、より慎重に進む。フト見ると駅に既に桂へ向かう電車が来ていた。明らかに間に合わない。全く不毛の時間ロスが原因だ。この後、初詣のハシゴを予定していたので、これで一層焦った。阪急終点の河原町駅から、八坂神社へ行く予定。
松尾駅での雪の様子は、嵐山方面と桂方面で微妙に差が認められる。嵐山方面の積雪がわずかに嵩が高い。
残念ながら桂駅でもわずかな差で、特急に乗り遅れる。不毛の時間ロスが後を引く。



河原町に着いて四条通をそのまま東進すれば、おのずと八坂神社だ。晴れて日が高くなったこともあるが、市街では既に雪の影響はない。
東大路通からの八坂神社西楼門には屋根にわずかな残雪が認められるだけだ。小雪は儚いが、大雪は災害になる。改めて微妙なものだと思う。実は、初詣の八坂神社参詣は初めてだ。
やはり神社は南面が当然なのであろう。西楼門から入ると、本殿は横を向いているように思うが、それで南面していることになる。ここでも当然ながら参拝。おそらくは南楼門が正式門であろうから、一応見届けに行く。後で知ったのだが、南楼門は重文のようだ。南楼門から左手が社務所だが、ここでお御籤のハシゴは神様に失礼であろう。境内には雪の気配は全く消失していた。



入った西楼門から出て戻る。途中、歌舞伎で有名な京都南座に隣接する“松葉”に入る。ここは創業百数十年の老舗の蕎麦屋。南座で観劇の幕間に食事する店としてやってきている。
2階に上がって昼食。ここで名代“にしんそば”と“出汁巻き”を頼んだが、その日は“出汁巻き”を出していないとのことで、ガッカリしながら“豚の角煮”を頼んだ。“にしんそば”はここが発祥とのこと。
昔、亡母と亡父・亡兄の納骨に来た帰りに珍しくここで外食したことを覚えている。納骨は五条の東山だったはずだが、四条へどうやって出たかは思い出せない。多分、バスではないか。当然、“にしんそば”を食べたと記憶する。その時も2階だったと思うのだが、もっと広々していたように感じる。印象が違うのは何故だろう。だが“にしんそば”の味は変わっていないように思う。今回の“角煮”追加は頼んで正解だった。



午後からの研修会には未だ時間があるので、昨年末に買い替えたアイフォン用のイアフォンのためのアダプターを買うために四条河原町の家電量販店に入った。今のアイフォンにはイアフォン・ジャックは無いのだ。それに気付かず年末までいたのだが、いざyoutubeでお気に入り音楽を聞こうとしたが聞けずに越年して欲求不満に陥っている。アダプターは1800円で購入。イアフォンは百円ショップでかったもの。このアンバランスの価格矛盾はどうしようもないのか。これがアップルの製品・価格戦略なのだ。

午後の研修、若干の波乱があったが、とりあえず無事終了。その波乱の内容はここでは説明は割愛したい。
帰りの電車では、買ったばかりのイアフォン・アダプターを使ってお気に入りソングを無事聞きながら帰ることができた。ところが乗り換えの十三駅でちょっとした事件が起きた。京都線から神戸線に乗り換えようとホームに降り立った時、足に何かが当たった。大した事はないのでそのまま立ち去ろうとしたのだが、気になって確認したところ、神社で失いそうになった財布が落ちていたのだ。やっぱり今年はこの財布に嫌われるのか。ということは今年も特に金にも嫌われているのかも知れない。
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