The Rest Room of ISO Management
ISO休戦
“講演・持続可能な社会保障へ―社会保障と財政の関連を中心に”を受講して
大阪で訳の分からぬ破格の安値での国有地払い下げがあった。外形的には政治家の口利きがあったのは見え見えなのだが、中々真犯人はしっぽを出さない。小学校の開校をめぐっての話だが、そうとう上位の政治家でなければ、動かせそうもない財務省の高級官僚を相手に、国有地払い下げられた企画者は思うが儘にふるまっているように見受ける。そこに首相夫人が絡んでいる。このことは役人どもには相当に威力があったのに違いない。にもかかわらず、首相自身は夫人は公人ではないと断言し、あたかも犯罪者のように扱われるのは不愉快だと居直った。夫人には高級官僚の御付きが5名もいると言うが、それでも公人ではないと言うのか。
昔、阪神間のある自治体に商品の売り込みに行ったことがあった。出てきた役人は、渋い表情で“何しに来た!”と言わんばかりで、挨拶しても名刺もよこさない。“木で鼻を括る”を現実に見た対応だった。そこへ我が社の選出した議員がやって来た。するとその役人は声を裏返し、“あら、○○さん近頃お見限りネ”と安物のゲイバーのような展開となったのには、ものすごく驚いたことがあった。役人の政治家に対する対応はこのようなものかと思い知った次第だった。まして、大物政治家であれば、その無言の圧力は木っ端役人にとっては際限なく大きいものと容易に想像できる。
東では、市場移転問題で渦中の人が記者会見したが、内容なく何となく見苦しい感じしか残らない。“責任がある”とは言うものの、具体的にどのように“取る”のかはっきりしない。日本の右派の人達は自身を“もののふ”とか“侍”とか称して大言壮語するが、昔武士は名を惜しんで人々の誤解に対しては死を選ぶこともあった。しかし、この御仁はどう責任を取るのか一向に不明確なのが今様なのか。その方面の専門家ではないので、分からないと言って逃げるのが、“侍”の振る舞いとして適切なのであろうか。頭が良いことをひけらかしてきた御仁が、急に“分からない”と言い出すのも解せない。安心と安全は違うという狭間での問題としたり顔で説明する識者もいるが、豊洲が本当に安全と言うのなら、意を尽くして説明するのが、真の政治家ではないのか。誰も責任を持って説明できないから問題になっているのではないか。
そもそも、IT時代に物流に変革があって、直販が増加する時代に豊洲の重要性はそんなに高いのか。既存の食品市場との集約統合の案もあって当然ではないかと思うのだが、これは東京の問題で、関西人がとやかく言うものでもない。築地の文化を大切にするべき、というのも分かるような気がするが、それなら又違った対応もあるのではないか。
情けないニュース・オン・パレードの中で、日本の社会保障について財政との関連で語るという講演会が、兵庫県の21世紀文明研究セミナーのシリーズで先週開催された。ここでも絶望的な状況説明になるのかと思い、聴きに出かけた。
講演者は一橋大学経済研究所・小塩隆士教授で、専門は経済制度・経済政策研究部門とのこと。全体に話は分かり易かった。
社会保障の財源について考える時、“一般政府”という概念で一括して見ないと正確な全体像は分からないという。“一般政府”は、中央政府、地方政府及び社会保障基金という統計上の概念から成り立っている。通常、私達は中央政府の支出のみで見ていて、財政危機を煽られているが、それだけでは部分的な内容になるというのだ。
その“一般政府”の過去40年間つまり日本の社会保障がほぼスタートした1970年以降における政府支出の上昇は“社会保障給付の増加だけでほぼ説明できる”ということになるというデータを示している。その結果財政収支の基調は社会保障が大きく左右しているという。つまり“財政政策は、財務省ではなく厚生労働省が所管”していると言えるという。ところが、給付は増加するが、1990年以降負担は増大していないとデータが示している。誰が負担することになっているのか、それは財政赤字を国債で埋め合わせている訳なので、今居ない将来世代が負担することになっている、というのだ。
この状況を国民貯蓄の観点で整理してみると次のようになる。
政府貯蓄=(税+社会保障負担)-(社会保障給付+その他の経常収支)
民間貯蓄=所得+(社会保障給付+その他の経常収支)-(税+社会保障負担)-消費
ここで
国民貯蓄=政府貯蓄+民間貯蓄 であるが括弧内の要素は相殺されて次のようになる。
国民貯蓄=所得-消費
この上さらに正確には国家全体の固定資産の減価償却つまり固定資本減耗(現在 年間約120兆円・GDPの約23%)を差し引きし、
国民貯蓄=所得-消費-固定資本減耗分
これが、そもそもの本質問題である。要するに国全体の稼ぐ力が究極の問題となるのだ。これが維持されれば、財政赤字が如何に拡大しても、日本国内の選択の問題で大きなことにはならないというのだ。
だが、実際には内閣府の“国民経済計算”よりこの国民純貯蓄を計算してみると、1990年を頂点に前後はあるものの減少傾向にあり、2010年前後に2度ゼロになった年があるという。日本は国際的には、対外純資産があると言っても340兆円で、社会保障費のたった3年分しかならないので、極めて危険な状態である、というのだ。
確かに、90年代既に日本のGDPは500兆円と言われていたが、20年経過しても未だにGDPは500兆円と言われている。経済成長が全く見られていないのだ。しかし、周囲の世界経済はどんどん成長しているので、日本だけが少しずつ相対的に沈んでいることになる。具体的には円高で産業構造が空洞化し、貿易収支が危うい状況になって来ているが、経常収支は黒字を保っていて、これが“強い円”を何とか支える大きな要素になっているのは事実だろう。対外純資産からの上りや知財による儲けが日本経済を支えているだけという、極めて危ういのが実情なのだ。
にもかかわらず、日本の大手企業の経営者は将来投資に消極的で、IT投資すら諸外国に比べて少ないと言われている。働き方改革など政府から言われないと労働生産性を向上させる意思もなかった。あまつさえ、シャープや東芝に見られるような間抜けな経営者が折角の技術を海外(中国)に売り払って、何とか生き残ろうとしているのは情けない限りだ。政財官のエリートとされる人々のこの体たらくでは、いずれ日本は地獄の底に転落するのではないかと思われる。
つまり、以下の要因で日本経済存立の危機が考えられるという。
①財政赤字の拡大を民間貯蓄が賄いきれなくなり、将来世代に残すべき富の“食い潰し”局面入りするか
②高齢化による、生産人口の減少と消費側の人口増
ここで注意するべきは財政再建が問題なのではなくて、日本経済の再建が問題なのだ。特に次の項目を指針とするべきだという。(②はその国の文明進化度が進展すると見られるある程度普遍的問題だが、日本は急激すぎる。)
(1)生産(所得)と消費のバランス(黒字化)
①労働人口の増加(高齢者の戦力化→各々できる範囲で/高齢者の就労機会)
②子育て支援
③労働生産性の向上
(2)公平な再分配政策(困っている人の支援)
講演者は特に、(1)①について、平均余命を横軸にし就労率を縦軸にして、1975年と2010年のデータをプロットすると2010年のデータが全て1975年のデータを下回っているという。つまり2010年の65歳と1975年の58歳の平均余命がほぼ同じだが、就労率は2010年の65歳は50%前後であるが、1975年の58歳の就労率は80%を超えている。2010年の65歳の耐力は1975年の58歳の耐力とほぼ同じだが、就労率は低いというのだ。これは日本の世界に冠たる社会保障体制の成果だが、未だ働ける人を放置していることになるというのだ。
さらに問題は世代間格差ではなくて、世代内格差の是正だという。同じ世代の中で困っている人と余裕のある人の格差を是正することが必要だというのだ。特に、高齢の女性単身者に貧困が多いという。しかし、今のところ日本全体から見て、困っている人の割合は未だ少ないので、余裕のある人が少しずつ負担して再配分することが大切だという。
なるほど、キリストがブドウ園で言ったように“人は必要に応じて与えられるべき”という社会観が重要なのだ。
昔、阪神間のある自治体に商品の売り込みに行ったことがあった。出てきた役人は、渋い表情で“何しに来た!”と言わんばかりで、挨拶しても名刺もよこさない。“木で鼻を括る”を現実に見た対応だった。そこへ我が社の選出した議員がやって来た。するとその役人は声を裏返し、“あら、○○さん近頃お見限りネ”と安物のゲイバーのような展開となったのには、ものすごく驚いたことがあった。役人の政治家に対する対応はこのようなものかと思い知った次第だった。まして、大物政治家であれば、その無言の圧力は木っ端役人にとっては際限なく大きいものと容易に想像できる。
東では、市場移転問題で渦中の人が記者会見したが、内容なく何となく見苦しい感じしか残らない。“責任がある”とは言うものの、具体的にどのように“取る”のかはっきりしない。日本の右派の人達は自身を“もののふ”とか“侍”とか称して大言壮語するが、昔武士は名を惜しんで人々の誤解に対しては死を選ぶこともあった。しかし、この御仁はどう責任を取るのか一向に不明確なのが今様なのか。その方面の専門家ではないので、分からないと言って逃げるのが、“侍”の振る舞いとして適切なのであろうか。頭が良いことをひけらかしてきた御仁が、急に“分からない”と言い出すのも解せない。安心と安全は違うという狭間での問題としたり顔で説明する識者もいるが、豊洲が本当に安全と言うのなら、意を尽くして説明するのが、真の政治家ではないのか。誰も責任を持って説明できないから問題になっているのではないか。
そもそも、IT時代に物流に変革があって、直販が増加する時代に豊洲の重要性はそんなに高いのか。既存の食品市場との集約統合の案もあって当然ではないかと思うのだが、これは東京の問題で、関西人がとやかく言うものでもない。築地の文化を大切にするべき、というのも分かるような気がするが、それなら又違った対応もあるのではないか。
情けないニュース・オン・パレードの中で、日本の社会保障について財政との関連で語るという講演会が、兵庫県の21世紀文明研究セミナーのシリーズで先週開催された。ここでも絶望的な状況説明になるのかと思い、聴きに出かけた。
講演者は一橋大学経済研究所・小塩隆士教授で、専門は経済制度・経済政策研究部門とのこと。全体に話は分かり易かった。
社会保障の財源について考える時、“一般政府”という概念で一括して見ないと正確な全体像は分からないという。“一般政府”は、中央政府、地方政府及び社会保障基金という統計上の概念から成り立っている。通常、私達は中央政府の支出のみで見ていて、財政危機を煽られているが、それだけでは部分的な内容になるというのだ。
その“一般政府”の過去40年間つまり日本の社会保障がほぼスタートした1970年以降における政府支出の上昇は“社会保障給付の増加だけでほぼ説明できる”ということになるというデータを示している。その結果財政収支の基調は社会保障が大きく左右しているという。つまり“財政政策は、財務省ではなく厚生労働省が所管”していると言えるという。ところが、給付は増加するが、1990年以降負担は増大していないとデータが示している。誰が負担することになっているのか、それは財政赤字を国債で埋め合わせている訳なので、今居ない将来世代が負担することになっている、というのだ。
この状況を国民貯蓄の観点で整理してみると次のようになる。
政府貯蓄=(税+社会保障負担)-(社会保障給付+その他の経常収支)
民間貯蓄=所得+(社会保障給付+その他の経常収支)-(税+社会保障負担)-消費
ここで
国民貯蓄=政府貯蓄+民間貯蓄 であるが括弧内の要素は相殺されて次のようになる。
国民貯蓄=所得-消費
この上さらに正確には国家全体の固定資産の減価償却つまり固定資本減耗(現在 年間約120兆円・GDPの約23%)を差し引きし、
国民貯蓄=所得-消費-固定資本減耗分
これが、そもそもの本質問題である。要するに国全体の稼ぐ力が究極の問題となるのだ。これが維持されれば、財政赤字が如何に拡大しても、日本国内の選択の問題で大きなことにはならないというのだ。
だが、実際には内閣府の“国民経済計算”よりこの国民純貯蓄を計算してみると、1990年を頂点に前後はあるものの減少傾向にあり、2010年前後に2度ゼロになった年があるという。日本は国際的には、対外純資産があると言っても340兆円で、社会保障費のたった3年分しかならないので、極めて危険な状態である、というのだ。
確かに、90年代既に日本のGDPは500兆円と言われていたが、20年経過しても未だにGDPは500兆円と言われている。経済成長が全く見られていないのだ。しかし、周囲の世界経済はどんどん成長しているので、日本だけが少しずつ相対的に沈んでいることになる。具体的には円高で産業構造が空洞化し、貿易収支が危うい状況になって来ているが、経常収支は黒字を保っていて、これが“強い円”を何とか支える大きな要素になっているのは事実だろう。対外純資産からの上りや知財による儲けが日本経済を支えているだけという、極めて危ういのが実情なのだ。
にもかかわらず、日本の大手企業の経営者は将来投資に消極的で、IT投資すら諸外国に比べて少ないと言われている。働き方改革など政府から言われないと労働生産性を向上させる意思もなかった。あまつさえ、シャープや東芝に見られるような間抜けな経営者が折角の技術を海外(中国)に売り払って、何とか生き残ろうとしているのは情けない限りだ。政財官のエリートとされる人々のこの体たらくでは、いずれ日本は地獄の底に転落するのではないかと思われる。
つまり、以下の要因で日本経済存立の危機が考えられるという。
①財政赤字の拡大を民間貯蓄が賄いきれなくなり、将来世代に残すべき富の“食い潰し”局面入りするか
②高齢化による、生産人口の減少と消費側の人口増
ここで注意するべきは財政再建が問題なのではなくて、日本経済の再建が問題なのだ。特に次の項目を指針とするべきだという。(②はその国の文明進化度が進展すると見られるある程度普遍的問題だが、日本は急激すぎる。)
(1)生産(所得)と消費のバランス(黒字化)
①労働人口の増加(高齢者の戦力化→各々できる範囲で/高齢者の就労機会)
②子育て支援
③労働生産性の向上
(2)公平な再分配政策(困っている人の支援)
講演者は特に、(1)①について、平均余命を横軸にし就労率を縦軸にして、1975年と2010年のデータをプロットすると2010年のデータが全て1975年のデータを下回っているという。つまり2010年の65歳と1975年の58歳の平均余命がほぼ同じだが、就労率は2010年の65歳は50%前後であるが、1975年の58歳の就労率は80%を超えている。2010年の65歳の耐力は1975年の58歳の耐力とほぼ同じだが、就労率は低いというのだ。これは日本の世界に冠たる社会保障体制の成果だが、未だ働ける人を放置していることになるというのだ。
さらに問題は世代間格差ではなくて、世代内格差の是正だという。同じ世代の中で困っている人と余裕のある人の格差を是正することが必要だというのだ。特に、高齢の女性単身者に貧困が多いという。しかし、今のところ日本全体から見て、困っている人の割合は未だ少ないので、余裕のある人が少しずつ負担して再配分することが大切だという。
なるほど、キリストがブドウ園で言ったように“人は必要に応じて与えられるべき”という社会観が重要なのだ。
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