The Rest Room of ISO Management
ISO休戦
東京プチ観光―湯島天神・水道歴史館・防衛庁市ヶ谷・東京都美術館 その2
水道橋からJR(JR発足時は“国電”の代わりに“E電”と呼ぼうとしていたが、死語になった?)に乗り市ヶ谷で下車したが、土地勘のない悲しさ。駅から西方向に歩きだし、スマホで確かめると後ろに行かないと川(堀?)を横切る橋がないことを知り、少し戻らねばならなかった。
防衛庁正門に着いてみると、既に見学者は集まっており、受付は始まっていたが、特に遅れたというほどではなかった。門衛はどうやら、民間のガードマンのようだ。普通なら正規自衛官が武装して警戒し、入門手続きをするものだろうが、露骨に武器を携行するのは差し控えているのかも知れない。見学の先導役は年配の男性自衛官一人で行うようで“点呼”を受け、配付された赤い紐のタグを着用。赤いコートを着た女性数名(自衛官?)がその補佐役で案内してくれる。
正門をくぐり敷地内に入ったところで偶然にも、北部の陸自基地からCH47ヘリコプターが轟音を上げながら飛来し、強風の中本館A棟の屋上に着陸しようとしていた。この市ヶ谷台は江戸城の北西を固める要衝として、御三家の尾張藩が屋敷を構えた所だという。明治初期に、官軍がここに基地を構えることになり、今に至っているようだ。
従い内部の建物群は高台にあり、意外にもアプローチするにはまず高台に登るエスカレータに乗って4~5階分の高さへ登らねばならない。そこから見学ツアーは始まる。
やがて、本館と言えるA棟つまりここで防衛大臣が執務していて、ここでは最大の規模の建物であるが、その前を通過。構内は概ね撮影可だが、A棟の中を撮らないようにして欲しいとのことで、前が儀仗広場になっていて、その間の通路を通り“市ヶ谷記念館”に移動。この儀仗広場で外国賓客を迎える閲兵儀礼を行うとのこと。その儀仗広場の下には戦時中に建設した防空壕があるという。その換気口は庭園木立の中の灯篭に偽装しているが、内部は劣化が激しく、今は立ち入り禁止にしているとのことだった。
やがて、市ヶ谷記念館の前に出る。すぐ向かいの建物は中央大学キャンパスの学舎、西隣は警察(警視庁第5機動隊)。この記念館は“三島事件”の舞台になった建物の一部をイメージを残しつつ、当時の部材のまま使ってスケール・ダウンして再現したものとのこと。防衛庁のホーム・ページではそれが読み取れなかった。実際には、玄関上のバルコニーが三島が演説した場所で、その後ろが当時の総監室で、そこで割腹自殺したのだ。事件当時、血の海になったといい、新聞には鮮明ではないが、この場所に置かれた遺体と首が並んだ写真が掲載されていた記憶がある。
玄関広間から直ぐドアの中は講堂になっている。ここは、戦前陸軍士官学校の建物として使用され、正面向かいの舞台中央が、天皇の玉座だったという。終戦直後には、ここで極東軍事裁判が開催され、その舞台全体、玉座のあった前あたりは海外のマスコミ等に割り当てられた場所にされた、という。左手に一段と高い判事席を設け、右手には低めの被告人席を置いたとのこと。フローリングには楢材が使用されているが、これは再現可能な限り創建時の部材を再使用しているとの事。その元玉座の中には入れないが、そこへ向かう階段には上り下りできた。この階段には、最初の段の幅方向にはわずかなふくらみを持たせたり、最上段では中央がわずかにへこませている等、細やかな気遣いがあるとの説明。しばらくここで、自由見学。
やがて、2階に案内されて三島事件時の元総監室、戦前は士官学校校長室へ行く。ここには以前のこの建物そのものの模型があった。やはり以前の建物はこの地の中心的建造物で、壮観な印象がある。場所は今のA棟の所だったという。やはり、歴史的建造物として残すべきだったのではないかと思うが、今となっては仕方あるまい。三島事件当時の刀疵がドアにあるとの説明だったが、慌てて撮った写真は後で見るとピンボケになっていた。
天皇御臨席時の控えの間も残されていた。ここには信頼できる冷房技術のない時代に、地下の冷気を利用するために柱に見せたダクトを仕込んでいるという説明だった。この市ヶ谷記念館が、市ヶ谷台見学ツアーのメインであった。
後は、厚生棟に向かい、ここで広報施設見学、休憩。ここには働く自衛官の寮(隊舎)があるので、さらにその自衛官のための売店、コーヒー・ショップ、銀行のATMがあるのだ。そこで見学者等、外部の人が記念品等土産物も買えるようにしている。広報の部屋以外は撮影禁止。多分、自衛官のプライバシー保護なのだろうか。何だか外部の人もここには大勢入り込んでいるので、ホッとしたい自衛官には気の毒な限り。
休憩が終わり、外へでるとここから再び撮影禁止となった。裏の広場へ目をやると、PAC3と思しきランチャーが数基据えられていた。北朝鮮のミサイルを警戒してのことだろうか。これで予定終了。ほぼ午後3時半。
ここで予定としては、急ぎ上野にJRで向かう。上野駅に着いてからどんどん西側へ闇雲に歩いて行くだけで、幸いにも何とか東京都美術館に出た。“ティツィアーノとヴェネツィア派展”の観覧へ。ここでも音声ガイドを使用。やはり音声ガイドはてっとり早く、ポイントが分かり、ありがたい。フランドルの影響も結構あるようだが、全体としてはルネッサンス絵画の名画という感じ。フィレンツェやミラノとヴェネツィアの色濃い関係が説明で登場しないのは奇異に思われる。疲労感と眠気に襲われながら、強く印象に残るものが少ないまま、一応すべて見て幸い時間切れとなった。
日没となり心細い気分の中疲労もあり、もうこれ以上何かする気にはならない。しかし、お腹にガスがたまる傾向が感じられるのでアメ横で“ガスピタン”を探したが、どうやら中国人向けの商品ばかりで、いわゆる“薬”の販売は少ない。まぁ何とかそれも見つけて、上野駅にあるスーパーで向こう2日間に必要な食糧菓子等を買う。関西では大抵のスーパーで売っているヤクルトのプレティオは都内では残念ながらどこにも売っていない。都内のスーパーはコンビニとの棲み分けも不十分な感じで物価は高いだけ。商況は関西より進化が遅れているように思うが、どうだろうか。JR水道橋に向かう。そして、荷物を預けたホテルに正式にチェックイン。最後は、牛丼チェーンで味気なく夕食。あきらめきれずに、付近の小型スーパーも徘徊したが、やっぱり残念で終わった。
防衛庁正門に着いてみると、既に見学者は集まっており、受付は始まっていたが、特に遅れたというほどではなかった。門衛はどうやら、民間のガードマンのようだ。普通なら正規自衛官が武装して警戒し、入門手続きをするものだろうが、露骨に武器を携行するのは差し控えているのかも知れない。見学の先導役は年配の男性自衛官一人で行うようで“点呼”を受け、配付された赤い紐のタグを着用。赤いコートを着た女性数名(自衛官?)がその補佐役で案内してくれる。
正門をくぐり敷地内に入ったところで偶然にも、北部の陸自基地からCH47ヘリコプターが轟音を上げながら飛来し、強風の中本館A棟の屋上に着陸しようとしていた。この市ヶ谷台は江戸城の北西を固める要衝として、御三家の尾張藩が屋敷を構えた所だという。明治初期に、官軍がここに基地を構えることになり、今に至っているようだ。
従い内部の建物群は高台にあり、意外にもアプローチするにはまず高台に登るエスカレータに乗って4~5階分の高さへ登らねばならない。そこから見学ツアーは始まる。
やがて、本館と言えるA棟つまりここで防衛大臣が執務していて、ここでは最大の規模の建物であるが、その前を通過。構内は概ね撮影可だが、A棟の中を撮らないようにして欲しいとのことで、前が儀仗広場になっていて、その間の通路を通り“市ヶ谷記念館”に移動。この儀仗広場で外国賓客を迎える閲兵儀礼を行うとのこと。その儀仗広場の下には戦時中に建設した防空壕があるという。その換気口は庭園木立の中の灯篭に偽装しているが、内部は劣化が激しく、今は立ち入り禁止にしているとのことだった。
やがて、市ヶ谷記念館の前に出る。すぐ向かいの建物は中央大学キャンパスの学舎、西隣は警察(警視庁第5機動隊)。この記念館は“三島事件”の舞台になった建物の一部をイメージを残しつつ、当時の部材のまま使ってスケール・ダウンして再現したものとのこと。防衛庁のホーム・ページではそれが読み取れなかった。実際には、玄関上のバルコニーが三島が演説した場所で、その後ろが当時の総監室で、そこで割腹自殺したのだ。事件当時、血の海になったといい、新聞には鮮明ではないが、この場所に置かれた遺体と首が並んだ写真が掲載されていた記憶がある。
玄関広間から直ぐドアの中は講堂になっている。ここは、戦前陸軍士官学校の建物として使用され、正面向かいの舞台中央が、天皇の玉座だったという。終戦直後には、ここで極東軍事裁判が開催され、その舞台全体、玉座のあった前あたりは海外のマスコミ等に割り当てられた場所にされた、という。左手に一段と高い判事席を設け、右手には低めの被告人席を置いたとのこと。フローリングには楢材が使用されているが、これは再現可能な限り創建時の部材を再使用しているとの事。その元玉座の中には入れないが、そこへ向かう階段には上り下りできた。この階段には、最初の段の幅方向にはわずかなふくらみを持たせたり、最上段では中央がわずかにへこませている等、細やかな気遣いがあるとの説明。しばらくここで、自由見学。
やがて、2階に案内されて三島事件時の元総監室、戦前は士官学校校長室へ行く。ここには以前のこの建物そのものの模型があった。やはり以前の建物はこの地の中心的建造物で、壮観な印象がある。場所は今のA棟の所だったという。やはり、歴史的建造物として残すべきだったのではないかと思うが、今となっては仕方あるまい。三島事件当時の刀疵がドアにあるとの説明だったが、慌てて撮った写真は後で見るとピンボケになっていた。
天皇御臨席時の控えの間も残されていた。ここには信頼できる冷房技術のない時代に、地下の冷気を利用するために柱に見せたダクトを仕込んでいるという説明だった。この市ヶ谷記念館が、市ヶ谷台見学ツアーのメインであった。
後は、厚生棟に向かい、ここで広報施設見学、休憩。ここには働く自衛官の寮(隊舎)があるので、さらにその自衛官のための売店、コーヒー・ショップ、銀行のATMがあるのだ。そこで見学者等、外部の人が記念品等土産物も買えるようにしている。広報の部屋以外は撮影禁止。多分、自衛官のプライバシー保護なのだろうか。何だか外部の人もここには大勢入り込んでいるので、ホッとしたい自衛官には気の毒な限り。
休憩が終わり、外へでるとここから再び撮影禁止となった。裏の広場へ目をやると、PAC3と思しきランチャーが数基据えられていた。北朝鮮のミサイルを警戒してのことだろうか。これで予定終了。ほぼ午後3時半。
ここで予定としては、急ぎ上野にJRで向かう。上野駅に着いてからどんどん西側へ闇雲に歩いて行くだけで、幸いにも何とか東京都美術館に出た。“ティツィアーノとヴェネツィア派展”の観覧へ。ここでも音声ガイドを使用。やはり音声ガイドはてっとり早く、ポイントが分かり、ありがたい。フランドルの影響も結構あるようだが、全体としてはルネッサンス絵画の名画という感じ。フィレンツェやミラノとヴェネツィアの色濃い関係が説明で登場しないのは奇異に思われる。疲労感と眠気に襲われながら、強く印象に残るものが少ないまま、一応すべて見て幸い時間切れとなった。
日没となり心細い気分の中疲労もあり、もうこれ以上何かする気にはならない。しかし、お腹にガスがたまる傾向が感じられるのでアメ横で“ガスピタン”を探したが、どうやら中国人向けの商品ばかりで、いわゆる“薬”の販売は少ない。まぁ何とかそれも見つけて、上野駅にあるスーパーで向こう2日間に必要な食糧菓子等を買う。関西では大抵のスーパーで売っているヤクルトのプレティオは都内では残念ながらどこにも売っていない。都内のスーパーはコンビニとの棲み分けも不十分な感じで物価は高いだけ。商況は関西より進化が遅れているように思うが、どうだろうか。JR水道橋に向かう。そして、荷物を預けたホテルに正式にチェックイン。最後は、牛丼チェーンで味気なく夕食。あきらめきれずに、付近の小型スーパーも徘徊したが、やっぱり残念で終わった。
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