The Rest Room of ISO Management
ISO休戦
“主権在米経済”を読んで
10月1日、日本郵便会社が 発足しました。少し前に読んだ本の、“「郵政民営化」はアメリカの日本再占領の総仕上げだ”という主張を 思い出します。
その本とは、“主権在米経済”。本屋さんで 思わず手にとってしまい 買ってしまったものです。私は自分自身では それほど偏狭な愛国者では ないつもりですが、確かにこの本の標題は 確実に私の心の琴線に響くものがありました。表紙の下には “これからも貢ぎ続ける日本でいいのか?” とあり、そして、さらに良く見ると そのサブタイトルは “「郵政米営化」戦記” とありました。
著者は あの郵政民営化選挙で “刺客”に “葬られた”小林興起氏です。まぁ それならチョットは読んで見ても 良いかなぁという気分で 読んでみたものです。
しかし、読後感想としては、この著者の 主張、いかにも感覚的、感情的で 論理的、理性的な事実の積み上げに乏しい印象です。結局 私にとって新たな事実など なにも提示されなかったように思います。つまり、著者は 何を根拠として主張しているのか この本では不明のままなのです。ある種の欲求不満は 鬱積したままで 解消されずに残ってしまいました。
著者は 自己の経歴を この著書の中でも披瀝していますが、とてもその経歴にふさわしい内容の本とは思えません。
つまり、“「郵政民営化」はアメリカの日本再占領の総仕上げだ”という主張の 合理的根拠や事実が どこまで読んでも 結局 示されていなかったのです。唯一 大仰に そして繰り返し 根拠として示されているのが 米国政府によって提示されている“年次改革要望書”です。単純に それだけを 根拠として決め付けて良いのでしょうか。
状況証拠だけであったとしても、もっと それらしい事実を 複数積み上げて 読者に提示するべきではないのでしょうか。例えば 具体的にどのようなフローで 明らかに日本マネーが米国のエスタブリッシュメントへ流入し、“貢ぎ続ける日本”となっている証左なのか、そしてそれは 「郵政米営化」とどのように関連するのかを 具体的に提示するべきだと思うのですが そのような記述は一切なかったのです。そもそも「郵政米営化」とは 何を指してのことなのかも説明がなかったように思います。
日比谷高校、東京大法学部から 通産(現経産)省、米国ペンシルバニア大(ウォートン・スクールMBA)留学という経歴の 選良の著書とは とても思えません。あるいは、具体的事実は 著者も把握しておらず、消化不良のまま出版したということなら 不誠実のそしりを免れません。民主党の ニセメール事件を想起します。 (“消化不良”と気付いてくれていれば 未だマシのような気がしますが・・・逆に意図的にはぐらかしているのであればなお罪が深い?) もし、知っていて書いていないのならば、同氏の“政治に命を懸けている”という台詞と矛盾します。
それに小林氏の主張が 真相であったとしても、それは 日本人自身の手で “改革”できなかったその隙に 外国勢力が “小泉一派”を使って入り込んで来て 彼らの利益誘導に載せられたのではないか、と内心思うのです。
何せ、小泉氏が 颯爽と登場した時 私も 確かに“改革”の息吹を感じ取っていました。それは どん底の経済状況で どうしようもない閉塞感にもかかわらず 既得権益にヌクヌクしていた“抵抗勢力”を 適切に排除されないことに 焦燥感があったためです。
そういう 一般的日本人の心理状況が 新自由主義を標榜する外国勢力に易々と入り込まれる隙を与えたのだと 考えるのが 妥当なのでしょう。
自分たちの手で 自分たちの危機をコントロールできないことほど 悲劇的なことはありません。自分のクライシス・マネジメントができない組織は 他者に利用され、衰退するのです。明治維新の前、中国は それができなかった。そして 今日に到るまでの苦難の歴史を歩んでいるのだと思うべきでしょう。そして 今なお その影響下にあるように思います。
その点で、明治維新は すばらしい歴史の転換点だったと思います。
小泉氏の背後にある新自由主義は 当時、新鮮に映り、そしてその個性的政治スタイルに幻惑させられたのです。
日本中が 彼のスタイルを支持しました。それは ベルサイユ体制の閉塞下にあった ドイツ国民が ヒットラーを支持した時と同じ心情でなかったかと 思われます。非常に危険な政治状況だと言えるのではないでしょうか。
そして 戦後の良きものが 熱狂の中で何の分析・反省も無くアッサリ捨てられ、次第に格差社会が形成され、挙句の果て 小泉的政治状況に悪乗りした小児的パフォーマンスのみの安倍氏がこけて ようやく催眠状態が解け始めたというのが今日ではないのか、と思うのです。
何故 そうなったのか。それは 小林氏の指摘するように“3大バカ(マスコミ,政治家,官僚)の壁”のせいだったのかも知れません。(確か 大前研一氏は これに御用学者を加えて強固なテトラゴナルと言っていたように記憶。)しかし、それは あまりにも自己中心現世利益ばかりを追求する風潮を 日本の選良達が率先して体現している結果です。その点で 現代日本は 維新前夜の社会状況と大きく異なるのではないかと思うのです。
一昔前なら 政治・社会状況に 様々な見解が言論界から提供されていたような気がしますが 今や少数意見は 一定の勢力としては形成されず、一つの見解のみが 一方的に圧倒的多数となって喧伝される時代となっています。
緻密な論理で組立てられた理性的な 議論が日本の行く末を定めるというような ことはなく、刹那的・感情的に 常に何かを悪者にしたてて攻撃を繰り返すという、最近の風潮が気になります。イジメの心理構造そのもののような気がします。
そう言えば、小林氏のこの著書も そのように感覚的・感情的な議論の今様の本ですが、“残念ながら小さな声のまま”であり、絶対的多数を形成できていないだけです。一見人を驚かすような 他とは毛色の異なる主張のようですが、何ら訴求力なく、決定的に論証性に欠けています。読んでいる過程で、少々 賞味期限切れの印象を持ったのは そんなところに原因が あったのだという読後の徒労感のみが残りました。
その本とは、“主権在米経済”。本屋さんで 思わず手にとってしまい 買ってしまったものです。私は自分自身では それほど偏狭な愛国者では ないつもりですが、確かにこの本の標題は 確実に私の心の琴線に響くものがありました。表紙の下には “これからも貢ぎ続ける日本でいいのか?” とあり、そして、さらに良く見ると そのサブタイトルは “「郵政米営化」戦記” とありました。
著者は あの郵政民営化選挙で “刺客”に “葬られた”小林興起氏です。まぁ それならチョットは読んで見ても 良いかなぁという気分で 読んでみたものです。
しかし、読後感想としては、この著者の 主張、いかにも感覚的、感情的で 論理的、理性的な事実の積み上げに乏しい印象です。結局 私にとって新たな事実など なにも提示されなかったように思います。つまり、著者は 何を根拠として主張しているのか この本では不明のままなのです。ある種の欲求不満は 鬱積したままで 解消されずに残ってしまいました。
著者は 自己の経歴を この著書の中でも披瀝していますが、とてもその経歴にふさわしい内容の本とは思えません。
つまり、“「郵政民営化」はアメリカの日本再占領の総仕上げだ”という主張の 合理的根拠や事実が どこまで読んでも 結局 示されていなかったのです。唯一 大仰に そして繰り返し 根拠として示されているのが 米国政府によって提示されている“年次改革要望書”です。単純に それだけを 根拠として決め付けて良いのでしょうか。
状況証拠だけであったとしても、もっと それらしい事実を 複数積み上げて 読者に提示するべきではないのでしょうか。例えば 具体的にどのようなフローで 明らかに日本マネーが米国のエスタブリッシュメントへ流入し、“貢ぎ続ける日本”となっている証左なのか、そしてそれは 「郵政米営化」とどのように関連するのかを 具体的に提示するべきだと思うのですが そのような記述は一切なかったのです。そもそも「郵政米営化」とは 何を指してのことなのかも説明がなかったように思います。
日比谷高校、東京大法学部から 通産(現経産)省、米国ペンシルバニア大(ウォートン・スクールMBA)留学という経歴の 選良の著書とは とても思えません。あるいは、具体的事実は 著者も把握しておらず、消化不良のまま出版したということなら 不誠実のそしりを免れません。民主党の ニセメール事件を想起します。 (“消化不良”と気付いてくれていれば 未だマシのような気がしますが・・・逆に意図的にはぐらかしているのであればなお罪が深い?) もし、知っていて書いていないのならば、同氏の“政治に命を懸けている”という台詞と矛盾します。
それに小林氏の主張が 真相であったとしても、それは 日本人自身の手で “改革”できなかったその隙に 外国勢力が “小泉一派”を使って入り込んで来て 彼らの利益誘導に載せられたのではないか、と内心思うのです。
何せ、小泉氏が 颯爽と登場した時 私も 確かに“改革”の息吹を感じ取っていました。それは どん底の経済状況で どうしようもない閉塞感にもかかわらず 既得権益にヌクヌクしていた“抵抗勢力”を 適切に排除されないことに 焦燥感があったためです。
そういう 一般的日本人の心理状況が 新自由主義を標榜する外国勢力に易々と入り込まれる隙を与えたのだと 考えるのが 妥当なのでしょう。
自分たちの手で 自分たちの危機をコントロールできないことほど 悲劇的なことはありません。自分のクライシス・マネジメントができない組織は 他者に利用され、衰退するのです。明治維新の前、中国は それができなかった。そして 今日に到るまでの苦難の歴史を歩んでいるのだと思うべきでしょう。そして 今なお その影響下にあるように思います。
その点で、明治維新は すばらしい歴史の転換点だったと思います。
小泉氏の背後にある新自由主義は 当時、新鮮に映り、そしてその個性的政治スタイルに幻惑させられたのです。
日本中が 彼のスタイルを支持しました。それは ベルサイユ体制の閉塞下にあった ドイツ国民が ヒットラーを支持した時と同じ心情でなかったかと 思われます。非常に危険な政治状況だと言えるのではないでしょうか。
そして 戦後の良きものが 熱狂の中で何の分析・反省も無くアッサリ捨てられ、次第に格差社会が形成され、挙句の果て 小泉的政治状況に悪乗りした小児的パフォーマンスのみの安倍氏がこけて ようやく催眠状態が解け始めたというのが今日ではないのか、と思うのです。
何故 そうなったのか。それは 小林氏の指摘するように“3大バカ(マスコミ,政治家,官僚)の壁”のせいだったのかも知れません。(確か 大前研一氏は これに御用学者を加えて強固なテトラゴナルと言っていたように記憶。)しかし、それは あまりにも自己中心現世利益ばかりを追求する風潮を 日本の選良達が率先して体現している結果です。その点で 現代日本は 維新前夜の社会状況と大きく異なるのではないかと思うのです。
一昔前なら 政治・社会状況に 様々な見解が言論界から提供されていたような気がしますが 今や少数意見は 一定の勢力としては形成されず、一つの見解のみが 一方的に圧倒的多数となって喧伝される時代となっています。
緻密な論理で組立てられた理性的な 議論が日本の行く末を定めるというような ことはなく、刹那的・感情的に 常に何かを悪者にしたてて攻撃を繰り返すという、最近の風潮が気になります。イジメの心理構造そのもののような気がします。
そう言えば、小林氏のこの著書も そのように感覚的・感情的な議論の今様の本ですが、“残念ながら小さな声のまま”であり、絶対的多数を形成できていないだけです。一見人を驚かすような 他とは毛色の異なる主張のようですが、何ら訴求力なく、決定的に論証性に欠けています。読んでいる過程で、少々 賞味期限切れの印象を持ったのは そんなところに原因が あったのだという読後の徒労感のみが残りました。
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