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“なぜ日本人は落合博満が嫌いか?”を読んで

先週に引き続き、今週も落合氏をテーマにしたい。標掲のテリー伊藤著“なぜ日本人は落合博満が嫌いか?”を読んでいたからだ。本来は、先週の“采配”の読後感想のなかで、取上げるつもりであったが、先週も言ったように何故だか思わず長くなって記載余地が無くなってしまったので、ここで別に取上げることにした。
まず何故、私がリーダー・シップ論を考えるにあたって落合氏を取上げたのか。それは、プロ野球の監督として目を見張る業績を残したからの一言に尽きる。そればかりではない。名選手、必ずしも名監督ならず、と言うが、この人にそれは当てはまらない。さらに落合氏には選手時代から、インタビューへの受け答えに自信に満ちたブレない姿勢を感じていた。その自信の塊のような人が、監督をした中日が何とか優勝を果たしたとき泣いたことがあった。それを見て、自分に厳しく、他人にも厳しいはずの人にも涙があるのだと感動したものだった。
こういう人の信条はどういうものだろうか、それを知りたいと思うのは当然ではないかと思う。
そのことのついでに、こういう実力者に人気があまりないのは、どういうことなのだろうか。それに明確に答えているのがテリー伊藤氏ではないかと思われたのだ。要するに“日本人は落合氏が嫌い”なのだ。なぜなのか。日本人に人を見る目がないのだろうか。こういう人を見る目がない日本人に選挙権を与えて適切な政治が行える訳がないではないか。今、混迷する政治は、日本人自身が適切な政治家を選んでこなかった結果なのである。消費税を推進する政治家も、それに反対する政治家も その主張に納得のできるものはない。選挙のみに全精力を傾けて、果たして本来任務を果たせているのだろうか。

旧態依然たる利権構造はそのままで、それを官僚が主導する体制は根強く生き残っている。政治家だけが使い捨てられて行く。小粒な首相の交代劇にそれが端的に現われている。そういう消耗品の政治家、その数を減らせ、という議論も根強くある。議員の歳費全体を減らすのが目的のようだ。ならば、1人の政治家に任せれば話は早いのではないか。歳費のため人員を減らす結果の究極の姿は1人だからだ。それは独裁政治だ。独裁とは言え、その か弱く権力のない1人が強大な官僚群とどのように戦えると言うのだろうか。夢のない利権だけの官僚独裁国家というのが今の本当の日本の姿だ。日本人の想像力の乏しさと いい加減さにはあきれ果てる。

こんな日本人、なぜ落合氏が嫌いなのだろうか。テリー氏は冒頭で端的に答える。
“それは、日本人が落合の凄さを評価できるほど、大人になっていないからではなかろうか。”
まぁ、これで全てではなかろうか。そんな気がする。もうこれ以上読む必要もない?!!
“いまの日本は、どんどん「子ども文化」になってしまったような気がする。・・・・日本全体が、成長しきれない子どものような国になってしまったおかげで、いま日本は国力が落ちている。国民は、みんな右往左往しながら、ただただ、たむろしている。”
ますます、大いに共感できるではないか。

日本人は落合氏の何が嫌いなのか。テリー氏の解説に沿ってなぞって見よう。
先ず、徹底した合理主義(つまり論理性)が嫌い。幼児化していて説明過多に慣れ、説明しない“寡黙な落合”が嫌い。昔は“男は黙って・・・”が好きだった日本人だが・・・。落合氏を“常識はずれ”だと見なして、落合氏の“常識”を疑う姿勢が嫌い。(落合氏本人は、常識を実践していると主張しているが。)
付和雷同しない落合氏が嫌い。付和雷同せず自分たちを見下していると、勝手に思い込む“やっかみ”があるのではないか。自分に自信の持てない人には、そのように見えるものだからだ。だから“名球会入りの名誉”を拒否する落合が嫌いになる。だが、この本ではその名球会の存在の怪しさをテリー氏は明かしてくれている。

中日の新監督になった落合氏は“補強は一切、しません。いまの戦力でも、十分に優勝できます。”と宣言して優勝してみせる。テリー氏は言う。“なぜ、落合監督は、常識のある野球人やファンの嘲笑を逆に嘲笑うかのようにして、予告ホームランみたいな快挙をとげることができたのか。その物語を知らずして、日本の野球を語ることができるのか。こんなドラマを見せてくれる落合監督に拍手喝采もしない日本人は、いったいどこに目をつけているのだろう。”
落合氏は、野球は9人で戦うもの。“10人でやるわけじゃないんだ。” “この選手をとってきたら、あの選手が割を食うのは目に見えている。どっちのためにもならないし、補強にもなっていない”と言ったという。前年の監督就任直後に選手にはキャンプイン前までに身体を仕上げるよう伝えておき、キャンプでは1,2軍全員の動きを監督が見る。そうやって、今まで埋もれていた選手のヤル気を引き出し、底上げを狙い、“いまここにいる選手が、それぞれ10%ずつ力を伸ばしてくれれば、かならず優勝できるっていうこと”と言い放ったというのだ。

絶対に弱音を吐かない落合氏。2009年の戦力ダウンでBへ転落と見られた年、落合氏は打力は落ちたが守備力は向上し失点が少なくなると見て、“点を与えず、どうやって1点をとるかという簡単な野球に戻すだけ”と嘯いたという。そして巨人が優勝を決め2位に甘んじなければならなくなった時、“最初の目標にしていたものが取れなかっただけ。・・・(クライマックス・シリーズでは)そんなにみくびるな”と言ったという。ところが、それも負けてしまうと“みんなBクラスといったけど、最後まで巨人と日本シリーズを争ったじゃないか”とは言わず、“楽しいじゃない。みんなBクラスを予想してくれて”と言ったという。さらに“まだ伸びしろのある負け方だ”と来季を見据えてコメントしたという。
これにテリー氏は“(落合監督は)意味のあることしか言わない。かならず言葉の奥に意図がある。”とし、“落合の無愛想な口ぶりや、かわいげのない言葉を聞いて、「また落合は」などと憤っていては、落合のおもしろさも凄さも見落としてしまう。それは野球のおもしろさの大半を見落とすことでもある。”と評している。すなわち、日本人は本当の落合氏の面白さ、野球の奥深さを見落としていると暗に言っているのである。
弱音を吐き、可愛げのある人が好きな日本人。実は、私にもそのような心情を逆手にとる手法を取ることがあるが、そういう甘えが日本を駄目にしている部分があることを肝に銘じ直す必要があるように思う。世界は厳しいのだ。
だから、厳しい環境下にあるプロ野球選手がWBCに参加したがらない本音を日本人は理解できないのだ、とテリー氏は言っている。

“自分が正しいと思ったことは、どんな軋轢が生まれようとも主張する人間。周囲との折り合いや前例なんか気にせず、信念を貫く人間。常に有言実行、保険もかけず、退路も断って、勝利を目指す人間。・・・・そういう人間が、この国には必要なのだ。”
そうは言うが、落合氏は決して無理矢理自己主張ばかりし続けている訳ではない。周囲を見て意味のあることを主張しているのだが、なぜかその言葉の背景を理解せず、そうは受け取らないのが浅薄な日本の現状なのだ。
テリー氏は、“「別に勝たなくてもいいじゃん」「1番でなくてもいいじゃん」という日本人ばかりになって、どんどん弱体化していく一方なのである。そういう国のなかで、落合だけは「1番にならなきゃ意味がない」「勝つこと以外に俺の生きる道はない」と言い続けている。”と言っている。さらに、“長嶋革命に拍手喝采した日本人は、落合革命を絶賛しない。それは、時代が変わり、日本という国の形が変わったのに、まだ古い価値観にしがみつこうとしているからだ。”とも言っている。だが、それはむしろ、現在の野球ファンそのものの特徴なのかも知れない。若い人や新しいものに敏感な人はサッカーに興味が移り、野球はワンノブゼムになってしまっている。残された‘野球が全ての人’の感性が古いままであることによるのではないかという気もしない訳ではない。それは ある意味で落合氏の不幸なのかも知れない。

テリー氏は、日本人はいつも その人が亡くなってから評価する癖があるとして、マイケル・ジャクソンやエルビス・プレスリーへの日本での評価が、当人が亡くなってから上がった例を示している。そして、落合氏の真価もそうなるのではないかとの懸念を表明している。確かに、亡くなってからいくら評価したところで その意義は半減してしまうのは事実だし、そのことは決して日本のためにもならない。
とにかく 度し難い旧態依然とした日本人のメンタリティの現状ではある。それは、若い人の人口比が小さいこの国の不幸なのだろうか。だが、その若い人の幼児化した甘いメンタリティも この国を悪くしている部分があるのではないか。いや、たとえそういう環境下にあっても嫌われることを恐れていては、真のリーダー・シップは取れないことも事実のようだ。

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