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西 研・著“しあわせの哲学―「わたし」の輪郭を一望する”を読んで

先週、次のように言ってしまった。“コロナ禍の感染拡大はそろそろピークが見えて来た観がある。”
これはかなりな言い過ぎだったと反省している。それは実効再生産指数の各地の値が、低下傾向を続けていたからだった。だが最近になって、いよいよ審査先で“濃厚接触者”に近い従業員が出たという情報が出て来た。それほど感染がこれまでになく拡大してきたのであろう。
それでもなお、実効再生産指数は先週も引き続き単調減少を継続し、先週末27日現在で全国地は1.6となり、2を切って未だ下がり続けている。この値、さらに1を切って下回れば、いよいよ感染拡大もピークを迎えることになる。ここ1,2週間先になるかも知れないが、とにかくそうなれば終息は近いこととなる。一方では、ο株の亜種BA2が発見されているので、その影響がどうなるかは予断を許さないのかも知れない・・・(結局何が言いたいネン!?)

地域    実効再生産指数最大時期  最大値    先週末27日の値
全国       9日         5.9         1.6
東京      10日         5.26         1.75
大阪       9日         4.82         1.49
兵庫      10日         5.48         1.67
京都      11日         3.80         1.49

このまま“♪ウッ!マンボウ!”から“緊急事態宣言”へと突っ込むのか、終息へ向かうのかの瀬戸際か。専門家会議もどうやら似非専門家の集まりで、政権も当てにしなくなったという見方が広がってきている。情けない限りだ。
この時代に政権の内閣官房に、AIを使って日々即時に感染予測を公表することすらできていない。信頼できる予測があれば、国民一人一人が感染対応が可能となるはずだが、それが出来ない。出来る人がいないというのだ。
それに、気が付けば、ブースター接種はOECD諸国で最低レベルとなっている。先月までは、ワクチン接種率、先進国でトップ・レベルだと誇っていたのが、それを一瞬も維持できずベッタ?!アホか!
最近は様々な側面で、日本は先進国OECD諸国で最低レベル、というのが日本の常態ポジションとなった観がある。3回目の接種が必要だとの声は、昨年6月に初めて聞いた記憶がある。半年たっても何もできなかったのか。
コロナ禍に応じて医療体制の変更、改革もほとんど進まなかった。ハード、ソフト、人的資源の振り向けが柔軟に対応できていない、それが問題だったのではないか。何らかの強固な利権に抵触するからなのか。厚生当局は単なる規制機能しかないので、積極的に何らかの手を加えて柔軟に変更する能力がない、という議論もあるようだ。具体的に何がどうなのかは知らないが、そんなことをあるテレビ番組で言っていた。
未だに検査が十分に実施できていない。逆に抗原検査キットが不足し始めているという。その番組では明確に厚生当局の問題だと言っていた。それにだれも反論しなかったので、正論なのだろう。厚生官僚のレベル低下か。利権の墨守か?
日本は資源のない国。人質だけが頼りだったが、その人質が劣化してきている観もある。教育水準も悪くなってきているのか。

ロシアはウクライナ侵攻をやるだろうとの憶測が高まっている。この寒さの中で、極寒の地で潜んでいるロシア兵も気の毒の限りだ。戦車の中に十分な暖房はあるのだろうか。防寒着は十分なのだろうか。彼らはクリスマスも正月もなく、単なるプーチンの私欲の犠牲となっているのだ。彼等には外部情報もなく、自分たちがどういう状況下に置かれているのかすら知らずに居るのだという。かの国はそういうことが許される国なのだ。それでいいのか。
それに対抗するウクライナ側兵士も同じような状態であろう。だが、侵略側と祖国防衛側ではその心構えや士気が全く異なるであろう。戦争ではその違いは大きいという。
ロシア軍は北のベラルーシ側から、ウクライナ・首都キエフを攻めるとの予測もある。だが、そこには湿地帯があり普通の時期の侵攻は困難とあり、それだからこそ極寒で大地凍結の時期が絶好の機会だとも言う。だから北京五輪直後だろうとの予測が有力のようだ。
こういう国際情勢で、原油の価格も流動的になっているようだ。そうなれば、市場の動揺も大きいことになる。だからコロナ禍もあり、このところの市場動向は軟調なのだろう。
不透明なコロナ禍と国際情勢。市場は先行き不透明を最も嫌うはずだが、日本のエコノミストは何故かこれに言及せず、米国FRBの思惑を忖度するばかりだ。一体、どの国のエコノミストか。或いは何らかのしばりが、彼等にも及んでいるのだろうか。


さて、読みたい本を検索していて、ふと西研先生が最近著作した本があったのを知らずにいたことが分かった。何と発売日が昨年の6月24日。それがこの西 研・著“しあわせの哲学―「わたし」の輪郭を一望する” である。そこで慌てて買った次第である。西研先生の最新の著作に親しむことは私には重要なことだからだ。そして買ったからにはとにかく読むことにした。仏教解説のひろさちや氏を離れて、久しぶりの西洋哲学に親しみたい気分もあった。幸い、123頁の小冊子であったので、躊躇なく読み始めた。
どうやら、NHK出版の“学びのきほん”シリーズ本の1冊のようだ。いつものように出版社の本の内容概要説明と目次を示す。

内容説明
人が元気に喜びをもって生きていく、そのために必要なことは何か

哲学という営みが誕生して2500年、哲学者は、どのように「しあわせ」を見出してきたのか。ソクラテスの「対話」、ハイデガーの「可能性」、ニーチェの「永遠回帰」……。哲学者が時代ごとに考え抜いた思想の「エッセンス」から、人がしあわせに生きるために必要な考え方を提示する。

目次
はじめに―しあわせの条件
第1章 「生の可能性」とは
第2章 自分の「物語」をつくる
第3章 「承認」を求めて生きる
第4章 「自由」の感触を得る
第5章 人生を肯定するには
おわりに―つながりを育むこと

この本は、“人が元気に喜びをもって生きていく、そのために必要な条件は何か?”、それが「人間の生としあわせ」を考えることにつながるとして、追求しようというものであった。ここでいう「元気」とは“体調が悪くても、つらい状況にあっても、「前向きの元気な気持ちをもって、喜びとともに生きていく」”ということであるとしている。これはひろさちや氏の仏教の解説でしばしば言及される考え方と同じである。
哲学は“自分の人生をよいものにしたいという思いのもとに、「よいこととは何か」について考えて”きた。哲学の祖・ソクラテスは正にそれを対話で確かめようとした。それから19世紀初頭にヘーゲルが登場し、“それまでの哲学者が積み上げた議論を総括し、さらに深いところまでつきつめた”。そして、人間は「自由を求める」と同時に「他者からの承認を求める」存在であるとした。その後、ニーチェは“喜びをもって生きるためには、どうしたらよいか”を考え、20世紀にはハイデガーが、“人は「いま・ここ」だけを生きるのではなく、「これからどうやって生きるのか」を考える存在である”とした。20世紀半ばには、バタイユが現れ、“「死」や「エロティシズム」などといった概念を通して、人間のあり方について考えた”と哲学史を概観して説明している。

第1章ではこれを発展させて、「人はどんな存在なのか」からスタートするべく、動物とヒトの違いはどこにあるか、から説明が始まる。そして、まず類人猿と人の差に注目し、“類人猿は、「いま・ここ」を生きる存在”だと言っている。それに対し、“人は必ず「これから」について考える”存在だと、言い切っている。“人は、過去・現在・未来、つまり時を生きる存在”であり、これが人間と類人猿の大きな違いだとの指摘だ。

この指摘は私には重要なことだ。つい最近このブログで言ったことだが、仏教やキリスト教によれば“「今を精一杯生きるしかない」と思い諦めることが大切”と考えざるをえないと思っていたからだ。どうやら、20世紀のハイデガー以降、古代の宗教思想を乗り越えていたという事実を知ったのだ。“人が時を生きる存在”でなければ、チンパンジーとはその部分で少なくとも変わらないことになってしまう。そして私が若い時に至った考え、“悪いことは勝手にやって来る。良いことがやって来るように、今準備しなければならない”や、“昨日までの続きで、今日や明日を考えるな”は間違っていなかったことになるのだ。

西研先生の本にはこのように、大抵哲学史の流れが記述してある。そして人類の英知の展開を教えてくれているように思う。やっぱり今後も、西研先生の本に従って、ヘーゲル、ニーチェ、フッサール、ハイデッガー、バタイユの“お勉強”を進めようか、と改めて思った次第だ。
ハイデガーの後、キルケゴールは「可能性なくしては、人間はいわば呼吸することができない」(『死に至る病』)と断言したとさらに指摘している。人は未来の可能性に生きているのだ。

その「生の可能性」には3つあり、「親しい人たちとの関係」、「社会的な活動」、「趣味や楽しみ」によって生きているという。
また「生の可能性」は「したい」つまり「欲望」と、「できる」つまり「資源・能力」という要素から成り立っているとも指摘している。
ジャン・ジャック・ルソーは“わたしたちの欲望と能力のあいだの不均衡のうちにこそ、わたしたちの不幸がある。”(『エミール』)と言っているという。つまり、“いくら「したい」と思っても、どうやっても「できない」ことに苦しむ”ことが、往々にしてある、ということ。“だからルソーは、人は自分ができることを欲するのがよい”と言っている、と。
“人は自身の「生の可能性」を気づかう存在であり、欲望と能力をめぐるドラマを生き、過去から未来に向かう「物語」(夢*)を生きる”のだ。(*筆者による追記)

このように人は夢を生きるのだが、「こうしたいのに、できない」客観的事態にしばしばぶつかる。このときの、「物語を再構築する方法」は、まず“(周囲の人に)想いを受け止めてもらう”→“安心感”→“自分を客観視”→“自分の過去と未来を考える”というプロセスから、“(生への)意欲”を取り戻すことになる。この意欲の発現に伴い、「したい」つまり「欲望」と「できる」つまり「資源・能力」も見直すことで、“「自分はこれならできるし、していきたい」という道が見えてくると、新たな物語”ができる、と言っている。

人が「喜び」を感じる場面はどこにあるか。アンケート調査してみると、それは①親密な場面(友人、恋人、家族等)②社会的な場面(同じ目標のために行動する関係)③義務からの解放、趣味(リラックスすること自体を楽しむ。旅行、読書、音楽・芸術鑑賞等)にあることが分かった、という。このように「人は何を求めて生きるのか」という問いの答えを解明するには、各自の体験の言語化と交換以外に方法はない。
これが、ハイデガーの師匠であるフッサールが確立した「現象学」という「哲学するための方法」であるという。そして、それは“精神医学や看護学、心理学のような「人間」についての学問全般に、大きな影響を与え続けて”いる。

人が「喜び」を感じる場面には、“価値ある存在でありたい”つまり、周囲からの「承認」を得たいという思いと、“価値あることを成し遂げたいという能動的・主体的な「自由」な感覚”が存在する。つまり、“人が喜びをもって生きていくためには、「承認」と「自由」の二つをともに実現する必要がある”のだ。そして、その背景には自由で十分なコミュニケーション、対話、批判のプロセスがあることが必要条件なのだ。

ここでヘーゲルの芸術の成立するプロセスを説明している。表現をしたいと思い、実際に作品をつくってみると、最初に自分の思ったとおりにはいかない。こうして、主観(内的イメージ)と客観(外にできた作品)とが違ったものになってしまうことがある。また他者の作品と比べて良くないこともある。こうして、主観・客観のズレと自他のズレが起きてくる。ヘーゲルは「個々の作品は過ぎゆくものだが、それらを貫いて持続するものが出てくる。これが〈事そのもの〉である」と言った。一方“表現し批評されるという営みのなかでも人々がホンモノと信じられるものがでてくる。これを「理念」といってよい。それをヘーゲルは「事そのもの」と呼んだ”。またヘーゲルの「事そのもの」は、プラトンでは「イデア」に相当する。“プラトンのイデアは究極の理念を指す言葉で、個々の美しい作品は「美のイデア=完全な美そのもの」を(不完全にではあっても)分かち持っている、とされ”る。だから“美のイデアはしばしば「美そのもの」とも言い換えられる”。
この重要な「事そのもの」が人々に信じられるために必須な条件は、実践(行為)や作品についてのきちんとした批評があること。人々のなかで良い悪いが語り合わられ、「良さ」の質について考え合い、確かめ合うことによって、はじめて客観性が認められるからだ、という。“「事そのもの」や「イデア」”つまり、“理念”は人々の自由なコミュニケーション、対話、批判の中から生まれることになる。これがヘーゲル流の芸術のせいりつするプロセスなのであろう。
このように、“誰もが認めるであろう価値であること、つまり「事そのもの」を実現しようとするとき、そこには自分なりの行動の柱、自分の軸ができる。この自分の軸ができたとき、人は初めて自由になれる、とヘーゲルは考える”。つまり社会的承認を得て、“自分のなかに「これはよいこと」、「これを自分はめざしている」という確信が得られないかぎり、自由になれない”と考えるべきなのだ。
ところで“現代日本を生きる私たちは、「まわりの機嫌を損ねないために、空気を読まねば」と、まわりからの表面的な承認を大事にしてきた。”つまり、人々の自由で十分なコミュニケーション、対話、批判のプロセスを経ずに手っ取り早く“正解”を求めようとしているのだ。“しかし、それでは、真の自由を得ることはできない”のだ。“自由”は社会的客観的承認を得て手に入るというのがヘーゲルの思想だということだ。

この本では“人生を肯定するために”、ニーチェの“永遠回帰”を引用している。しかし、私にはこの思想にかつてこのブログで指摘したように抵抗感がある。この思想と結論には矛盾と飛躍があると思うのだ。“永遠回帰の思想からすると、嫌なことも喜びもすべて必然としてつながっている。”つまり、全ては必然の連鎖でつながっており、それが永遠に繰り返されるということではないか。そこには主体的に何かを選択する余地はない。選択したつもりでも永遠に繰り返される中で、全ての選択肢が必ず試されるハズだからだ。だからこれは“人生の決断に際しての「最大の重し」”とはなりえないし、選択し決断すること自体が無意味となってしまう。私には“嫌なことも喜びもすべて必然としてつながっている”からそこに「自由はない」、諦めろと言っているように聞こえるのだ。この点は、私に誤解があるのか今後確かめる必要がある。

この本では結論として次のことに心がけて欲しいと言っている。
“元気がなくなったときには、そのつど「したい・できる」を問い直すこと。自由と承認の欲求がそれぞれ豊かに展開するように、そして両者が結びつくように工夫すること。もし、行動できる力があるのなら、皆が認める価値あること(事そのもの)とは何かを問い、それをめがけること。そして、対話と批判のなかでその「よさ」を確かめること。”
また、対話と批判の中で、“相手の想いを「たずねる・確かめる」ことが大切”であり、“相手の想いをよく聴きとり、こちらの想いもていねいに伝えようとする。もし相手に対して不満が出たときにも、怒鳴ったりせずに、どこが困っているのかを誠実に伝える(「攻撃性を殺して伝える」と私は呼んでいる)。・・・必要なときには、互いの想いを聴き合って「どうすることがみんなにとってよいか」をいっしょにかんがえる。そのような対話の関係を育むことが、「私とみんなのしあわせ」にまっすぐつながっていくと私は信じています。”で終わっている。

この国ではつい最近、“批判”を極度に恐れ嫌がる御仁が元首相の中に現れた。それ以降、特に批判と対話がなくなり、怒号が多くなったような気がするが、思い過ごしだろうか。著者のこの本での言葉は、現代日本には特に重要な重みを持つと思うのだ。
そしてこの国の人々は自由で十分なコミュニケーション、対話、批判のプロセスを経ずに手っ取り早く“正解”を求めようとしているように思うのだ。この世に“正解”はそんなに手っ取り早く得られるものではなく、その“正解”は無い場合もあり得るのだ。まして、自由で十分なコミュニケーション、対話、批判のプロセスを経ずには“真の自由を得ることはできない”のだ。“自由”は社会的客観的承認を得てはじめて手に入れられるというのがヘーゲルの思想なのだ。

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