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桓武帝の開いた平安京

先週も、危機感の薄い日大アメリカン・フットボール部の騒動で殆どのニュースは霞んだ。何だか見え見えの続きを見せつけられたような印象だった。

この中、5月30日付の新聞に金正恩が涙を流す映像を北で党の末端幹部の教育に使っているとする記事を載せていた。“強盛国家を実現するため努力してきたのに、改革がうまくいかないもどかしさから、涙を流しておられる。”ということだ。記事は続けて“最高指導者は神に近い存在。涙を流す姿を見せることは異例だ。元幹部によれば・・・北朝鮮では「最高指導者に涙まで流させてしまった」ということになりえる。・・・「『正恩氏に従うしかない』という気持ちを党幹部に持たせる効果を狙ったようだ」と語る”という。要は北は既に国民全てが経済的困窮にあり、中露にはない米国の経済開発力による経済援助に全面的に頼る以外生き延びる術はないという実情のようだ。“5月。北朝鮮を訪れた専門家はこう感じたという。「この国は、土台から腐り始めている」”。北で人々は生き延びるために様々な不正をしているようだ。
米朝首脳会談が当面首尾よく行けば、北朝鮮は超親米国家に変身するだろうと予測する向きもあるようだ。その時も日本は米国の下請けに甘んじることになるのだろうか。現にトランプ大統領はそう言明している。日本は拉致問題で多少のクレームは付けるものの、唯々諾々とアメリカ様の言いつけに従うことになるのだろう。そのためには対米従属安倍首相の存在は貴重なのだろう。だから支持率は決定的には下がらないと分析する専門家もいる。そこまでこの国の人々は賢いのだろうか。

安倍首相と言えば、モリカケ問題もいつまでもグズグズとますます疑惑は晴れずに、未だに泥沼状態の恒常化だ。
愛媛県側の文書・記録が出てきたが、それで愛媛県が、加計学園が、そして首相のいずれがウソをついているのか、不明だった。これに対し加計側が、首相に会ったというのは偽りだったと明言。ならば加計も役所に詐欺を働いたことになる。安倍氏にまつわる人脈は詐欺師ばかり。というかアホボンにたかる太鼓持ち、落語の世界か。
それにもかかわらず、検察特捜はモリ問題の財務省幹部に忖度不起訴。この国は全て忖度、せな損たく。つまり忖度できない役人は官僚村の村八分。

こうしたごたごたの中で、“高度プロフェッショナル制度を含む働き方改革関連法”は無事成立した。この法律の解説に経済学者・竹中平蔵氏がにこやかに登場した。正に悪夢再現。この御仁、日本の労働者を困窮に落とし込んだ張本人だ。それにもかかわらず、今の若者には人気があるらしい。おバカも休み休みにしてほしいものだ。
竹中氏は前回の“働き方改革”では“働き方には様々な形態があって良いはず。その自由を獲得するのがいけないことか。”と言って、日本に非正規労働を大いに増やした。ついでに“自由な働き方が増えれば、日本の景気は良くなる。”とも言っていたように思う。実際には低賃金で購買力が萎えて、日本の景気は一向に良くならないのが経済学的現実となった。今度は日本人の過労死を大いに増やす気なのだろう。それでも人気があるのはどういうことだろうか。私には彼はおぞましい悪魔に見えるのだが・・・。

さて政界の騒動と二重写しに見える、日大アメフト部問題も先々週の後編に入った。しかし政界とは違って張本人に対する処分と、その要職辞任でひとまずケリはついた。この程度で溜飲を下げていて良いのだろうか。
しかし、その背景で理事長が前監督に理事辞任を迫った時、“私を切る気ならば、不都合な事実があからさまになる”と言ったとか、言わないとかの報道があったようだ。まるで暴力団幹部の会話だと思っていたら、その理事長は正しく暴力団とのつながりがあるとの報道もあるようだ。この大学、一体どんな団体なのか。それでも受験生は減らないのだろうか。
これから日大の改革は始まるのか、実は重要な局面に入ると見て良い。4~50年前の日大紛争で結局は反乱学生の無残な敗北に終わって、頑強に生き残った利権構造との戦いがきちんと始まるか否かだ。これが如何に強力かは教職員組合がビビッているのを見ればわかるのだが。警察の中堅官僚に日大出身が多いというのは、どのように作用するのだろうか。警察という組織は無条件に保守的ではあるのだが・・・。

その一方、日本のスポーツ界の改革もさらに進むのか否かだ。未だに、クラブ活動の学生の存在そのものを大切にしない“内田的指導法”も強固に生き残っていたのだ。これは日本の学校でのクラブ活動が旧日本軍の軍事教練の延長上にあったことによる、精神論至上主義の残滓に外ならない。戦後、戦争に従事したり、米軍の戦略爆撃に被爆して酷い目にあって感情的に反戦平和は語られてはいたが、一方では軍隊で過ごした青春のノスタルジーからか奇妙な精神論至上主義は生き残った。特にそれはスポーツ界、学校の運動部で生き残ったのだ。そしてそれが絶頂を迎えたのはスポ根漫画やテレビ番組だった。日本では軍国主義批判は感情的になされたが、理性的論理的には為されなかったために、総体的に徹底的には批判されてこなかった。そのためこうした精神論が裏側で奇妙に生き残ってしまったと見て良い。ついでだが、24時間戦うビジネス戦士を称揚する空気も一時あった。これも未だに日本人の労働生産性を高めない主原因だろう。
軍国主義への批判が不十分だったため、それがつい最近まで、大阪桜宮高バスケットボール部主将の男子生徒自殺した事件からこの日大アメフト部に至るまで、引きも切らず、頑迷にしつっこく生き残っている。その被害に死者も含めて累々。無意味な精神論は、これを機会に根絶してほしいものだ。


さて、先々週のことで恐縮だが、京都アスニー(京都市生涯学習総合センター)内の京都市平安京創生館を訪れた。実は、ここに来るのはこれで3度目。最初に来たのは今年の3月だった。その時は展示内容の多少の変更で数日休止中だった。この時の模様は既にこのブログで報告している。次に来たのが4月下旬。だが火曜日が定休日とは知らなかったため、すごすごと無為に戻らざるを得なかった。今回、ようやく3度目の正直で展示物に御目にかかれた。午後から西大路御池の近くの会社で審査があったので、この際とばかりに午前に赴いたのだった。
何をそんなに見たかったのか。それに関連したことは、先にもこのブログで“古代京都観光失敗の巻”と題して報告しているので詳しくはご参照願いたい。というのも何やら勿体ぶっていて、申し訳ないので先ず概要を説明したい。

桓武帝が開いた平安京の皇居つまり大内裏は今の京都御所の西側約2kmの千本丸太町交差点の北西にある大極殿跡付近とされる。この事実を私はつい最近と言っても今年の3月だったが、その時初めて知って驚いたのだ。これまで今の御所が平安時代から連綿と引き継がれて来ていたものと誤解していたからだ。そのことを示すものが平安京創生館で展示されているのだ。

この展示では“平安京復元模型”として古代京都のジオラマがあったのがイメージアップに大いに役立つ。大極殿の南に大内裏の正門である朱雀門がある。そこから南に幅約85m、長さ3.7㎞の朱雀大路が伸びる。(現在の大阪の御堂筋の幅は43.6m、長さ4.4㎞)日本の古代都市のメイン・ストリートとしてはかなり巨大。しかし古代ここに民家がひしめくように存在したとは思えない。それは現在のJR山陰線の南北に伸びる部分にほぼ沿っている。その巨大な通りの南端に羅城門がある。その東には東寺がある。当初の平安京には朱雀大路を対称軸として西側に西寺が配置されていたという。つまりJR京都駅の南に東寺があるが、少し南西側に羅城門、その西側に西寺があったことになる。

西寺跡には今は史跡の石碑があるだけのようだが、Wikipediaによれば、次のようだ。“嵯峨天皇の時の弘仁14年(823年)、東寺は空海、西寺は守敏に下賜されたとされるが、『高野春秋編年輯録』に記されたこの記録は伝説性が強いとされている。天長9年(832年)には講堂が完成した。その後貞観6年(864年)までに薬師寺から僧綱所が西寺に移転された。醍醐寺縁起には延喜6年(906年)に聖宝が西寺別当となったという記述があり、西寺の整備を行ったとある。これ以降他寺出身者が西寺の別当となることがはじまった。正暦元年(990年)に火災があったが、ほどなく再建されたと見られる。建久年間(1190年代)には文覚が塔の修理を行った。この建築作業を明恵が見物している。しかしその後荒廃し、再建された塔も天福元年(1233年)に再び焼失、以降に廃寺になったと考えられている。しかし、たなかしげひさは『二水記』大永7年(1527年)10月27日条に「西寺に陣を敷いた」という記録があることから、戦国時代の中期頃まで西寺は存続していたと推測している。西寺の衰退原因は立地である右京の水はけが悪く、平安後期には住民がいなくなったために環境が悪化したことや、朝廷の支援を受けられなくなったことも指摘されている。”
右京(京都西側)は水害が多かったようだが、今はあまり聞かない。それは後代に桂川の流域整備が進んだためという。そういう事情もあって、近世以前は都市としての京都の機能は左京で展開されることになるようだ。ついでに火災もあって皇居も東に移ってしまったのだろう。

Wikipediaによれば、大内裏は“政変や失火のためたびたび焼失し、平安末期頃から再建されておらず、1227年(安貞元年)にはついに大内裏のほとんどを焼失する火災が発生し、跡地は内野(うちの)と呼ばれる荒れ地になってしまった。内野は室町時代に北野社が占拠しその農地となった後、聚楽第が建てられ、その破却の後は聚楽村と呼ばれた農村となり、現代では京都市街地の一部となっている。”とある。

また現在の京都御所はWikipediaによれば、次のようだ。“現在の京都御所は、もと里内裏(内裏が火災で焼失した場合などに設けられた臨時の内裏)の一つであった土御門東洞院殿の地である。南北朝時代(14世紀半ば)から北朝側の内裏の所在地として定着し、明徳3年(1392年)の南北朝の合一以後、ここが正式の皇居となって明治2年(1869年)、明治天皇の東京行幸時まで存続した。”

この時、展示には先ず法勝寺の伽藍模型があった。特に、九重塔の模型が目を惹いた。鴨川の東、今動物園のある岡崎あたりにあった寺だという。この付近には藤原氏の邸宅があり、白川*が東にあるため、それを白河殿と呼ぶようになったという。またこの付近に「勝」の付く6つの寺が法勝寺も含めて白河上皇と鳥羽上皇の時代に相次いで造営され、これを六勝寺と呼ぶとのこと。

*白川はブラタモリで紹介していたが、花崗岩の東山に源流があり、それによる砂を押し流しているが、軽くて黒い雲母が流されてしまい残った石英、長石によって白い川に見えるようになった、という。

また鳥羽離宮のジオラマも展示されていた。鴨川の下流域、今の名神高速京都南ICの南にあった離宮のことだという。ここも川の影響で湿地帯だったようだ。

幾度か京都を訪れている内に、地理的空間的認知に時間軸が加わって、4次元的理解に少しずつ進んでいくことに、我ながら知的喜びを若干覚えて面白い。しかし、この記事、休戦エンタへの投稿で良かったのだろうか。

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