The Rest Room of ISO Management
ISO休戦
元興寺と奈良町散策
先週のニュースはあたかもこれからの米朝会談を控えてヒマネタで終始したように思う。そのヒマネタの一つとして、一斉に流れた次の報道が気になった。
“JR西日本は在来線「新快速」運転区間を念頭に、有料座席車導入の検討を始めた。運行形態や車両などを詰め、2022年度までの実現を目指す。鉄道各社は料金収入増も狙えることから、大都市近郊路線で快適に移動できる有料座席車の導入を加速させている。・・・着席移動のニーズに応えて、サービスの向上につなげる。”
笑止とはこのこと。JR西日本は、まともな鉄道経営もできないにもかかわらず、新快速に“有料座席車両導入”により、乗客の“利便性向上”を図ると言うのだ。
JR新快速と言えば 先週、私は神戸から京都山科の南部に審査に赴くことになった。先方では午後1時に審査開始の予定だった。それに合わせてJR京都駅付近で昼食を摂り、山科駅を経由して地下鉄で顧客に向かおうと計画した。そして当日その予定に従って、自宅近くの神戸市内のJR駅前の金券ショップで昼特切符を入手し、JR普通電車に乗車。芦屋で近江塩津行きの新快速に乗り換え、やがて大阪駅到着直前で、車掌の車内アナウンスに驚愕。“この列車は次の大阪駅で運行を中止します。高槻駅での信号機トラブルにより、現在 京都・吹田間での運行を停止しています。大阪駅で振替を実施しています。”という意味のことをいきなり言った。振替とは阪急とのことだろうと容易に想像はつく。ならば乗車駅で乗客に直ぐに分かるように掲示やアナウンスがあって然るべきだが全くなかった。JRでは頻繁に生じることなので、職員も誰も驚かなくなっているのだろうか。これがまともな日本の鉄道会社だと言えるのだろうか。
急遽、阪急梅田からとにかく京都へ。烏丸から地下鉄に乗り換え、烏丸御池で東西線に乗り換えて六地蔵方面へ。これで何とか審査には間に合うことになったが、目的の駅には12時半に到着。これでは付近のレストランで食事していては間に合わない。昼食は抜き、としてそのままの足で先方に入った。
という訳でJR西日本の掲げる時刻表には次のような注意書きを是非書いて欲しい。“ここに表記した列車発着時刻は目安となるもので、保証するものではありません。場合によっては行き先も変更されることがしばしばありますので、ご利用の際は事前に十分に注意して下さい。”新快速は高速が売り物だが、発着が不確実で信頼できないのであれば、JRを利用せずに遅くても確実に行ける私鉄路線を利用した方が良いことが分かる。
JRを利用して審査に赴き失敗したのはこれで3度目だ。初めての審査は京都市内でJRを使ったが、大雨でダイア遅延で大いに戸惑い遅刻したことがあった。私鉄は遅れていなかった。そこでそれ以降、京都には阪急線を利用していたが、宇治・城陽方面の審査で仕方なくJRを利用して1時間遅刻、失敗したこともあった。今回はその教訓をすっかり油断して生かせなかったことになる。京都から山科にJR以外で抜ける手段を想定できなかったことも一因だった。十分に調査しなかったことは厳に戒めるべきと考えている。
高い運賃のJRを利用したことにして出張旅費を申請するが、実際は時間はかかっても私鉄を利用して安く赴くことを大原則としたい。従って、ただでさえ高いJRで“有料座席”に座って行きたいと言う、物好きがどれほど居るのか、確かめてみたいような気がするのは事実だ。価格に厳しい関西人も最近はいい加減になって来た気がするので、結構いけるかも知れないがどんなものだろうか。
翻って、鉄道会社の基本機能はあくまでも安全に“定刻到着”することであって、それが不能な会社にプラスαサービスの“有料座席”を設けることに意義は全く感じられない。JR西日本は“定刻発車”のようだが、その自分本位の原則が既に間違っていて、笑止千万なのだ。運行遅延・中止があっても“有料座席”は利用者負担で丸儲け狙いなのだろう。
さて今回は奈良町散策を、元興寺(がんごうじ)拝観を中心に紹介したい。世の中を知らないことばかりで恐縮だが、これまで元興寺など その存在すら知らなかった。奈良で午後遅くからあるセミナーがあるとのことで、京都の事務所に審査報告書を提出後、奈良に出て午後早くに奈良町を散策しようと、企んだのだ。ただぶらつくのも無意味なので、元興寺を眼目の中心に据えてみた。
例によってwikipediaによれば次の通りだ。
“元興寺は、奈良市にある、南都七大寺の1つに数えられる寺院。蘇我馬子が飛鳥に建立した、日本最古の本格的仏教寺院である法興寺がその前身である。
法興寺は平城京遷都に伴って飛鳥から新都へ移転し、元興寺となった(ただし、飛鳥の法興寺も元の場所に残り、今日の飛鳥寺となっている)。奈良時代には近隣の東大寺、興福寺と並ぶ大寺院であったが、中世以降次第に衰退して、現在は元興寺と名乗る寺院は次の2つに分かれている。
(1)奈良市中院町所在の元興寺。1977年までは「元興寺極楽坊」と称していた。西大寺の末寺で、宗派は真言律宗に属する。法興寺の最後まで残存した僧房の遺構が現在の元興寺にあたる。本尊は智光曼荼羅である。
(2)奈良市芝新屋町所在の元興寺(東塔の跡)。東大寺の末寺で、宗派は華厳宗に属する。本尊は十一面観音。”
今回は、元興寺極楽坊を拝観した。なお、南都七大寺は次の通り。:興福寺(奈良市登大路町)、東大寺(奈良市雑司町)、西大寺 (奈良市西大寺芝町)、薬師寺(奈良市西ノ京町)、元興寺(奈良市中院町、芝新屋町)、大安寺(奈良市大安寺)、法隆寺(生駒郡斑鳩町)
拝観時に頂いたパンフレットによれば、用明天皇2年(587年)に蘇我馬子は厩戸王(聖徳太子)と排仏派の物部守屋を武力で打ち破り、翌年、崇峻天皇の即位を機に、飛鳥の地に正式の仏寺建立に着手。この寺が法興寺で、このために百済王は仏舎利を献じ、僧、寺工、鑢盤博士、瓦博士、画工を派遣してきた。その時の瓦博士の作った日本初の瓦が、今の元興寺の極楽堂、禅室の屋根に数千枚が載っている、という。
飛鳥時代は、三論・法相の両学派が最初に伝えられた法興寺が、我が国仏教の源流となり、蘇我氏を通じて大陸文化流入の中心となり、政治・外交の場となった。
元明天皇の和銅3年(710年)奈良に遷都され、法興寺も移設され、元興寺となった。移設半ばで蘇我氏は既に滅ぼされていたが、その威光は衰えず、墾田地限は東大寺4千町歩、元興寺2千町歩、大安・薬師・興福の諸寺は1千町歩だったという。また東大寺の大仏開眼法要で元興寺の隆尊が講師となったという。
平安時代の前半期までは、仏教界で指導的な役割を果たし、盂蘭盆会、灌仏会、文殊会、仏名会等の仏教行事を起こしたとされる。その後、官寺の経済基盤が侵されるとともに衰退が始まった、という。
この極楽坊は曼荼羅を祀る僧坊が残ったもので増築され、平安後期の浄土信仰に乗って庶民の信仰を集めたようだ。
元興寺の奈良時代伽藍図を見ると、大寺院にふさわしい広大な敷地で上記の(1)中院町所在の元興寺(東室南階大房遺構)と(2)芝新屋町所在の元興寺(東塔遺構)は同じ敷地内の元興寺遺構であったことが分かる。つまりは私の想像だが、元興寺の経済的衰退とともに、境内に侵入し住み着く者があり、由緒ある名古刹はチリジリになったものと容易に思われる。過酷な歴史に無残な状態になったようだ。
極楽坊に入り曼荼羅を拝観し、境内を回る。極楽坊の後、西側には禅室があるが内部は拝観できなかった。総合収蔵館では大きな五重小塔があったが、非常に緻密に作られているという。恐らく諸寺建立の際に作られる五重塔建設の参考になるように作られたものと推定されているとあった。そういう点でも日本仏教流布興隆の中心地であったのだろう。日本の仏教のみならず文化にとって、欠かせない重要な名古刹なのだ。勿論、日本最初の瓦の展示もある。
境内には浮図田(ふとでん)や、蛙石があり、今日もその影響力を感じる下記のような説明文があった。
“浮図田:二千五百余基の石塔、石仏類(総称して浮図)は、寺内及び周辺地域から集まったもので、新たに田圃の稲のごとく整備した。板碑五輪塔を中心とした供養塔、阿弥陀仏、地蔵尊等の石仏類からなり、鎌倉時代末期から江戸時代中期のものが多い。中世期に当寺や興福寺大乗院関係の人々、近在の人達が浄土往生を願って、極楽坊周辺に減罪積徳作善のため造立した供養仏塔である。毎年八月二十三、二十四日の地蔵会の際に過去聖霊の追善を祈り、結縁者の家内安全を願って万灯供養が行われ、古式の地蔵会として南都の風物詩となっている。”
“蛙石:江戸時代の奇石を集めた“雲根志”に載せられている大坂城の蛙石である。河内の川べりにあった殺生石だった様だが後に太閤秀吉が気に入って大坂城に運び込まれたという。淀君の霊がこもっているとも云い、近代には乾櫓から堀をはさんだ対岸隅にあった。大坂城にあった頃は堀に身を投げた人も必ずこの石の下に帰ると言われた。ご縁があってこの寺に移され、極楽堂に向かって安置された。福かえる、無事かえるの名石として毎年七月七日に供養される。”
拝観後、元興寺を出て南の奈良町を散策。“砂糖伝”のお店は御客で一杯なので素通りし、“格子の家”まで行ってみるが、定休日であえなく引き返す。
“庚申さん”の前に奈良町資料館があった。“庚申さん”では次の伝承話が掲示されていた。
“「三尸(さんし)の虫」退治:悪病や災難を持ってくるという「三尸の虫」(人のお腹のなかに居て悪さすると想像された)は、コンニャクが嫌いだったので、人々は庚申の日にコンニャクを食べて退治した。「三尸の虫」は、もう一つ猿が大嫌いだった。猿が仲間と毛づくろいをしている姿は、まるで「三尸の虫」を取って食べているような格好に見えたので「三尸の虫」は恐れをなして逃げてしまったという。そこで人々は、いつも家の軒先に猿(ぬいぐるみ)を吊るして悪病や災難が近寄らないようにおまじないをしているのです。[奈良町の伝説より]”
資料館の軒には、その“三尸の虫”が嫌う猿の赤い大きなぬいぐるみがぶら下げられていた。中には古民家に伝えられていたような骨董品等の展示があった。
最後には、これまで奈良に来てアクセスできなかった、開化天皇の御陵の正面に今回ようやく行くことができた。近鉄奈良駅のすぐ近くに存在する古墳だ。しかし、残念ながら宮内庁の掲示があるだけで、何の説明文の表示もなかった。開化天皇は第9代天皇とされるが、実在性は薄いとされる天皇だ。ならば、繁華街にデンと構える御陵は一体誰の古墳なのか、大いに疑問が残る。恐らく宮内庁が発掘を許可しないのだろう。日本の古代史に科学のメスが入るのを何故拒むのであろうか。何を恐れているのか不思議だ。公的記録をないがしろにする日本は科学に基づく正確な歴史認識を保持する意識に乏しい国なのだろうか。
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笑止とはこのこと。JR西日本は、まともな鉄道経営もできないにもかかわらず、新快速に“有料座席車両導入”により、乗客の“利便性向上”を図ると言うのだ。
JR新快速と言えば 先週、私は神戸から京都山科の南部に審査に赴くことになった。先方では午後1時に審査開始の予定だった。それに合わせてJR京都駅付近で昼食を摂り、山科駅を経由して地下鉄で顧客に向かおうと計画した。そして当日その予定に従って、自宅近くの神戸市内のJR駅前の金券ショップで昼特切符を入手し、JR普通電車に乗車。芦屋で近江塩津行きの新快速に乗り換え、やがて大阪駅到着直前で、車掌の車内アナウンスに驚愕。“この列車は次の大阪駅で運行を中止します。高槻駅での信号機トラブルにより、現在 京都・吹田間での運行を停止しています。大阪駅で振替を実施しています。”という意味のことをいきなり言った。振替とは阪急とのことだろうと容易に想像はつく。ならば乗車駅で乗客に直ぐに分かるように掲示やアナウンスがあって然るべきだが全くなかった。JRでは頻繁に生じることなので、職員も誰も驚かなくなっているのだろうか。これがまともな日本の鉄道会社だと言えるのだろうか。
急遽、阪急梅田からとにかく京都へ。烏丸から地下鉄に乗り換え、烏丸御池で東西線に乗り換えて六地蔵方面へ。これで何とか審査には間に合うことになったが、目的の駅には12時半に到着。これでは付近のレストランで食事していては間に合わない。昼食は抜き、としてそのままの足で先方に入った。
という訳でJR西日本の掲げる時刻表には次のような注意書きを是非書いて欲しい。“ここに表記した列車発着時刻は目安となるもので、保証するものではありません。場合によっては行き先も変更されることがしばしばありますので、ご利用の際は事前に十分に注意して下さい。”新快速は高速が売り物だが、発着が不確実で信頼できないのであれば、JRを利用せずに遅くても確実に行ける私鉄路線を利用した方が良いことが分かる。
JRを利用して審査に赴き失敗したのはこれで3度目だ。初めての審査は京都市内でJRを使ったが、大雨でダイア遅延で大いに戸惑い遅刻したことがあった。私鉄は遅れていなかった。そこでそれ以降、京都には阪急線を利用していたが、宇治・城陽方面の審査で仕方なくJRを利用して1時間遅刻、失敗したこともあった。今回はその教訓をすっかり油断して生かせなかったことになる。京都から山科にJR以外で抜ける手段を想定できなかったことも一因だった。十分に調査しなかったことは厳に戒めるべきと考えている。
高い運賃のJRを利用したことにして出張旅費を申請するが、実際は時間はかかっても私鉄を利用して安く赴くことを大原則としたい。従って、ただでさえ高いJRで“有料座席”に座って行きたいと言う、物好きがどれほど居るのか、確かめてみたいような気がするのは事実だ。価格に厳しい関西人も最近はいい加減になって来た気がするので、結構いけるかも知れないがどんなものだろうか。
翻って、鉄道会社の基本機能はあくまでも安全に“定刻到着”することであって、それが不能な会社にプラスαサービスの“有料座席”を設けることに意義は全く感じられない。JR西日本は“定刻発車”のようだが、その自分本位の原則が既に間違っていて、笑止千万なのだ。運行遅延・中止があっても“有料座席”は利用者負担で丸儲け狙いなのだろう。
さて今回は奈良町散策を、元興寺(がんごうじ)拝観を中心に紹介したい。世の中を知らないことばかりで恐縮だが、これまで元興寺など その存在すら知らなかった。奈良で午後遅くからあるセミナーがあるとのことで、京都の事務所に審査報告書を提出後、奈良に出て午後早くに奈良町を散策しようと、企んだのだ。ただぶらつくのも無意味なので、元興寺を眼目の中心に据えてみた。
例によってwikipediaによれば次の通りだ。
“元興寺は、奈良市にある、南都七大寺の1つに数えられる寺院。蘇我馬子が飛鳥に建立した、日本最古の本格的仏教寺院である法興寺がその前身である。
法興寺は平城京遷都に伴って飛鳥から新都へ移転し、元興寺となった(ただし、飛鳥の法興寺も元の場所に残り、今日の飛鳥寺となっている)。奈良時代には近隣の東大寺、興福寺と並ぶ大寺院であったが、中世以降次第に衰退して、現在は元興寺と名乗る寺院は次の2つに分かれている。
(1)奈良市中院町所在の元興寺。1977年までは「元興寺極楽坊」と称していた。西大寺の末寺で、宗派は真言律宗に属する。法興寺の最後まで残存した僧房の遺構が現在の元興寺にあたる。本尊は智光曼荼羅である。
(2)奈良市芝新屋町所在の元興寺(東塔の跡)。東大寺の末寺で、宗派は華厳宗に属する。本尊は十一面観音。”
今回は、元興寺極楽坊を拝観した。なお、南都七大寺は次の通り。:興福寺(奈良市登大路町)、東大寺(奈良市雑司町)、西大寺 (奈良市西大寺芝町)、薬師寺(奈良市西ノ京町)、元興寺(奈良市中院町、芝新屋町)、大安寺(奈良市大安寺)、法隆寺(生駒郡斑鳩町)
拝観時に頂いたパンフレットによれば、用明天皇2年(587年)に蘇我馬子は厩戸王(聖徳太子)と排仏派の物部守屋を武力で打ち破り、翌年、崇峻天皇の即位を機に、飛鳥の地に正式の仏寺建立に着手。この寺が法興寺で、このために百済王は仏舎利を献じ、僧、寺工、鑢盤博士、瓦博士、画工を派遣してきた。その時の瓦博士の作った日本初の瓦が、今の元興寺の極楽堂、禅室の屋根に数千枚が載っている、という。
飛鳥時代は、三論・法相の両学派が最初に伝えられた法興寺が、我が国仏教の源流となり、蘇我氏を通じて大陸文化流入の中心となり、政治・外交の場となった。
元明天皇の和銅3年(710年)奈良に遷都され、法興寺も移設され、元興寺となった。移設半ばで蘇我氏は既に滅ぼされていたが、その威光は衰えず、墾田地限は東大寺4千町歩、元興寺2千町歩、大安・薬師・興福の諸寺は1千町歩だったという。また東大寺の大仏開眼法要で元興寺の隆尊が講師となったという。
平安時代の前半期までは、仏教界で指導的な役割を果たし、盂蘭盆会、灌仏会、文殊会、仏名会等の仏教行事を起こしたとされる。その後、官寺の経済基盤が侵されるとともに衰退が始まった、という。
この極楽坊は曼荼羅を祀る僧坊が残ったもので増築され、平安後期の浄土信仰に乗って庶民の信仰を集めたようだ。
元興寺の奈良時代伽藍図を見ると、大寺院にふさわしい広大な敷地で上記の(1)中院町所在の元興寺(東室南階大房遺構)と(2)芝新屋町所在の元興寺(東塔遺構)は同じ敷地内の元興寺遺構であったことが分かる。つまりは私の想像だが、元興寺の経済的衰退とともに、境内に侵入し住み着く者があり、由緒ある名古刹はチリジリになったものと容易に思われる。過酷な歴史に無残な状態になったようだ。
極楽坊に入り曼荼羅を拝観し、境内を回る。極楽坊の後、西側には禅室があるが内部は拝観できなかった。総合収蔵館では大きな五重小塔があったが、非常に緻密に作られているという。恐らく諸寺建立の際に作られる五重塔建設の参考になるように作られたものと推定されているとあった。そういう点でも日本仏教流布興隆の中心地であったのだろう。日本の仏教のみならず文化にとって、欠かせない重要な名古刹なのだ。勿論、日本最初の瓦の展示もある。
境内には浮図田(ふとでん)や、蛙石があり、今日もその影響力を感じる下記のような説明文があった。
“浮図田:二千五百余基の石塔、石仏類(総称して浮図)は、寺内及び周辺地域から集まったもので、新たに田圃の稲のごとく整備した。板碑五輪塔を中心とした供養塔、阿弥陀仏、地蔵尊等の石仏類からなり、鎌倉時代末期から江戸時代中期のものが多い。中世期に当寺や興福寺大乗院関係の人々、近在の人達が浄土往生を願って、極楽坊周辺に減罪積徳作善のため造立した供養仏塔である。毎年八月二十三、二十四日の地蔵会の際に過去聖霊の追善を祈り、結縁者の家内安全を願って万灯供養が行われ、古式の地蔵会として南都の風物詩となっている。”
“蛙石:江戸時代の奇石を集めた“雲根志”に載せられている大坂城の蛙石である。河内の川べりにあった殺生石だった様だが後に太閤秀吉が気に入って大坂城に運び込まれたという。淀君の霊がこもっているとも云い、近代には乾櫓から堀をはさんだ対岸隅にあった。大坂城にあった頃は堀に身を投げた人も必ずこの石の下に帰ると言われた。ご縁があってこの寺に移され、極楽堂に向かって安置された。福かえる、無事かえるの名石として毎年七月七日に供養される。”
拝観後、元興寺を出て南の奈良町を散策。“砂糖伝”のお店は御客で一杯なので素通りし、“格子の家”まで行ってみるが、定休日であえなく引き返す。
“庚申さん”の前に奈良町資料館があった。“庚申さん”では次の伝承話が掲示されていた。
“「三尸(さんし)の虫」退治:悪病や災難を持ってくるという「三尸の虫」(人のお腹のなかに居て悪さすると想像された)は、コンニャクが嫌いだったので、人々は庚申の日にコンニャクを食べて退治した。「三尸の虫」は、もう一つ猿が大嫌いだった。猿が仲間と毛づくろいをしている姿は、まるで「三尸の虫」を取って食べているような格好に見えたので「三尸の虫」は恐れをなして逃げてしまったという。そこで人々は、いつも家の軒先に猿(ぬいぐるみ)を吊るして悪病や災難が近寄らないようにおまじないをしているのです。[奈良町の伝説より]”
資料館の軒には、その“三尸の虫”が嫌う猿の赤い大きなぬいぐるみがぶら下げられていた。中には古民家に伝えられていたような骨董品等の展示があった。
最後には、これまで奈良に来てアクセスできなかった、開化天皇の御陵の正面に今回ようやく行くことができた。近鉄奈良駅のすぐ近くに存在する古墳だ。しかし、残念ながら宮内庁の掲示があるだけで、何の説明文の表示もなかった。開化天皇は第9代天皇とされるが、実在性は薄いとされる天皇だ。ならば、繁華街にデンと構える御陵は一体誰の古墳なのか、大いに疑問が残る。恐らく宮内庁が発掘を許可しないのだろう。日本の古代史に科学のメスが入るのを何故拒むのであろうか。何を恐れているのか不思議だ。公的記録をないがしろにする日本は科学に基づく正確な歴史認識を保持する意識に乏しい国なのだろうか。
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