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日本の政党に見る非近代性

今週も また 読後感想というか、実は週刊現代の記事を読んだ結果の感想である。
先週の4月10日号に“小沢一郎は害悪である。”と民主党の“内幕特集”をしていた。

政党組織とは 良く言えば柔構造、悪く言えばいい加減な組織構造であり、選挙で所属する国会議員の数が変わったり、外部から影響力のある人物が 加入すると 大きく変質する性格を持っているのだ、ということを、この特集記事を 読んで始めて知ったのである。この歳になってこんなことを初めて知って情けない思いだが これが正直なところである。
このところ、民主党のマニフェストの実行性が問題になっているが、メンバーの量と質(性格)が変化することによって、その政策が変化していく傾向にあるのは どうやら必然のようなのだ。特集記事では、一般に言われているように、小沢氏が加入することによって、民主党の“学級会”のような自由闊達な集団が変質したとの見方を異口同音で語っているように思う。そういうことでは、小沢氏バッシング論一色のステレオタイプの論評で、週刊誌にしては若干 面白味に欠けるものがある。

あの生方氏や細野氏もインタビューに応じてはいるが、その証言によれば 彼らがメンバーである幹事長会も どういうタイミング何をどの程度議論するのか 定かになっていない様子であることが伺い知れるのである。
政務調査会は 巷間言われているように、幹事長の小沢氏の指示によって設置されなかったというのも、何かルールによってそうなったのではなく、属人的な考えでそうなったというような印象を受けるのである。つまり 個人が組織を壟断することが可能な状態になっているようなのだ。

これは 政治に素人である私には大いに驚きなのである。ISOマネジメントでは意思決定の過程をあらかじめ定めて、公式に明確にしておく必要があり、それを文書化するべきだからだ。“意思決定プロセス”は“組織”の命の部分なので 当然過ぎる議論なのだ。
だが、もし、党組織の構造自体が 規約などによって定まっていないのならば、とりあえずリーダーが的確な指示を出すことで統制を利かせなければならないのだが、民主党の代表は それぞれの担当にお任せとしているようなのだ。
これでは 烏合の衆、バラバラで一体どういう方向に向かって全体として何をやるのか 不明になるのも当然である。また、リーダーにその気がなければ、少なくとも参謀たる戦略室のトップが、内閣発足時に何より 第一に 大方針の号令を発するべきであったが、何らそのような宣言たる方針を発信せず 今日に至ってしまっている。本来は、目的、目標、施策の順に政策へ具体化させるべきなのである。こういうことも ISOマネジメントの規格要求事項になっている。
明治維新の五箇条の御誓文は そういう意味で重要な政治性があったのだ。ちなみに、この御誓文は、龍馬の船中八策が基本になっているとも言われる。

記事には民主党が官僚の使い方が下手だという、これも巷間よく言われている指摘が なされていたが、政治家と官僚の仕事の棲み分けの原則論についての 議論はなされていない。グレー・ゾーンがあって当然ではあるが、“官僚が政治を動かす”ことが問題であると言うのならば、その権限を明確にし、ルール化するべきであるのも当然の話だ。これは法制化の方が適切かも知れない。責任と権限、これも、ISOマネジメントでは当然の規格要求事項なのだ。

ルールに縛られて 党官僚が幅を利かせるようになると問題だという指摘が 想定されるが、今の民主党は 公式ルールの無い状態で 権威者の取巻きが党官僚化していて、意思決定の過程を慣習化させ それがあたかも合理的ルールであるかのようにしてしまっているように見える。実は、その方が問題なのではないのか。政治の世界では そういうことが 幅を利かせるものなのだろうか。
合理的なルールの中で自由闊達な議論をするというカルチャーを形成することが 何より 組織にとって必要なことだと思うのであるが、そういう議論が 全く聞かれないことに大いに不安を感じるのである。日本人には そういう常識が 無いのだろうか。

立花隆氏と山内昌之氏の対談では、立花氏が ソ連共産党のレーニンやトロツキーの時代からスターリン時代に至って“もともと百家争鳴の議論を交わすボリシェビキ党であったものがスターリン主義的専制支配の党に変わっていく。”それが 今の民主党に重なって見える、と指摘している。
私は、スターリンの登場にロシア社会の後進性を見る。中国も同様で、毛沢東が 党内闘争の勝利の過程でカリスマ化して行ったのだ。それが“独裁”を生んだのだ。プロレタリア独裁だとか、民主集中とか 矛盾する言葉をつなげて、妙な政治用語を作って見せていたが、それは独裁政治以外のナニモノでもない。

カリスマが生まれれば、そこに取巻きができ、それが“党中央”となって行く。それを放置すれば 彼らの慣行が公式ルールとなる。だから、一方では、それに対抗する別のボスが生まれ、次にその中間的意見のリーダーが生まれ、というように派閥が形勢されて行く。そして党内闘争となるが、後進的社会背景であれば所属グループが 組織員の最大の死活課題となる。さらに後進性がはなはだしければ、党争の結果、反対勢力は撲滅され、主導グループは はばかることなく独裁政治を執行することになるのである。

このようにカリスマの存在するところには 個人の自由な発想や活動は 存在し難くなる。そして、それが組織疲労へとつながって行くのだ。日本の政党は もっと合理的近代性を持ってもらいたいと思うのだ。党名の如く、“民主主義”を遵守して欲しいものだ。合理的なルールの中で自由闊達な議論をするというカルチャーを 一刻も早く形成して欲しいのだ。
時代は 寸刻を争っているのだ。説明責任を果たさない、非近代的発想の方は 急速に役割を終えてしまっていることを再確認するべきなのだ。次の選挙では その方は最早時代遅れの人になっているのだ。

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