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“仏教誕生”を読んで

この本は もはや絶版。アマゾンの書評では五つ星。定価は¥693-ですが ユーズド価格で¥2,650-という 古書の方が高価で、それも値上がり中という 不思議な絶版本です。筑摩書房も どうして再版しないのでしょう。しかたなく思っていたところ、図書館で偶然 見つけたので借り出して読みました。
仏教に興味を持つものにとって どこから入れば 良いのか迷うものです。その迷いに この本はみごとに答えていると思います。

著者・宮元啓一氏は 文献学的に“最初の仏教”を明らかにしようと 一貫した研究を行っている国学院大学教授です。比較思想研究のパイオニアである東大の中村元博士の弟子であり、哲学・倫理学の立場からの論理学的アプローチで“仏教は何であったか”を追究しています。したがって、本書は ある仏教宗派の代弁であったり、篤信家の“信”にもとづく解説ではないという “特色”のある本です。
著者は 冒頭の“はしがき”で、次のように言っています。(仏教の)“生成という場面に光を強く当てることによって、仏教とはどのようなものであったか(あるのか)について、なにがしかの全体的なイメージを読者に抱いていただくことにある。”

本書での仏教の開祖シャカの呼称として 著者は 次のような理由から“釈尊”というのを採用しています。私も 一応 これに従うことにします。
“釈尊は覚者(ブッダ、目覚めた人)となった。・・・そこでしばしば、仏教の開祖は単にブッダ(仏、仏陀)と呼ばれることがある。ただし、ブッダというのは、じつは、歴史上、また神話上、数多くいる。ジャイナ教でも、最終目標を達成した人はブッダと呼ばれる。・・・ゴータマ姓でブッダとなった人という意味で、ゴータマ・ブッダという呼称が、近現代の内外の学者によってよく用いられる。これはまず合理的な呼称といってよいであろうが、古い文献に出てくる呼称ではない。
わたくしも、釈尊にするかゴータマ・ブッダにするかで迷うのであるが、一応、伝統にしたがって、そしてまた、字数が少なくてすむからという理由で、本書では、釈尊という呼称を採用することにした。”

私が 衝撃をうけたのは “生存欲を断った者にとって、世界のいかなるものも意味を成さない、というのが、釈尊が成道で到達したニヒリズムである。”という 著者の主張です。そしてこれが本書のテーマだと思います。著者はこの結論的表現に至るまで、本書で インドの釈尊誕生までの思想史を説明しています。仏教が生まれるまでの古代インドには 既に さまざまな思想があふれていた文化的土壌があったのです。釈尊は それらの思想の恩恵を受けながら“悟り”を開いて行くのです。

著者は その重要な部分を 次のように書いています。
“仏教が最終の目標とするところは、そして釈尊その人が到達したところは、生存欲を断つことだということになる。これをわたくしは、「生のニヒリズム」と呼ぶことにしたい。生のニヒリズムに到達した者は、当然のことながら、この世に生きることになんの意味も見いださず、したがってまた、なんの価値判断も下すことがない。
釈尊が、世間のものはすべて虚妄(こもう)であるとか、幻であるとかいっているのは、そこからする当然の帰結である。ただ、老婆心からいわせてもらえば、釈尊はここで、いわゆる「存在論的に世界は虚妄である」といっている(存在論的ニヒリズム)のではなく、意味論的、価値論的に虚妄だといっているのである。つまり、真に実在するものなどなにもないといっているのではない。「真の実在」の有無の議論のたぐいは釈尊の拒否するところであろうが、あえていえば、釈尊は、世界が実在であるとかないとかを問題としているのではなく、世界(世間)にはなんの意味も見いだせないといっているのである。”

釈尊は、“世界(世間)にはなんの意味も見いだせない”としながらもなお、“死を前にして、これぞ遺言というにふさわしい教えを釈尊は説いている。・・・「みずからを(彼岸に渡るさいの手がかりとなる)中州とせよ。・・・・正しい教え(法)を手がかりとせよ」というものである。” 正しい教えを自分一人でよく考えて修行せよとのことでしょうか。
あるいはまた“まさに入滅直前のさいのことばで、「およそありとしあるものは滅びゆく。怠ることなく一心に励め」というものである。これは、世界の存在の無常などという形而上学的な問題を述べたものではない。人生は短く、死はいつ訪れるかもしれない、このことをよく理解し、できるだけ速やかに目的を達するために、寸時を惜しんで修行に邁進してもらいたい”と言ったというのです。
この 悟りの“生のニヒリズム”と “修行せよ”との言葉のあいだの落差が 私には埋められないのです。まさに そこが“悟り”の真髄なのでしょうか。そうそう、簡単に“悟り”には 至れないのは当然なのでしょう。

ニヒリズムに陥れば 自暴自棄のような 悪行をも平気でなす境地になるものですが、仏教には七仏通戒偈「もろもろの悪をやめ(諸悪莫作・しょあくまくさ)/もろもろの善をなし(衆善奉行・しゅうぜんぶぎょう)/みずから心を浄らかなものとせよ(自浄其意・じじょうごい)/これがもろもろの仏の教えである(是諸仏教・ぜしょぶつきょう)」や八聖道(八正道;はっしょうどう。正見、正思、正語、正業、正命、正精進、正念、正定)がある。
要するに 正しいことを為せ、という教えである。そうでなければ、“悟り”には 至れないのでしょう。
仏教の修行コースについて著者は次のように言っています。
“初期仏教以来、仏教の修行体系は、戒定慧の三学という枠でとらえられる。
戒とは、いわゆる戒律(狭くは律)のことで、修行生活における禁止事項を、その意義を考えながら遵守することである。これは、外的な行動を慎むことで、心の平安、清澄をはかるものである。つぎの定は、直接心を鍛錬し、心の平安、清澄を不動のものとすることを目的とする。雑念、妄念でふらつくことがなくなったときにこそ、仏教としての正しいものの見方(理屈)を体得することができる。これが慧(智慧)である。智慧を完成したとき、修行者は解脱に至る。もちろん、この三学は、実際には並行して行われるのであるが、理念としては、階梯をなしていると見られる。”

また この “悟り”に至る修行の実際のプロセスでのことを 著者は次のように言っています。
“生理学的にいえば、生存欲の中枢は、進化論的にもっとも起源の古い脳である視床下部であるという。この古い脳は、個体維持のための体温調節中枢と食欲中枢、そして種の維持のための性欲中枢との三群よりなる。ここが生理的にまったくの機能不全に陥ったり物理的に破壊されたりすれば、たちまち、死への道を一気にたどることになる。
ちなみに、わたくし自身の体験に即していえば、断食という苦行をうまく完遂すれば、食欲と性欲はみごとに消滅する。食欲中枢の機能低下は、隣接する性欲中枢の機能低下を誘引するようである。この状態において、幻覚剤メスカリンを服用したのと酷似した意識の拡大が起こる。心身の清澄なること、余人の想像を絶するものがある。釈尊が、かつて断食に耽溺した一因は、おそらくこれだと推察される。ただし、断食を止めて食を開始すれば、元の黙阿弥、心は汚濁する。恒久的に食欲と性欲とを抑え込むには、ただの行ではなく、徹底的に合理的な理念、つまり智慧をまたなければならないことは、ここからも容易に理解される。釈尊が最終的には苦行を捨て、智慧を得るための瞑想の道を選んだというのも、まことにもっともなことであった。”

また釈尊は 形而上学的議論には参加しなかった、という指摘も 私には衝撃的でした。著者は次のように指摘しています。
“釈尊は、ある種の質問(難)には答えなかったという。これを、後世の用語で「無記」あるいは「捨置答」などという。『毒箭経』という古い経典によれば、釈尊は、以下の十の質問に答えることがなかったという。
〔1a〕世界は時間的に有限であるか。〔1b〕世界は時間的に無限であるか。
〔2a〕世界は空間的に有限であるか。〔2b〕世界は空間的に無限であるか。
〔3a〕身体と霊魂とは同じであるか。〔3b〕身体と霊魂とは別のものであるか。
〔4a〕如来は死後にも存続するか。〔4b〕如来は死後には存続しないか。〔4c〕如来は死後に存続しかつ存続しないか。〔4d〕如来は死後に存続するでもなく存続しないでもないか。”
これは 孔子の“怪力乱心を語らず”に通じるものだと思うのです。東洋の両聖人は 不可知論的であった。恐らく 仏教では“霊魂の存在”について語られることはない、というのが正しい見方なのでしょう。

本書で、奥深い 仏教を知る端緒に “正しく”触れることができたように感じました。

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