The Rest Room of ISO Management
ISO休戦
“飲酒運転”報道で思うこと
最近 “飲酒運転”事故や事件の“報道”が 多いのですが、どうしてなのでしょう。どうして ここに来て“飲酒運転”で騒ぐのでしょう。
今、本当に実数として “飲酒運転”が 増加しているのでしょうか。それとも 事件・事故の程度が 悪くなったのでしょうか。その内容が 悪質化してきていることが問題なのでしょうか。
この あたりの説明が無いまま “飲酒運転”事故や事件の“報道”が 多いのです。
“飲酒運転”事故や事件は 以前からある問題ですし、今更 ことさらに かまびすしく“報道”する意味が分かりません。
私のような人間は この現象を見て 何かウラがあるのか、と直ぐに勘ぐってしまいます。つまり、何か重要な問題を 隠蔽するために 以前からある事件・事故の“報道”に 時間を費やしているのでしょうか。あることを中心に 時間(放送)やスペース(新聞)を 費やせば その他のことを “報道”する余地が なくなりますので、一見 “重要な問題の 隠蔽”ということに対しては “無罪”となりますヨネ。つまり 報道責任についての責任転嫁が 容易になるのです。
ことの軽重を考えずに報道機関が“報道”しているのか、逆に政治的な意図を持って“報道”しているのか そのあたりは 私には全く不明なのですが、ほとんどのメジャーな報道機関が 軌を一つにして 歩調を合わせて 同じような“報道”をすることにも違和感を 覚えるのは 私だけなのでしょうか。どうして こうなるのでしょうか。“皆が渡るから、そうする”ことが身の安全を保つことになるからでしょうか。報道機関の一種の自己保身。責任転嫁が 見え隠れしているようにも思うのですがいかがでしょう。もし そうならば、ここには心理的“同調性の原理”(付和雷同)が 働いていると思うのです。
ここで、未だ 謎に思うことがあります。“飲酒運転”事故や事件の実数や また悪質化が ここに来て本当に増加している ことが真実であると仮定して その中の事件事故の当事者(犯人)に“公務員”の比率が高いことです。
“公務員”は 公僕として 厳正に“法の執行”を行うべきことを本職とする立場の人々です。この人々が“遵法”を無視している。これで 法治国家と言えるのでしょうか。どうやら 我が日本国においては、現実には“法の執行”は 執行官の“恣意”において執行されている可能性が 非常に高いということの証左なのでしょうか。
そして 次に思うことは “飲酒運転”が どういう問題を引き起こすのか、ということについての想像力が “飲酒運転”をした人には欠けている。それは一般の人々にも 相当劣化して来ていることの反映のような気がするのです。或いは 根拠無く“自分は大丈夫”という妄想が 働いている。これは 自己を客観的に見る能力がないことの裏返しです。つまり 自己認識が成熟化していない 幼児性の高い“大人”が 増えていることの現われでしょう。
そういう意識の劣化が 現実の一般社会に進行していることの表れだ、と思うのです。
田舎では クルマが無いと生活できない、というのは 理解できます。何にでもクルマで出かける行動は 全く習慣化しているのでしょう。そういう背景からでしょうが、田舎の飲み屋さんで駐車場を併設している所は 多いですネ。田舎の人々は 酒を飲めばクルマを運転できないことに不便を感じているのは事実でしょう。
そうならば、日本の自動車メーカーは 酔っ払っても 安全に走るクルマを 率先して開発するべきです。少なくとも品質工学の大家は そういう発言をしています。私も それは至当な意見であると思っています。クルマの基本機能は 安全に人を運ぶこと。たとえ、どのような人が 乗ったとしても 安全に その人を運ぶことが その基本機能だ、と言う意見です。
家庭電器製品で 事故があれば その責任の多くはメーカー側の責任として追及されますが、自動車事故の場合は 何故かしら自動車メーカーの責任は 厳しく追及されません。これは どういうことでしょうか。クルマが 工業製品として成熟していないことを示しているのでしょうか。
いや むしろ、法規制の原理が ダブル・スタンダード(二重基準)になっていると言うべきでしょう。そのことに 多くの人は気付いていません。
遵法は国の基本です。
また、「“決めたこと・決められたこと”は“必ず遵守する”」ということは マネジメントの原則です。
これは いわば “近代化”された社会の前提条件では ないかと思うのです。だからこそ ダブル・スタンダード(二重基準)は 困るのですが、これが 議論対象にならないことは 非常に問題です。
そして 決められたルールが、“何故 そう決まったのか” は 良く知ることが重要です。決めるに際して、どういう歴史的経過や議論があったのか、どういう論理的根拠があったのかを 知らせるための教育が重要だと思うのです。最近、この点が かなりおろそかになっている印象です。
マニュアルに規定されていることの背景を 理解せずに “面倒だから”、と手抜きすることが 大きな事故となった事例は 沢山あります。
そういう意味で日本人の歴史認識が しっかりしていないのは気になります。かつての 戦争責任に関する 事実認識や 考察も おろそかになっています。これでは 国際的信用は得られません。
まぁ、現在の日本社会に言えることは 日本人には “法規制”を軽んじる傾向があるのではないか、ということです。
これは どういう意識に基づいているのでしょうか。どうやら “責任ある個の意識”が 欠落してきているせいではないか、イヤ或いは 少々入り組んだ思考を面倒に思う傾向にあり、思考停止(思考力の劣化)の傾向になっているせいではないかと 思う “今日この頃です”。
今、本当に実数として “飲酒運転”が 増加しているのでしょうか。それとも 事件・事故の程度が 悪くなったのでしょうか。その内容が 悪質化してきていることが問題なのでしょうか。
この あたりの説明が無いまま “飲酒運転”事故や事件の“報道”が 多いのです。
“飲酒運転”事故や事件は 以前からある問題ですし、今更 ことさらに かまびすしく“報道”する意味が分かりません。
私のような人間は この現象を見て 何かウラがあるのか、と直ぐに勘ぐってしまいます。つまり、何か重要な問題を 隠蔽するために 以前からある事件・事故の“報道”に 時間を費やしているのでしょうか。あることを中心に 時間(放送)やスペース(新聞)を 費やせば その他のことを “報道”する余地が なくなりますので、一見 “重要な問題の 隠蔽”ということに対しては “無罪”となりますヨネ。つまり 報道責任についての責任転嫁が 容易になるのです。
ことの軽重を考えずに報道機関が“報道”しているのか、逆に政治的な意図を持って“報道”しているのか そのあたりは 私には全く不明なのですが、ほとんどのメジャーな報道機関が 軌を一つにして 歩調を合わせて 同じような“報道”をすることにも違和感を 覚えるのは 私だけなのでしょうか。どうして こうなるのでしょうか。“皆が渡るから、そうする”ことが身の安全を保つことになるからでしょうか。報道機関の一種の自己保身。責任転嫁が 見え隠れしているようにも思うのですがいかがでしょう。もし そうならば、ここには心理的“同調性の原理”(付和雷同)が 働いていると思うのです。
ここで、未だ 謎に思うことがあります。“飲酒運転”事故や事件の実数や また悪質化が ここに来て本当に増加している ことが真実であると仮定して その中の事件事故の当事者(犯人)に“公務員”の比率が高いことです。
“公務員”は 公僕として 厳正に“法の執行”を行うべきことを本職とする立場の人々です。この人々が“遵法”を無視している。これで 法治国家と言えるのでしょうか。どうやら 我が日本国においては、現実には“法の執行”は 執行官の“恣意”において執行されている可能性が 非常に高いということの証左なのでしょうか。
そして 次に思うことは “飲酒運転”が どういう問題を引き起こすのか、ということについての想像力が “飲酒運転”をした人には欠けている。それは一般の人々にも 相当劣化して来ていることの反映のような気がするのです。或いは 根拠無く“自分は大丈夫”という妄想が 働いている。これは 自己を客観的に見る能力がないことの裏返しです。つまり 自己認識が成熟化していない 幼児性の高い“大人”が 増えていることの現われでしょう。
そういう意識の劣化が 現実の一般社会に進行していることの表れだ、と思うのです。
田舎では クルマが無いと生活できない、というのは 理解できます。何にでもクルマで出かける行動は 全く習慣化しているのでしょう。そういう背景からでしょうが、田舎の飲み屋さんで駐車場を併設している所は 多いですネ。田舎の人々は 酒を飲めばクルマを運転できないことに不便を感じているのは事実でしょう。
そうならば、日本の自動車メーカーは 酔っ払っても 安全に走るクルマを 率先して開発するべきです。少なくとも品質工学の大家は そういう発言をしています。私も それは至当な意見であると思っています。クルマの基本機能は 安全に人を運ぶこと。たとえ、どのような人が 乗ったとしても 安全に その人を運ぶことが その基本機能だ、と言う意見です。
家庭電器製品で 事故があれば その責任の多くはメーカー側の責任として追及されますが、自動車事故の場合は 何故かしら自動車メーカーの責任は 厳しく追及されません。これは どういうことでしょうか。クルマが 工業製品として成熟していないことを示しているのでしょうか。
いや むしろ、法規制の原理が ダブル・スタンダード(二重基準)になっていると言うべきでしょう。そのことに 多くの人は気付いていません。
遵法は国の基本です。
また、「“決めたこと・決められたこと”は“必ず遵守する”」ということは マネジメントの原則です。
これは いわば “近代化”された社会の前提条件では ないかと思うのです。だからこそ ダブル・スタンダード(二重基準)は 困るのですが、これが 議論対象にならないことは 非常に問題です。
そして 決められたルールが、“何故 そう決まったのか” は 良く知ることが重要です。決めるに際して、どういう歴史的経過や議論があったのか、どういう論理的根拠があったのかを 知らせるための教育が重要だと思うのです。最近、この点が かなりおろそかになっている印象です。
マニュアルに規定されていることの背景を 理解せずに “面倒だから”、と手抜きすることが 大きな事故となった事例は 沢山あります。
そういう意味で日本人の歴史認識が しっかりしていないのは気になります。かつての 戦争責任に関する 事実認識や 考察も おろそかになっています。これでは 国際的信用は得られません。
まぁ、現在の日本社会に言えることは 日本人には “法規制”を軽んじる傾向があるのではないか、ということです。
これは どういう意識に基づいているのでしょうか。どうやら “責任ある個の意識”が 欠落してきているせいではないか、イヤ或いは 少々入り組んだ思考を面倒に思う傾向にあり、思考停止(思考力の劣化)の傾向になっているせいではないかと 思う “今日この頃です”。
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