The Rest Room of ISO Management
ISO休戦
リーダーは半歩前を歩け―姜尚中ワールド その2
姜尚中氏について、今マイ・ブームになっている。そして、最近 私にあってはリーダー・シップについて興味が再燃して来たので、同氏の“リーダーは半歩前を歩け”を読んだので紹介したい。
何故、姜尚中に興味を抱くのか。いや興味を抱く対象とするターゲットとするべきであるのだ。何故ならば、彼はマージナル・マンだからである。マージナル・マンとは互いに異なる世界の境界に身を置く人のことで、私が学生時代 当時東大の社会学者折原浩氏が強調していた概念であり、こうしたマージナル・マンから、革新的考え方がでてくるはずだということだったと思う。学生運動華やかりし頃、折原氏の講演をバリケードの中で聞き、その後同氏の著書を1冊読み、そんなものかと思ってはいたが、工科の私は その後の同氏の動向はフォローしなかったので、その後の消息は知らない。だが、前に紹介したようにNHK教育の番組“仕事学のすすめ―人生哲学的仕事論”で、姜尚中氏の苦難の人生を あらためて具体的に知ることができ、今更ながらマージナル・マンという言葉を思い起こしたのであった。
しかも、そのテレビ番組で知ったのだが、姜氏はクリスチャンであり、マックス・ウェーバー学者である。同時代人でありながら、考え方のベースはかなり異なっているはずだ。今 まさに閉塞状況にある日本で、日本の近くにありながら、非常に異なる方向性を持って世界に突き進んでいる韓国とのマージナル・マンとしての姜氏の日本を見る目が どのようなものなのか、そして、それはどういった考え方から来るものなのか 是非知りたいと思ったのだった。恐らく、そのようなことを解明するためには、姜氏の本を相当に読みこなさなければ 知りえることはないのではないかと思われるが、私にとっての知の探検対象としては適切ではないかと身の程も覚えず思ったのだった。
さて、リーダー・シップについてであるが、以前経済学者ガルブレイスの言葉を紹介したことがあったと思うが、それは 次のようなものだった。「“リーダーシップ”ということばは、油断のならないつかみどころのないもの」だ。第二次大戦の戦後処理の尋問で 実際に会ったナチス・ドイツの指導者のほとんどが、アル中で下品な連中であったことから そう信じるようになったと言う。しかし、リーダーシップは 本来、人々を ある正しい方向に導くものであるため、重大な責任を伴うため高潔さが要求される、と。しかしなるほど、ナチスばかりだけでなく、“やくざ”こそ強烈なリーダー・シップが要る。それが無ければ親分や総長にはなれない、と思っていた。
そういったこと等から、どうやら 現在のリーダー・シップについての大方の見方は、仕事を達成しようとする情熱に応じて自ずから発揮されるもので、それは誰にでも備わっている能力であり、教育・訓練により養成可能という考え方が主流のようだ。だが、たとえ そういうものであるとしても、見ず知らずの場所で 一瞬にしてリーダー・シップを発揮するためには、どうすれば良いのか知っておきたいという欲求が 最近湧き上がってきている。何故ならば、マネジメント・システムの審査においては、相手は大抵初対面の組織であり、その場で顔を合わせた瞬間から、リーダー・シップが要求されることを思い知るようになったからだ。そういう状況の中で幸いにして姜氏の 上記の本が見つかったのだった。これは姜氏を知る上でも有益なことであるとも思ったのだった。
さて、改めて、この本では“リーダー・シップ”をどのように捉えているのか。
“リーダーは「カリスマ」(宗教的異能の持ち主)ではなく、「司令官」(マッチョなコマンダー)でもない”としつつ、「リーダーとは、民度のバロメーターだ」ということばを引用している。“民度”とは少々分かり難い言葉だが、“リーダーというのは、その共同体の民度や文化の水準を反映して登場”するものだとしている。チェ・ゲバラは外国に出掛けて革命指導を行ったが、民衆の民度の低さに悩まされて上手く行かなかったと説明している。企業組織のリーダーもその企業の文化の中から登場するべきだとしている。そうなると、私の要求事項つまり一時的にある集団の指揮を執る、あるいは指導する時にどうするべきか、とは異なるリーダー像をイメージしていることになる。まぁ、そうだとしてここで引き返す訳にはいかない。そういう限界を是認しつつ前へ進みたい。
さて、そこで姜氏は元韓国大統領・金大中(キムデジュン)を登場させ、この本に対話録も付記している。どうやら、この本の標題は、金元大統領の言葉によるものであり、また姜氏は金氏を 敬愛しているとのことである。金氏は、日本での朴政権による不法な“拉致事件”*であまりにも有名ではあるが、韓国内での施政業績は日本ではあまり知らされていない。姜氏のこの本での説明や、その他の情報によれば、韓国がIMFの管理下にあった当時、韓国経済の立て直しのために、大統領として絶大な権力を行使し、金融機関の統廃合を推進し、不良債権を抱えた問題企業の市場から退場させた、ということだ。この改革により韓国経済はV字回復したとのであり、今 隆盛を誇るヒュンデ(現代)やサムソン(三星)は、この時の企業集約により、強力になったと言われている。
*そう言えば、この時も日本政府は韓国政府に主権を侵害されたにもかかわらず、金氏の身柄の原状回復を強く要求せず、ウヤムヤに終わった印象がある。このように韓国であれ、中国であれ、或いはロシア、まして米国にさえも常に、自己主張できないのが日本政府であり、国民を拉致した北朝鮮にすら一向に有効な手立てを施せない政府である。
こういう軟弱な政府の体質は 一体どのような国民文化に由来するのだろうか。時の政治家たちが、常に後ろめたいものを負っているため、そういう点を 常に外国勢力に突かれてしまうのだろうか。そういう後ろめたい人物を選挙で選んでしまう“民度の低さ”が日本にはあるのだろうか。或いは、不正を適切に覆い隠してしまうマスコミの体質にも問題があるのではないか。“まぁまぁまぁ、そう尖がらないで!まぁーるく、まぁーるく、仲良くしましょう。”、“仲良きことは美しき哉” こういう言葉で、正論は封殺されて来たのではないか。そして、“改革”は一向に進展せず、官僚が はびこってしまったのだ。
金氏は、暗殺のための偽装交通事故や拉致事件、光州事件首謀者として死刑宣告と何度か生命の危機を経験したとのことだが、そういう多数の死地から抜け出して大統領になった人物であり、その意味において筋金入りの政治家である。そういった死と引き換えに妥協を求められた時、常に“国民への尊敬と愛”を意識し、“目の前の利益ではなく、自分の信念に従って行動してきた”と言う。
こういう政治家の金氏が、“(現代の民主政治家)として成功するためには、国民よりも「半歩前」に行くことがポイント”だと言い、“二歩も三歩も先に行ったら、国民と握っている手が離れて”しまい、国民がついて行けない。これが過去の“優秀な革命家が成功しない理由の一つ”であると指摘している。そう言えば レーニンの言葉として“一歩前進、二歩後退”というのがあったように思うが、そういう意味であったろうか。
姜氏は、“十歩前を行く人というのは、ドン・キホーテのような夢想家か、あるいは革命家や独裁者”であると言っている。“ぜったいに国民の手を離さず、国民がついてこなければ、「半歩」下がって彼らの中に入り、わかってもらえるまで説得して、同意が得られたら、また「半歩」先を行く”ことを理想とする。まさに、これが民主主義政治家の理想なのであろう。
だが、しかし金氏は その前に、政治家が“世界観や歴史観といった大きなことに関心”を持たなくなり、“矮小化してきている”ので「今日のこと」だけを問題にしているが、実は「望遠鏡」と「顕微鏡」の目、或いは「書生的な問題意識」と「商人的な現実感覚」が必要で、そういう政治家でなければ本物ではないと言っている。そのためには、“リーダーは「歴史」に学び、「歴史」から解を引き出す”姿勢が必要で、金氏は獄中生活や軟禁状態の中でトインビーやプラトンのみならず世界の名作小説や古典をほとんど読んだという。“「歴史」は後退しない。つねに前進する”という信念の下、「歴史と勝負する」ことを一つの判断基準としていると言う。
金大中氏に深入りし過ぎたようだが、ここで改めて姜氏はリーダーには何が必要と言っているか振り返ってみる。ここで言うリーダーは政治家のことであり、そのために必須の次の7つのリーダー・パワーを提示している。
(1)先見力―リーダーはビジョンを示せ(予見して、人々に希望を与える)
(2)目標設定力―具体的に、何を目指すのか(どんなリーダーにも必須)
(3)動員力―これぞ「カリスマ」の本領(人を動かすファッシネーション)
(4)コミュニケーション力―「キメのセリフ」を出せ(信念の発信力)
(5)マネジメント力―「情報管理」と「人事管理」(適切な情報収集力と「敵でも使う」胆力)
(6)判断力―「生もの」と「干もの」のインテリジェンス(リーダーの状況判断力と人文[古典]知)
(7)決断力―「孤独」に耐える精神力(情報不足の中、正解を求めて誰にも頼らずに決定する力―三度考えよ)
さらに著者は日本の戦後政治の主柱であった「日米安保体制」を、ボードレールの『悪の華』に出てくるという「青銅の襁褓(むつき:おむつ)」にたとえている。東西冷戦の中、日本の政治家には国家観やリーダー・シップは求められず、手枷・足枷がはめられたのだと言う。その中で自民党による平和(パックス・ジミトミカ)が現出し、野党側も権力中枢の「制度圏」に人材を送り込む力量を獲得することなく、40年以上経過した。こういう状況下で政界は“リーダーならざるリーダー”ばかり登場させざるを得なかった。
こういう閉塞状況を打破するためには、一般社会からリーダーを輩出する「孵化装置」を松下政経塾のような形態ばかりではなく、様々な形で作り出す必要があると指摘している。
最後に、政治家に特に求められる資質として、信念に殉じる“信じる力”とマックス・ウェーバーも説いたという“「日々の要求に従」いながら、「歴史の要求に従」う”という「歴史と勝負する」姿勢が必要であると言って終わっている。
ISO監査リーダーに求められる資質に関しては、ISO19011(JIS Q 19011)に規定があるが、それによると政治家に求められる資質と重なる部分は多いかも知れないが、監査リーダーには「歴史と勝負する」姿勢は“必須”という条件ではあるまい。だが、被監査組織の“半歩先を行く”指導的姿勢は大切なことであろう。
何故、姜尚中に興味を抱くのか。いや興味を抱く対象とするターゲットとするべきであるのだ。何故ならば、彼はマージナル・マンだからである。マージナル・マンとは互いに異なる世界の境界に身を置く人のことで、私が学生時代 当時東大の社会学者折原浩氏が強調していた概念であり、こうしたマージナル・マンから、革新的考え方がでてくるはずだということだったと思う。学生運動華やかりし頃、折原氏の講演をバリケードの中で聞き、その後同氏の著書を1冊読み、そんなものかと思ってはいたが、工科の私は その後の同氏の動向はフォローしなかったので、その後の消息は知らない。だが、前に紹介したようにNHK教育の番組“仕事学のすすめ―人生哲学的仕事論”で、姜尚中氏の苦難の人生を あらためて具体的に知ることができ、今更ながらマージナル・マンという言葉を思い起こしたのであった。
しかも、そのテレビ番組で知ったのだが、姜氏はクリスチャンであり、マックス・ウェーバー学者である。同時代人でありながら、考え方のベースはかなり異なっているはずだ。今 まさに閉塞状況にある日本で、日本の近くにありながら、非常に異なる方向性を持って世界に突き進んでいる韓国とのマージナル・マンとしての姜氏の日本を見る目が どのようなものなのか、そして、それはどういった考え方から来るものなのか 是非知りたいと思ったのだった。恐らく、そのようなことを解明するためには、姜氏の本を相当に読みこなさなければ 知りえることはないのではないかと思われるが、私にとっての知の探検対象としては適切ではないかと身の程も覚えず思ったのだった。
さて、リーダー・シップについてであるが、以前経済学者ガルブレイスの言葉を紹介したことがあったと思うが、それは 次のようなものだった。「“リーダーシップ”ということばは、油断のならないつかみどころのないもの」だ。第二次大戦の戦後処理の尋問で 実際に会ったナチス・ドイツの指導者のほとんどが、アル中で下品な連中であったことから そう信じるようになったと言う。しかし、リーダーシップは 本来、人々を ある正しい方向に導くものであるため、重大な責任を伴うため高潔さが要求される、と。しかしなるほど、ナチスばかりだけでなく、“やくざ”こそ強烈なリーダー・シップが要る。それが無ければ親分や総長にはなれない、と思っていた。
そういったこと等から、どうやら 現在のリーダー・シップについての大方の見方は、仕事を達成しようとする情熱に応じて自ずから発揮されるもので、それは誰にでも備わっている能力であり、教育・訓練により養成可能という考え方が主流のようだ。だが、たとえ そういうものであるとしても、見ず知らずの場所で 一瞬にしてリーダー・シップを発揮するためには、どうすれば良いのか知っておきたいという欲求が 最近湧き上がってきている。何故ならば、マネジメント・システムの審査においては、相手は大抵初対面の組織であり、その場で顔を合わせた瞬間から、リーダー・シップが要求されることを思い知るようになったからだ。そういう状況の中で幸いにして姜氏の 上記の本が見つかったのだった。これは姜氏を知る上でも有益なことであるとも思ったのだった。
さて、改めて、この本では“リーダー・シップ”をどのように捉えているのか。
“リーダーは「カリスマ」(宗教的異能の持ち主)ではなく、「司令官」(マッチョなコマンダー)でもない”としつつ、「リーダーとは、民度のバロメーターだ」ということばを引用している。“民度”とは少々分かり難い言葉だが、“リーダーというのは、その共同体の民度や文化の水準を反映して登場”するものだとしている。チェ・ゲバラは外国に出掛けて革命指導を行ったが、民衆の民度の低さに悩まされて上手く行かなかったと説明している。企業組織のリーダーもその企業の文化の中から登場するべきだとしている。そうなると、私の要求事項つまり一時的にある集団の指揮を執る、あるいは指導する時にどうするべきか、とは異なるリーダー像をイメージしていることになる。まぁ、そうだとしてここで引き返す訳にはいかない。そういう限界を是認しつつ前へ進みたい。
さて、そこで姜氏は元韓国大統領・金大中(キムデジュン)を登場させ、この本に対話録も付記している。どうやら、この本の標題は、金元大統領の言葉によるものであり、また姜氏は金氏を 敬愛しているとのことである。金氏は、日本での朴政権による不法な“拉致事件”*であまりにも有名ではあるが、韓国内での施政業績は日本ではあまり知らされていない。姜氏のこの本での説明や、その他の情報によれば、韓国がIMFの管理下にあった当時、韓国経済の立て直しのために、大統領として絶大な権力を行使し、金融機関の統廃合を推進し、不良債権を抱えた問題企業の市場から退場させた、ということだ。この改革により韓国経済はV字回復したとのであり、今 隆盛を誇るヒュンデ(現代)やサムソン(三星)は、この時の企業集約により、強力になったと言われている。
*そう言えば、この時も日本政府は韓国政府に主権を侵害されたにもかかわらず、金氏の身柄の原状回復を強く要求せず、ウヤムヤに終わった印象がある。このように韓国であれ、中国であれ、或いはロシア、まして米国にさえも常に、自己主張できないのが日本政府であり、国民を拉致した北朝鮮にすら一向に有効な手立てを施せない政府である。
こういう軟弱な政府の体質は 一体どのような国民文化に由来するのだろうか。時の政治家たちが、常に後ろめたいものを負っているため、そういう点を 常に外国勢力に突かれてしまうのだろうか。そういう後ろめたい人物を選挙で選んでしまう“民度の低さ”が日本にはあるのだろうか。或いは、不正を適切に覆い隠してしまうマスコミの体質にも問題があるのではないか。“まぁまぁまぁ、そう尖がらないで!まぁーるく、まぁーるく、仲良くしましょう。”、“仲良きことは美しき哉” こういう言葉で、正論は封殺されて来たのではないか。そして、“改革”は一向に進展せず、官僚が はびこってしまったのだ。
金氏は、暗殺のための偽装交通事故や拉致事件、光州事件首謀者として死刑宣告と何度か生命の危機を経験したとのことだが、そういう多数の死地から抜け出して大統領になった人物であり、その意味において筋金入りの政治家である。そういった死と引き換えに妥協を求められた時、常に“国民への尊敬と愛”を意識し、“目の前の利益ではなく、自分の信念に従って行動してきた”と言う。
こういう政治家の金氏が、“(現代の民主政治家)として成功するためには、国民よりも「半歩前」に行くことがポイント”だと言い、“二歩も三歩も先に行ったら、国民と握っている手が離れて”しまい、国民がついて行けない。これが過去の“優秀な革命家が成功しない理由の一つ”であると指摘している。そう言えば レーニンの言葉として“一歩前進、二歩後退”というのがあったように思うが、そういう意味であったろうか。
姜氏は、“十歩前を行く人というのは、ドン・キホーテのような夢想家か、あるいは革命家や独裁者”であると言っている。“ぜったいに国民の手を離さず、国民がついてこなければ、「半歩」下がって彼らの中に入り、わかってもらえるまで説得して、同意が得られたら、また「半歩」先を行く”ことを理想とする。まさに、これが民主主義政治家の理想なのであろう。
だが、しかし金氏は その前に、政治家が“世界観や歴史観といった大きなことに関心”を持たなくなり、“矮小化してきている”ので「今日のこと」だけを問題にしているが、実は「望遠鏡」と「顕微鏡」の目、或いは「書生的な問題意識」と「商人的な現実感覚」が必要で、そういう政治家でなければ本物ではないと言っている。そのためには、“リーダーは「歴史」に学び、「歴史」から解を引き出す”姿勢が必要で、金氏は獄中生活や軟禁状態の中でトインビーやプラトンのみならず世界の名作小説や古典をほとんど読んだという。“「歴史」は後退しない。つねに前進する”という信念の下、「歴史と勝負する」ことを一つの判断基準としていると言う。
金大中氏に深入りし過ぎたようだが、ここで改めて姜氏はリーダーには何が必要と言っているか振り返ってみる。ここで言うリーダーは政治家のことであり、そのために必須の次の7つのリーダー・パワーを提示している。
(1)先見力―リーダーはビジョンを示せ(予見して、人々に希望を与える)
(2)目標設定力―具体的に、何を目指すのか(どんなリーダーにも必須)
(3)動員力―これぞ「カリスマ」の本領(人を動かすファッシネーション)
(4)コミュニケーション力―「キメのセリフ」を出せ(信念の発信力)
(5)マネジメント力―「情報管理」と「人事管理」(適切な情報収集力と「敵でも使う」胆力)
(6)判断力―「生もの」と「干もの」のインテリジェンス(リーダーの状況判断力と人文[古典]知)
(7)決断力―「孤独」に耐える精神力(情報不足の中、正解を求めて誰にも頼らずに決定する力―三度考えよ)
さらに著者は日本の戦後政治の主柱であった「日米安保体制」を、ボードレールの『悪の華』に出てくるという「青銅の襁褓(むつき:おむつ)」にたとえている。東西冷戦の中、日本の政治家には国家観やリーダー・シップは求められず、手枷・足枷がはめられたのだと言う。その中で自民党による平和(パックス・ジミトミカ)が現出し、野党側も権力中枢の「制度圏」に人材を送り込む力量を獲得することなく、40年以上経過した。こういう状況下で政界は“リーダーならざるリーダー”ばかり登場させざるを得なかった。
こういう閉塞状況を打破するためには、一般社会からリーダーを輩出する「孵化装置」を松下政経塾のような形態ばかりではなく、様々な形で作り出す必要があると指摘している。
最後に、政治家に特に求められる資質として、信念に殉じる“信じる力”とマックス・ウェーバーも説いたという“「日々の要求に従」いながら、「歴史の要求に従」う”という「歴史と勝負する」姿勢が必要であると言って終わっている。
ISO監査リーダーに求められる資質に関しては、ISO19011(JIS Q 19011)に規定があるが、それによると政治家に求められる資質と重なる部分は多いかも知れないが、監査リーダーには「歴史と勝負する」姿勢は“必須”という条件ではあるまい。だが、被監査組織の“半歩先を行く”指導的姿勢は大切なことであろう。
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