The Rest Room of ISO Management
ISO休戦
宮城谷 昌光・著“孟嘗君と戦国時代”を読んで
これからの日本の主力ロケット「H3」の初号機が、17日の打ち上げに失敗した。
ところが、“永岡文科相は「失敗は成功のもとでございますので、前を向いて、しっかりと進めていきたい」と述べ、「失敗ではないです」との指摘に「ごめんなさい。申し訳ありません」と釈明した”、という。何とノンキな事か。天下泰平、平穏無事である。
部品にひびが入ったとか亀裂があったとかの問題であれば、材料関係の製造技能が落ちたのか、それとも機械設計能力が落ちたのか、となる。
“主エンジンに続いて作動する固体ロケットブースターへの着火信号が出なかった” という。ならばシステムの問題なのか。そうならば、打ち上げ前に点検できないのか?システム点検できないのであれば、それは基礎的な技術的欠落ではないのか。実際にやって見ないと分からないというのは、技術開発そのものの手法に問題があるからではないのか。つまりは、日本の技術力総体の低下ではないのか。
文科大臣が他人事のようなノンキな発言をしている場合ではないと思うが、どうなのか?それ自体マネジメントの問題であり、広い意味での政治の問題だと思うのだが。つまり自分の問題ではないか、との危機感が欠落している。だから日本の政治家はダメなのではないか?
正体不明の気球について米国が中国の偵察気球であるとの断定に引き続いて、日本の防衛省も“中国が飛行させた無人偵察用気球であると強く推定される”と追随発表した。こういう日本政府の姿勢、何とかならないのか。だから、今更感のある報道が為される。米国の後をついて回る属国の印象を世界に与える。
慌てて、武器使用の緩和に走ったりする。もっと腰の坐った、自主性が必要なのではないのか。
それにしても、気球撃ち落としに何故高価なミサイルが必要なのかの解説が未だないのが不思議だ。
日本政府はEEZ(排他的経済水域)を放棄したのであろうか。18日夕刻に発射された北朝鮮ミサイルは日本のEEZ内に落下したとされるが、これを迎撃する意志は見られなかったようだ。
東シナ海の日本のEEZで漁業資源の調査をしていた政府の研究機関の調査船に中国海軍のヘリコプターが接近したが、遺憾の意を表明したにとどめたようだ。
先夏、中国がEEZへミサイルを5発撃ち込んでもNSC(国家安全保障会議)すら開かず電話抗議だけだった?
さて、今回は宮城谷 昌光・著“孟嘗君と戦国時代”(中公文庫)を紹介したい。
ある日、整理できていない自分の部屋にこの本の表紙を見つけ、ある種のときめきを感じた。それは先週紹介した本と同じで、売られている書店で感じたものを蘇らせたものだった。同じく当然、そのまま見捨てることができずに取り上げて読み始めたのだった。この本には買い上げた時のレシートは付いていた。
とにもかくにも、私の愛読する中国古代歴史作家・宮城谷昌光氏の本なので、この忘れられた本に面白く興味津々で取り組んだのだった。いつものようにこの本に関する情報と、孟嘗君に関する筆者の整理した情報を次に掲載する。
[出版社内容情報]
古代中国の大国、斉に生まれた孟嘗君は、秦から脱出する際、食客たちによって助けられた“鶏鳴狗盗(けいめいくとう) ”の故事で名高い。多様な力が国と人とを動かす波瀾の時代にあって、智慧と誠実を以て燦然と輝く存在であった孟嘗君を通し、戦国時代を読み解く。文庫化にあたり、新たなエッセイを付す。
[内容説明]
古代中国の大国、斉に生まれた孟嘗君は「鶏鳴狗盗」の故事で名高い。多様な力が国と人とを動かす波瀾の時代に、智慧と誠実さを以て燦然と輝く存在であった孟嘗君を通して戦国時代を読み解く。書き下ろしエッセイ「回想のなかの孟嘗君」を付す。
[目次]
第1章 戦国時代と四君
第2章 斉国と臨淄
第3章 威王の時代
第4章 斉の二大戦争
第5章 孟嘗君の誕生と父 靖郭君
第6章 稷下のにぎわい
第7章 孟嘗君の活躍
第8章 孟嘗君と斉国の命運
系図・本書関連年表
書き下ろしエッセイ 回想のなかの孟嘗君
[著者等紹介]宮城谷昌光[ミヤギタニマサミツ]
1945(昭和20)年、愛知県蒲郡市に生まれる。早稲田大学文学部卒業。出版社勤務のかたわら立原正秋に師事し、創作を始める。91(平成3)年『天空の舟』で新田次郎文学賞、『夏姫春秋』で直木賞、93年『重耳』で芸術選奨文部大臣賞、2001年『子産』で吉川英治文学賞、04年菊池寛賞を受賞。著書多数(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
[理解の助けとなるメモ](筆者による整理)
孟嘗君(もうしょうくん;?~紀元前279年)は、中国戦国時代の公族・政治家。姓は嬀、氏は田、諱は文。斉(注1)の威王(注2)の孫にあたる。戦国四君の一人。(注3)
(注1)斉(せい)は、中国の戦国時代、紀元前386年に田氏が姜姓呂氏の斉(姜斉または呂斉)を滅ぼして新たに立てた国。国号は単に斉であるが、西周・春秋時代の姜斉と特に区別する場合に嬀斉または田斉と呼ばれる。戦国時代中期には、湣王の頃に東帝を称するまでになるほど強盛を誇り、戦国七雄の一つにも数えられる。首都は姜斉の時と変わらず臨淄であった。
(注2)威王(いおう;?~紀元前320年、在位:紀元前356年~紀元前320年)は、中国戦国時代の田斉(注1)の第4代君主、王としては初代。父は桓公(注4)。下図は本書で何度も出る系図だが、『戦国策』では威王と靖郭君が兄弟となっている、という。宣王と靖郭君の険悪な間柄を靖郭君の食客・斉貌弁が取りなしたと『戦国策』にあるという。
(注3)中国の戦国時代に活躍した4人の人物を総称した呼び名。
斉の孟嘗君 田文(?~紀元前279年)/趙の平原君 趙勝(?~紀元前251年)/魏の信陵君 魏無忌(?~紀元前244年)/楚の春申君 黄歇(?~紀元前238年)
(注4)桓公(かんこう)は、春秋時代の斉の第16代君主。春秋五覇の筆頭に晋の文公(重耳)と並び数えられる。鮑叔の活躍により公子糾との公位継承争いに勝利し、管仲を宰相にして斉を強大な国とした。また、実力を失いつつあった東周に代わって会盟を執り行った。
著者が小説『孟嘗君』を書いていることは知っていた。“鶏鳴狗盗”で有名な面白そうな人物なので是非読んでみたい。だが、文庫本にせよ全5冊の大作である。少々手を出し難い。そこで書店で見つけたこの本を取り上げてみた。当然ながら何か理解の助けとなるようなことが書かれているのだろうと。
ところで本書は意外な切り口からスタートする。それは祇園祭の函谷鉾(かんこぼこ)の紹介からのだ。著者がその小説『孟嘗君』を書き終えたあとに、京都の「函谷鉾保存会」から「祇園祭・函谷鉾祇園囃子」が録音されたCDが送られてきたとのこと。函谷鉾は山鉾巡行で順番を決めるくじに参加することなく5番目の地位が決まっている由緒ある鉾なのだ。著者は次のように言う。“目が覚めるほどの衝撃”だったという。“「函谷」と、きいて孟嘗君を連想できなければ、その鉾を想像の跳躍の手段にすることはできず、鉾の美しさに感動するだけで終わってしまうであろう。京都の歴史の奥深さは、中国の故事に通っているのである。”
函谷鉾は私も京都でお世話になっているビルの目の前で毎年夏に“建鉾”されているので、このエピソードは私にも感慨深いものであった。
目次を見て分かるように、この本で孟嘗君が登場するのは第5章からで、主役登場までの序曲が長すぎる印象があるが、折角の紹介本なので、それは致し方ないのであろう。何せ、小説『孟嘗君』が本来あるのだから。第5章までを読んでいて、さすがに著者である、と感心せざるを得ない。先に、“理解のたすけとなるメモ”を示したが、これを読んでもらえれば分かるように、注釈に注釈が付いているので、実に読み辛い。いつも宮城谷氏の古代中国の小説を読むたびに思うのだが、この注釈に注釈が付いている読み辛さを、博学の著者はいつも立て板に水のごとく解説してくれている。そこで読者としては頭の中を整理する時間に悩まされることになるのだが、正に第5章までを読んでその連続であることが分かる。
第5章からは父・田嬰の話、威王を補佐して功績をあげ薛(せつ)に封ぜられ、威王の死後、薛を囲む城壁を築こうとしたが食客の諫言によって中止したという。或いは、当時の俗信から五月生まれの田文(孟嘗君)を殺そうとした話が出てくる。“五月生まれの子は、身長が戸(門)と斉(ひと)しくなり、父母に不利をもたらす”という俗信に対し、“命を天から受けるのであれば、父上はどうして憂慮なさるのでしょうか。もしも命を戸から受けるのであれば、戸を高くすればよいではありませんか。たれがその高さにとどきましょうや。”この問答によって、田文は認められたが後継者から外され、嘗という邑を与えられ、ために嘗君或いは、孟嘗君と呼ばれるようになった、という。
斉の宣王が学者をことのほか優遇し、気に入った学者には屋敷を与えて大臣と同じ位を授けた。ために、斉の首都・臨淄の西の城門・稷門の近くに学者たちが多く住み始め、千人に達したという。稷下は学問の聖地となった。さまざまな学説により「諸子百家」が立った。
儒家、道家、陰陽家、法家、名家、墨家、縦横家、雑家、農家、小説家、兵家
である。
ついに第7章の“孟嘗君の活躍”に至る。田文(孟嘗君)が魏の相も兼ねた父・田嬰を佐て家宰となり、ついに諸侯の言を入れて後嗣となり、やがて靖郭君田嬰は亡くなり、田文(孟嘗君)が立った。それと共に多くの食客も引き継いだ。但し、孟嘗君の食客は質が悪かった。何故そうなったのかは分からないという。
“孟嘗君が客と話し合っているときには、かならず屛風のうしろに侍史(書記)がいた。侍史は対話の内容と客の親戚の住所などを記録した。客が去ると、すぐに孟嘗君は使いをだしてその親戚に挨拶させ、贈り物を渡すようにさせた。これはいつの世でも応用できる人心掌握術であろう。”
その食客を養う財源は不明というが、財源運営に“失敗すれば、薛という国は破産する”と言っている。
楚・秦間での争いに、対楚で韓、魏、斉が乗ってしまい、韓、魏、斉連合軍の各将の上に孟嘗君を据えて楚と戦い宛の方城を攻め、さらに垂沙において楚軍を大破させた。そこで秦の首脳は孟嘗君の力量を評価し、天下の耳目は孟嘗君に集まったという。秦の相・魏冄(ぎぜん)は孟嘗君を秦に招き、相に就かせようとした。
それに対し、「胡服騎射」による軍制改革し中山を撃ち領有した趙の武霊王は孟嘗君に警戒感を持ち、趙の国力の増強を図った。そして西隣の秦と親交しようとした。武霊王は公子・何へ国を譲って主父(しゅほ)となったが、秦の重臣・楼緩に“秦王に、招待した孟嘗君を殺害させるように―”密命を与えた。
孟嘗君はそれを察知し、秦からの脱出劇となる。その過程で函谷関での“鶏鳴狗盗”となる。この脱出に成功した孟嘗君は、秦に報復の三カ国連合の軍を催す。斉軍はかつて孫臏の編成した弩の多い軍で秦に対しても精強であった。秦軍を大破させ、函谷関まで迫った。そこで秦王に二三の要求を出し、撤退した。
このとき中山に居て、燕に逃れた逸材がいたという。楽毅である。ちなみに、燕王が“まず、隗より始めよ”と言われて得た逸材であるという。
その後斉王・湣に睨まれた孟嘗君は、その楽毅が率いる燕を含む五カ国連合軍が斉を蹂躙した時、薛に居て悠々とすごしたであろうという。そしてまもなく亡くなったと。
のち、司馬遷は“任侠の徒を招致したためいかがわしい者が邑内に多く、およそ6万余の家があった”と地元民から聞いたと記した、という。ここまで、武霊王や楽毅等、あたかもこれまでの宮城谷氏の歴史小説のスターが顔を揃えていて面白い。
“書き下ろしエッセイ 回想のなかの孟嘗君”では、『春秋左氏伝』の来歴の解説を行い、司馬遷の『史記』(紀伝体)、司馬光の『資治通鑑』(編年体)の読み比べを行っている。紀伝体は人に伴うストーリーが面白いが、時としてイベントの時期に矛盾を生じる。編年体はイベントの時期の矛盾は生じないが、ストーリーがないので無味乾燥となる。そこで『戦国策』に興が集まり、著者はこれを解体して時機に応じて“パズルのピースをはめこむような作業”をしたという。そして張丑(ちょうちゅう)という田嬰をまもった遊説家の存在を見つけた由。
次に、田文(孟嘗君)を育てた人物は誰かの疑問に挑んだ話。そこで、孟子ではないかとの突飛な推測をなしている。“惻隠の心”で田嬰が孟子をまもったのではないかと。そして、孟子が田文を教育した?否、大商人・白圭か?“そう考えたとき、私の心ははずみをもった。このはずみがないと、小説は書けない。・・・一条の光をみつければ、その光を追ってゆく性癖をもっている。”という。
これで小説『孟嘗君』を十分に熟読玩味できるだろうか。否、注釈に注釈が付いているような内容を、立て板に水のごとく解説してくれている著者の記述に悩まされるのであろうか。
ところが、“永岡文科相は「失敗は成功のもとでございますので、前を向いて、しっかりと進めていきたい」と述べ、「失敗ではないです」との指摘に「ごめんなさい。申し訳ありません」と釈明した”、という。何とノンキな事か。天下泰平、平穏無事である。
部品にひびが入ったとか亀裂があったとかの問題であれば、材料関係の製造技能が落ちたのか、それとも機械設計能力が落ちたのか、となる。
“主エンジンに続いて作動する固体ロケットブースターへの着火信号が出なかった” という。ならばシステムの問題なのか。そうならば、打ち上げ前に点検できないのか?システム点検できないのであれば、それは基礎的な技術的欠落ではないのか。実際にやって見ないと分からないというのは、技術開発そのものの手法に問題があるからではないのか。つまりは、日本の技術力総体の低下ではないのか。
文科大臣が他人事のようなノンキな発言をしている場合ではないと思うが、どうなのか?それ自体マネジメントの問題であり、広い意味での政治の問題だと思うのだが。つまり自分の問題ではないか、との危機感が欠落している。だから日本の政治家はダメなのではないか?
正体不明の気球について米国が中国の偵察気球であるとの断定に引き続いて、日本の防衛省も“中国が飛行させた無人偵察用気球であると強く推定される”と追随発表した。こういう日本政府の姿勢、何とかならないのか。だから、今更感のある報道が為される。米国の後をついて回る属国の印象を世界に与える。
慌てて、武器使用の緩和に走ったりする。もっと腰の坐った、自主性が必要なのではないのか。
それにしても、気球撃ち落としに何故高価なミサイルが必要なのかの解説が未だないのが不思議だ。
日本政府はEEZ(排他的経済水域)を放棄したのであろうか。18日夕刻に発射された北朝鮮ミサイルは日本のEEZ内に落下したとされるが、これを迎撃する意志は見られなかったようだ。
東シナ海の日本のEEZで漁業資源の調査をしていた政府の研究機関の調査船に中国海軍のヘリコプターが接近したが、遺憾の意を表明したにとどめたようだ。
先夏、中国がEEZへミサイルを5発撃ち込んでもNSC(国家安全保障会議)すら開かず電話抗議だけだった?
さて、今回は宮城谷 昌光・著“孟嘗君と戦国時代”(中公文庫)を紹介したい。
ある日、整理できていない自分の部屋にこの本の表紙を見つけ、ある種のときめきを感じた。それは先週紹介した本と同じで、売られている書店で感じたものを蘇らせたものだった。同じく当然、そのまま見捨てることができずに取り上げて読み始めたのだった。この本には買い上げた時のレシートは付いていた。
とにもかくにも、私の愛読する中国古代歴史作家・宮城谷昌光氏の本なので、この忘れられた本に面白く興味津々で取り組んだのだった。いつものようにこの本に関する情報と、孟嘗君に関する筆者の整理した情報を次に掲載する。
[出版社内容情報]
古代中国の大国、斉に生まれた孟嘗君は、秦から脱出する際、食客たちによって助けられた“鶏鳴狗盗(けいめいくとう) ”の故事で名高い。多様な力が国と人とを動かす波瀾の時代にあって、智慧と誠実を以て燦然と輝く存在であった孟嘗君を通し、戦国時代を読み解く。文庫化にあたり、新たなエッセイを付す。
[内容説明]
古代中国の大国、斉に生まれた孟嘗君は「鶏鳴狗盗」の故事で名高い。多様な力が国と人とを動かす波瀾の時代に、智慧と誠実さを以て燦然と輝く存在であった孟嘗君を通して戦国時代を読み解く。書き下ろしエッセイ「回想のなかの孟嘗君」を付す。
[目次]
第1章 戦国時代と四君
第2章 斉国と臨淄
第3章 威王の時代
第4章 斉の二大戦争
第5章 孟嘗君の誕生と父 靖郭君
第6章 稷下のにぎわい
第7章 孟嘗君の活躍
第8章 孟嘗君と斉国の命運
系図・本書関連年表
書き下ろしエッセイ 回想のなかの孟嘗君
[著者等紹介]宮城谷昌光[ミヤギタニマサミツ]
1945(昭和20)年、愛知県蒲郡市に生まれる。早稲田大学文学部卒業。出版社勤務のかたわら立原正秋に師事し、創作を始める。91(平成3)年『天空の舟』で新田次郎文学賞、『夏姫春秋』で直木賞、93年『重耳』で芸術選奨文部大臣賞、2001年『子産』で吉川英治文学賞、04年菊池寛賞を受賞。著書多数(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
[理解の助けとなるメモ](筆者による整理)
孟嘗君(もうしょうくん;?~紀元前279年)は、中国戦国時代の公族・政治家。姓は嬀、氏は田、諱は文。斉(注1)の威王(注2)の孫にあたる。戦国四君の一人。(注3)
(注1)斉(せい)は、中国の戦国時代、紀元前386年に田氏が姜姓呂氏の斉(姜斉または呂斉)を滅ぼして新たに立てた国。国号は単に斉であるが、西周・春秋時代の姜斉と特に区別する場合に嬀斉または田斉と呼ばれる。戦国時代中期には、湣王の頃に東帝を称するまでになるほど強盛を誇り、戦国七雄の一つにも数えられる。首都は姜斉の時と変わらず臨淄であった。
(注2)威王(いおう;?~紀元前320年、在位:紀元前356年~紀元前320年)は、中国戦国時代の田斉(注1)の第4代君主、王としては初代。父は桓公(注4)。下図は本書で何度も出る系図だが、『戦国策』では威王と靖郭君が兄弟となっている、という。宣王と靖郭君の険悪な間柄を靖郭君の食客・斉貌弁が取りなしたと『戦国策』にあるという。
(注3)中国の戦国時代に活躍した4人の人物を総称した呼び名。
斉の孟嘗君 田文(?~紀元前279年)/趙の平原君 趙勝(?~紀元前251年)/魏の信陵君 魏無忌(?~紀元前244年)/楚の春申君 黄歇(?~紀元前238年)
(注4)桓公(かんこう)は、春秋時代の斉の第16代君主。春秋五覇の筆頭に晋の文公(重耳)と並び数えられる。鮑叔の活躍により公子糾との公位継承争いに勝利し、管仲を宰相にして斉を強大な国とした。また、実力を失いつつあった東周に代わって会盟を執り行った。
著者が小説『孟嘗君』を書いていることは知っていた。“鶏鳴狗盗”で有名な面白そうな人物なので是非読んでみたい。だが、文庫本にせよ全5冊の大作である。少々手を出し難い。そこで書店で見つけたこの本を取り上げてみた。当然ながら何か理解の助けとなるようなことが書かれているのだろうと。
ところで本書は意外な切り口からスタートする。それは祇園祭の函谷鉾(かんこぼこ)の紹介からのだ。著者がその小説『孟嘗君』を書き終えたあとに、京都の「函谷鉾保存会」から「祇園祭・函谷鉾祇園囃子」が録音されたCDが送られてきたとのこと。函谷鉾は山鉾巡行で順番を決めるくじに参加することなく5番目の地位が決まっている由緒ある鉾なのだ。著者は次のように言う。“目が覚めるほどの衝撃”だったという。“「函谷」と、きいて孟嘗君を連想できなければ、その鉾を想像の跳躍の手段にすることはできず、鉾の美しさに感動するだけで終わってしまうであろう。京都の歴史の奥深さは、中国の故事に通っているのである。”
函谷鉾は私も京都でお世話になっているビルの目の前で毎年夏に“建鉾”されているので、このエピソードは私にも感慨深いものであった。
目次を見て分かるように、この本で孟嘗君が登場するのは第5章からで、主役登場までの序曲が長すぎる印象があるが、折角の紹介本なので、それは致し方ないのであろう。何せ、小説『孟嘗君』が本来あるのだから。第5章までを読んでいて、さすがに著者である、と感心せざるを得ない。先に、“理解のたすけとなるメモ”を示したが、これを読んでもらえれば分かるように、注釈に注釈が付いているので、実に読み辛い。いつも宮城谷氏の古代中国の小説を読むたびに思うのだが、この注釈に注釈が付いている読み辛さを、博学の著者はいつも立て板に水のごとく解説してくれている。そこで読者としては頭の中を整理する時間に悩まされることになるのだが、正に第5章までを読んでその連続であることが分かる。
第5章からは父・田嬰の話、威王を補佐して功績をあげ薛(せつ)に封ぜられ、威王の死後、薛を囲む城壁を築こうとしたが食客の諫言によって中止したという。或いは、当時の俗信から五月生まれの田文(孟嘗君)を殺そうとした話が出てくる。“五月生まれの子は、身長が戸(門)と斉(ひと)しくなり、父母に不利をもたらす”という俗信に対し、“命を天から受けるのであれば、父上はどうして憂慮なさるのでしょうか。もしも命を戸から受けるのであれば、戸を高くすればよいではありませんか。たれがその高さにとどきましょうや。”この問答によって、田文は認められたが後継者から外され、嘗という邑を与えられ、ために嘗君或いは、孟嘗君と呼ばれるようになった、という。
斉の宣王が学者をことのほか優遇し、気に入った学者には屋敷を与えて大臣と同じ位を授けた。ために、斉の首都・臨淄の西の城門・稷門の近くに学者たちが多く住み始め、千人に達したという。稷下は学問の聖地となった。さまざまな学説により「諸子百家」が立った。
儒家、道家、陰陽家、法家、名家、墨家、縦横家、雑家、農家、小説家、兵家
である。
ついに第7章の“孟嘗君の活躍”に至る。田文(孟嘗君)が魏の相も兼ねた父・田嬰を佐て家宰となり、ついに諸侯の言を入れて後嗣となり、やがて靖郭君田嬰は亡くなり、田文(孟嘗君)が立った。それと共に多くの食客も引き継いだ。但し、孟嘗君の食客は質が悪かった。何故そうなったのかは分からないという。
“孟嘗君が客と話し合っているときには、かならず屛風のうしろに侍史(書記)がいた。侍史は対話の内容と客の親戚の住所などを記録した。客が去ると、すぐに孟嘗君は使いをだしてその親戚に挨拶させ、贈り物を渡すようにさせた。これはいつの世でも応用できる人心掌握術であろう。”
その食客を養う財源は不明というが、財源運営に“失敗すれば、薛という国は破産する”と言っている。
楚・秦間での争いに、対楚で韓、魏、斉が乗ってしまい、韓、魏、斉連合軍の各将の上に孟嘗君を据えて楚と戦い宛の方城を攻め、さらに垂沙において楚軍を大破させた。そこで秦の首脳は孟嘗君の力量を評価し、天下の耳目は孟嘗君に集まったという。秦の相・魏冄(ぎぜん)は孟嘗君を秦に招き、相に就かせようとした。
それに対し、「胡服騎射」による軍制改革し中山を撃ち領有した趙の武霊王は孟嘗君に警戒感を持ち、趙の国力の増強を図った。そして西隣の秦と親交しようとした。武霊王は公子・何へ国を譲って主父(しゅほ)となったが、秦の重臣・楼緩に“秦王に、招待した孟嘗君を殺害させるように―”密命を与えた。
孟嘗君はそれを察知し、秦からの脱出劇となる。その過程で函谷関での“鶏鳴狗盗”となる。この脱出に成功した孟嘗君は、秦に報復の三カ国連合の軍を催す。斉軍はかつて孫臏の編成した弩の多い軍で秦に対しても精強であった。秦軍を大破させ、函谷関まで迫った。そこで秦王に二三の要求を出し、撤退した。
このとき中山に居て、燕に逃れた逸材がいたという。楽毅である。ちなみに、燕王が“まず、隗より始めよ”と言われて得た逸材であるという。
その後斉王・湣に睨まれた孟嘗君は、その楽毅が率いる燕を含む五カ国連合軍が斉を蹂躙した時、薛に居て悠々とすごしたであろうという。そしてまもなく亡くなったと。
のち、司馬遷は“任侠の徒を招致したためいかがわしい者が邑内に多く、およそ6万余の家があった”と地元民から聞いたと記した、という。ここまで、武霊王や楽毅等、あたかもこれまでの宮城谷氏の歴史小説のスターが顔を揃えていて面白い。
“書き下ろしエッセイ 回想のなかの孟嘗君”では、『春秋左氏伝』の来歴の解説を行い、司馬遷の『史記』(紀伝体)、司馬光の『資治通鑑』(編年体)の読み比べを行っている。紀伝体は人に伴うストーリーが面白いが、時としてイベントの時期に矛盾を生じる。編年体はイベントの時期の矛盾は生じないが、ストーリーがないので無味乾燥となる。そこで『戦国策』に興が集まり、著者はこれを解体して時機に応じて“パズルのピースをはめこむような作業”をしたという。そして張丑(ちょうちゅう)という田嬰をまもった遊説家の存在を見つけた由。
次に、田文(孟嘗君)を育てた人物は誰かの疑問に挑んだ話。そこで、孟子ではないかとの突飛な推測をなしている。“惻隠の心”で田嬰が孟子をまもったのではないかと。そして、孟子が田文を教育した?否、大商人・白圭か?“そう考えたとき、私の心ははずみをもった。このはずみがないと、小説は書けない。・・・一条の光をみつければ、その光を追ってゆく性癖をもっている。”という。
これで小説『孟嘗君』を十分に熟読玩味できるだろうか。否、注釈に注釈が付いているような内容を、立て板に水のごとく解説してくれている著者の記述に悩まされるのであろうか。
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