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本郷 和人・著“真説 戦国武将の素顔”を読んで

人権無視!それで先進国か?
それでSDGs活動ができていると言えるのか。17のゴールどれか一つさえやっていればSDGs活動していると言えるのか。1項目だけ要求に適うように実践して、他項目に目をつぶるまでは良いが反対する、或いは反対の行動を実践していてもSDGsに適うと認識しているのか。それは全くの間違いだ。
LGBT理解促進し差別をなくすことに反対し、法案審議棚上げに懸命に努力する国会議員が結構いる。そういう国会議員はSDGsには適合しないのだ。何故ならば「LGBTはSDGsのすべての項目に関わる問題であり、『誰も置き去りにしない』というSDGsのモットーに含まれている」からである。そんな一部の国会議員は何のためにそんなに努力するのか?
“生産性が下がる”?もう十分に下がっているのではないか?もっと下げたいのか?
“社会が変わってしまう”?今、この日本は変わらなければならなかったのでは?そう言っていたのではなかったか?
要は、LGBT理解促進法案に反対する国会議員は、日本を未開発国にするために懸命に努力していると言える。そして選挙民はこういう議員に懸命に投票してきた。
日本と犯罪人引き渡し条約を締結しているのは2カ国しかない、こんな先進国があるか?レバノンとすら締結できていないから、ゴーンがgone!?日本の犯罪者に対する人権無視対応が問題なのだ!日本人一般の人権意識の低さが背景にある!?
入管の外国人への人権無視。それでも入管を所管する法務省はSDGsをやっているという。
“権利ばかり主張する教育が悪い!”と声高に叫んでいたのは誰か?そういう教育をしなかったから、日本人一般の人権意識が低いのではないのか?それは、日本を未開発国に貶めるために懸命に努力している人々の活動の“ありがたァーい賜物”なのだ。
五輪汚職の天国・電通もSDGsを立派にやっているという。(それでSDGs16-5に適合するのか?)
日本のSDGsは一体何なのか?
ヤッパリ、日本はアホアホ天国、そんな国が先進国か?21世紀の未開発国!!
そろそろ良くも悪しくも、それなりにアベ的アホアホ政治の終焉が来ているのかも知れない!
それこそ変わらなければ、アホアホのままとなるのだ!

米国が大騒ぎで中国の気球を撃墜した。撃墜にはF22により空対空ミサイル・サイドワインダーを使用したという。どうしてそんな大袈裟な対応をしたのか、理解できない。
気球だけを狙って落とすのならば、高高度なのでF22を使うのは致し方なしとしても、わざわざ近接スイッチを取り付けたミサイルを使用する必要があったのか、疑問に思うのだ。F22には機銃が装備されており、これを使えば十分に気球は撃ち落とせるハズなのだ。
どうやら気球の話ばかりではなく、中国製の電子機器、例えば監視カメラなどは全て中国のサーバと繋がっており、その情報は全て中国に送られているという問題があるということだ。そういうことなので米国政府は神経を尖らせているのであり、ノンキな日本の政府機関に中国製の電子機器が入っていれば大変なこととなる訳だ、という。



さて、今回は本郷 和人・著“真説 戦国武将の素顔” を紹介したい。
ある日、整理できていない自分の部屋にこの本の表紙を見つけ、ある種のときめきを感じた。それは売られている書店で感じたものを蘇らせたものだった。なので当然、そのまま見捨てることができずに取り上げて読み始めたのだった。私は、買った本のレシートは必ず本と一緒にしているつもりだったのだが、この本には残念ながらそのレシートが付いていなかった。ある種いい加減に扱ってしまっていた本だったのだ。
とにもかくにも、私の信頼する歴史学者・本郷教授の本なので、この忘れられた本に面白く興味津々で取り組んだのだった。いつものようにこの本に関する情報を次に掲載する。

[出版社内容情報]
“過酷なテスト”で部下をふるいにかけた織田信長、真似の天才だった豊臣秀吉、すべてに華がないのになぜ家康は天下人になれたのか……。知られざる戦国武将の素顔と功績、戦国史の謎を最新の歴史学を踏まえてひもとく一冊。過大評価されている武将から過小評価をされている武将まで、日本人を惹きつけてやまない武将たちの素顔を、東京大学史料編纂所教授・本郷先生が愛ある毒舌と慧眼で解説します。

[内容説明]
歴史を知るうえで一番大事なのは疑うこと―。東京大学史料編纂所の教授である著者が最新歴史学の研究成果を踏まえ、愛ある毒舌で戦国武将の実像を紹介する。さまざまな英雄譚とともに語られる戦国武将だが、「過剰な能力主義」で自らの首を絞めた織田信長、一国の侵略に固執するあまり天下の形勢を見誤った武田信玄、目的なき戦いに離反する家臣を止められない“義の人”上杉謙信、“独眼竜”伊達政宗の情けない失敗の数々―こうした批判的視点からは、じつに人間味にあふれた等身大の姿が見えてくる。また、中央からの独立を志した今川義元の意外な姿や、人間関係で読む本能寺の変など、史実で戦国時代のリアルに迫る。

[目次]
第1章 天下人の失敗と素顔(織田信長 野蛮な能力査定;豊臣秀吉 信長以上のブラック上司;徳川家康 美のない天下人)
第2章 名将も後継者の育成は苦手だった?(武田信玄 意外と大局観がなかった?;上杉謙信 “義の人”も人の心は読めなかった;毛利元就 誰も信用しない戦国一の二枚舌)
第3章 敗者の実像とホンネ(石田三成 嫌味な中間管理職;明智光秀 謎多き男の“思いつき”;今川義元 永遠の引き立て役の実像とは?)
第4章 地元LOVEな地方の英雄(島津四兄弟 最強の武闘派ブラザーズ;伊達政宗 じつは戦国一の小悪党)
番外編 戦国時代の悪女(淀殿 豊臣家を滅ぼした最強の毒親)

[著者等紹介]
本郷和人[ホンゴウカズト]
昭和35(1960)年、東京都生まれ。東京大学史料編纂所教授。東京大学・同大学院で日本中世史を学び、東京大学史料編纂所に入所。『大日本史料』第五編の編纂にあたる。著書多数、監修書もある。NHK大河ドラマ『平清盛』の時代考証など幅広く活動(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
※書籍に掲載されている著者及び編者、訳者、監修者、イラストレーターなどの紹介情報です。


私にとって最もショッキングだったのは、上杉謙信をこき下ろしている点だった。この本では5番目に登場するが、ここでは最初に取り上げてみたい。実は、私は上杉謙信を詳しくは知らなかったのだが、戦国大名で最も早くに上洛したこと、“正義を正すため”に関東方面に夥しく出兵し敗北を喫したことがなかったこと、そして敗北しなかったにもかかわらず領土欲がなかったこと、くらいであった。何せ、あの柴田勝家麾下の織田軍を手取川でこっぴどく撃破したくらい無類の強さを発揮したのだから。このいくさを評した次の落首が有名である。 

上杉に逢うては織田も手取川 はねる謙信逃げる信長

上杉謙信は、15歳で初陣を果たしてから49歳で亡くなるまで、その生涯戦績は71戦中、61勝2敗8分。その生涯勝率は97%で、正に戦国時代最強。だが、残念ながら戦略性に欠けていて、天下を取れなかった、という分析があるのは私も知っていた。要は、信長のように上洛に向けての領土拡張という方向性がなかったのだが、それに気付いた時には年老いていて手遅れで、折角、“信長ごときが・・・”とばかり手取川での勝利で春日山城に帰還したにもかかわらず大動員の出陣前に急死してしまったと、こういう議論があったことは知ってはいたが、戦に勝つだけで統治能力には疑問があった、とまで本郷氏は指摘しているのだ。

先ず、“謙信が、何をおいてもドジなのは、後継者問題だと言い、“あれはもうただの愚か者”と決めつけている。幸若舞『敦盛』にある“人生五十年”だった当時、40代後半に入れば後継者を明確に決めておくべきだが、そうはせず、あまつさえ人質の北条氏康の七男・三郎を養子にしてしまい自分の幼名・景虎の名前すら与えてしまった。そして後の家督争いで甥の景勝と越後を二分する騒乱の原因を作ってしまったと指摘している。謙信は婚姻していないので、当然“後継者問題はきちんとやっておかなければならない”ハズだったというのだ。

そして謙信には名のある武将が全くいないのは、“家来の編成がイマイチだから”だろうとも言う。著者は“卵が先か鶏が先かはわかりませんが、謙信のように自分がやることをガーって最初から押さえつけるようにするから家来が育たないのか、それとも家来が育たないから自分でなんでもきめなくてはならなかったのか”と言っている。
北条高広という武将には上野国を任せてはいたが2度も裏切られているという。つまり1度裏切られても許しているのは人望がない証拠?逆に許さざるを得ないほど上杉には人材がいなかったのか、となる。大熊朝秀にも信玄に寝返られている、という。
『義の武将』とひとりで粋がって独りよがりではダメで、“家来たちにも自分と同じ夢を共有させることができないのなら、リーダーとしては失格”だろうとも言っている。“謙信の部下には皆が意見を言える合議組織が見当たらない”とも指摘する。
越後の動員可能戦力は35万石なので謙信が常時率いた選抜軍団8千人は妥当(通常40万石で1万人)で、逆に“信長や秀吉、家康のような強力な軍団を編成できなかった”とも評している。
さらに著者は春日山城は越後の西端で越後全域を統治するのに不都合であり、関東管領として関東一体に進出するのにも勿論不便であり、信長のように統治のために居城を動かさないのはボンクラだとまで酷評している。
しかも、越後から関東を伺うには上野の要所を固めておく必要があるにもかかわらず、先述のように北条高広には2度も裏切られている。

ところで越後の特産品青苧(アオソ)*が上杉の財政を支えたという話は有名である。この本でも、神余親綱(かみなりちかつな)が越後の京都代官として朝廷や幕府との折衝にあたり、河田長親と協力して青苧を売って大儲けしたという。
それと関連してその出荷の港の直江津を近くの居城・春日山城から押さえていたと指摘している。だから、この良港は“交易”に有利だったというだけでなく、青苧の出荷に好都合だった。“謙信が死んだとき、蔵にはお金はザクザクあったという”とも言っている。“謙信の政治はまったくだめ”だが、“経済はよかったのかもしれない”と。

*アオソというのは、カラムシとか苧麻(チョマ)と呼ばれる植物からとった麻糸のこと。この糸で織った麻布が越後の特産品となり、越後布と呼ばれていました。アオソと越後布の生産を盛んにした仕掛け人は、謙信と景勝の二代に使え、名家老とうたわれた直江兼続だと言われる。

著者は最後に、謙信の高野山への家出の逸話を紹介し、政治的ダメダメと評してダメ押ししている。
それにしてもこの本で、謙信の最大の謎、その生涯勝率は97%はどうやって可能だったのかを解明していないのが残念である。多分、選抜された精鋭8千の軍勢を縦横無尽に動かし得たのが勝利につながったのだろう、としか想像できないのだろう。


当然のことながらこの本では著者は、織田信長を一番に評している。
その中で特に印象に残ったのは、“信長は結構背中を丸出しにして、後ろはぜんぜん振り返らずに敵をせめる”癖がある。朝倉を攻めた時、信長は浅井長政を信じ切って、全く警戒せずに戦っていた。長政は“信長の無防備な背中を見たときに戦国武将の本能として、「やっぱこいつをたおしてみたい」”と攻めかかった。“本能寺でも光秀を信じきっていた”。“信長ぐらいの立場だと、常に暗殺の危険を考えていなければならないのに、慎重さが足りない”、というところだ。言われてみれば、そうだったかの思いに駆られる。


次が豊臣秀吉。“「人たらし」が権力を握った末路”に、“信長の家臣時代には、「人たらし」とされるほどの気遣いの人であった秀吉も、権力を手にした途端、性格が一変する。「信長と同様に、あるいはそれ以上に専制君主となった」ということは忘れてはいけない”と言っている。そうして、よく「秀吉は、農民のことをよく知っている」とか「農民出身だから、農民を大切にしている」とか言われるが、じつは太閤検地に逆らった人間を“秀吉は、「撫斬りにしろ」つまり「皆殺しにしてしまえ」と命じている”と指摘している。
こういうエピソードを聞くと現代の中国の毛沢東を思い出す。毛沢東も農民出身だったが、都市市民と農民を峻別する戸籍制度を創設し、現在も年金等で農民を差別し苦しめている。

さらに、秀吉の中国攻めでの“三木城の「干殺し」(ひごろし)や鳥取城の「飢え殺し」(かつえごろし)、備中高松城の「水攻め」といった残酷な作戦を平気で行っている”と言う。
また部下への接し方を見ると、気性も激しく情け容赦もない局面があり、一説によれば100万石と言われた丹羽家や奥羽を押さえた92万石の蒲生家を没落させている。丹羽長秀から長重への代替わりで12万石に、蒲生氏郷から秀行に代替わりで18万石に大幅な減封と沙汰したと指摘している。
信長の家臣だった頃は“とんでもなく優秀な社員だった”が、“跡取りの秀頼が生まれたあとの秀吉は、自分の跡を秀頼に継がせたいということばっかりが表に出るようになり、相当残酷なことをするようになる”とも言っている。そして、秀吉の“「天性の人たらし」というのが、どうも胡散臭い”とまで言っている。


第三がいよいよ徳川家康。この本では冒頭から家康を「ケチ」と評している。質実剛健かもしれないが“家康の場合は美的センスが欠けているというか、人生に華がない”と断言。江戸城も駿府城も“美しさがなく、ただデカイだけ、白いだけ、で工夫やヤル気があまり感じられない”と評している。鎧兜もそうで、折角イタリアで作らせたが射撃までして耐弾性を確認しながら華やかさがない、という。
“もちろん、家康が優秀な人物であることは間違いなく、勉強家であり、剣の達人でもあるし、さらに、馬術や水泳なども上手”、“そういう、戦国武将としてのツボはしっかり押さえているわけですが、信長や秀吉に比べて、どうも今一つパッとしない。”
確かに、大河ドラマ“どうする家康”では、アホでノンキな印象を与えるイメージを醸成しているが、今川の人質時代に智源院・智短和尚や今川家軍師・太原雪斎から手ほどきを受け猛勉強しているハズで、ドラマで見たような慌てふためきオタオタするパフォーマンスは全く考えられないと思っていたが、どうやらそのようである。
そして、“家康には、地味に粘り強く戦っているイメージはあるが、おもしろい戦いのエピソードがない”とも言う。“家康が単独で勝った戦いは、「三河平定戦」ぐらいで、大向こうを唸らせるような勝利はあまり聞かないし、家康の見事な勝利といえば、関ヶ原の戦いぐらいしか”ないとも言っている。
お勉強家で着実な勝利を志向したのであれば、過去にない独創的で奇抜な戦略・戦術が取れるハズもないというのが普通ではないかという気がする。“こう考えてみると、「野戦の家康」や「三河武士は強い」というのは、後世に創られたただの伝説だったのかもしれない”、となる。
ただ、“家康は、ひたすら地味を実践しているから、部下にゲンナリされることはあっても、・・・反旗を翻されることは少ない”とも評している。
そして、“国を閉ざして内需拡大に舵を切る”となり、“つまらない時代がやって来た”となった。“金を使わない、質実剛健をスローガンに貯金を推奨して、無駄遣いをなくすことは、それはそれでいいことだが、経済のパイは大きくならない。そういう意味でいうと家康は、経済的なセンスがなかったのかも”しれない、と最終評価している。お勉強家で秀才の限界だったのかもしれないと思わざるを得ない。

次が武田信玄となる。“武田騎馬隊はいたのか?”では、その存在については否定的な推測をしている。それは軍を催すにあたって、任された領地ごとに軍役が課されるからだ。つまり領地ごとに「馬二頭」、「甲冑武者二人」、「鉄砲一丁」、「槍二本」、「足軽二十人」と割り当てられ、勲功を上げれば損害と併せて報告し、それに応じて恩賞がある仕組みになっていた。そこで、騎馬兵だけを抜き出して騎馬隊を編成するとなると、恩賞の付与などに混乱を来すことになるので、騎馬隊の編成は困難だろうとの推測だ。これは封建制の基本的な社会システムの特性によるもので近代社会と大きく異なる点で当然なのだ。
ただし、信玄が領有した“甲斐国、信濃国で馬がたくさん育成できた”ので、“武田は騎馬の占める割合が大きかった”と推測できると言っている。
“信玄を追いかけていけば行くほど、彼が優秀だったことは間違いない”、“しかし海を早く手に入れることを考えたり、領土の生産力にもう少し目をやるとか”がなかった。戦略的にもう少し大局観があって良かったのであり、局所の戦術的には強くても戦略的には疑問だった、と言っている。


驚いたのが、毛利元就を激賞していることだった。“毛利元就は、中国地方の国人領主から身を起こし、一代にして最大中国10カ国を制覇する大大名にまでのし上がった、西日本最強の武将”だ、と。なぜならば“永正13年(1516年)、安芸武田氏5000に対し毛利が1000で戦った元就の初陣である「有田中井出の戦い」、天文9年(1540年)に尼子が2万の兵を率いて吉田郡山城を囲んだ「吉田郡山城の攻防戦」。そして最後は天文24年(1555年)の厳島の戦い。これは3つとも、絶望的な兵力差をひっくり返して勝利”しているからだという。“「小よく大を制する」伝説を・・・3つも持っているのは元就くらい”だからだ。
「人を見て法を説け」に巧みで、息子の隆元と隆景には真反対と思えることを言って諭している、とか、“執念深さも戦国一!?”で、十男も設けながら一人だけを残して養子に出し、家来を信用せず、みんな自分でやっていた、というエピソードを語る。
元就は次男なので、若い時本拠の吉田郡山城に住めずに近くの多治比猿掛城で暮らしていたが、その城を家来の井上元盛に横領されてしまったのだが、それを生涯に恨みを持って、20年から30年かけて井上一族を皆殺しにした、という。
お酒にしても、兄の興元や父・弘元が酒の飲み過ぎで早く死んだから、一切飲まなかった、と指摘していかに執念深いか示している。まぁ現代では当たり前では?!
権威をあてにせず、天下をとるつもりもない(「我、天下を競望せず」)。あくまでも御家大事、“大事なのは毛利なのだ”と息子達に語ったと言っている。


次が石田三成。秀吉政権の晩年、五大老と五奉行どっちが上、の問題では著者は実権は五奉行だったろうと推測している。“秀吉は、石田三成や増田(ました)長盛を「一番重く用いていた」、「信頼していた」ということになる”のであり、“だからやはり、石田三成の豊臣政権で果たしていた役割というのは、非常に重い”と言っている。
そういう背景があって、例えば島津領に三成の家来が派遣され検地を行ったが、家来が島津に非常に高圧的な態度をとったという事例があったようで、そういったことが積み重なって、恨みを買ったのではないかと、推測している。三成が家来を教育するべきだったのを放置したのではないかと言っている。
“秀吉が朝鮮出兵で大失敗したのが大きいかなと思うしかない”が、“それとともに豊臣政権の構造上の問題、さらに「三成に求心力がなかった」という事実は認めざるを得ない”。“豊臣恩顧、豊臣の譜代大名が、「軒並み徳川へ走った」ことから考えても、三成がいかにダメだったか”が良く分かるのではないか。“ただ三成は領国では慕われた殿様だったらしく豊臣家の政権運営には官僚として能力を発揮した。・・・官僚としては有能だったけど、政治家ではなかった”と評している。


目次を見て分かるようにこの後、最後に番外編で淀君に触れているが、歴史上最大の謎に触れていないのが大変に残念だった。それは秀吉の側室は無数に居たはずだが、子をなしたのは淀君だけだったという謎だ。淀君だけが、秀吉の子をポコポコと生んだのだ。明らかに怪しい話ではないか。当然、それに触れるべきだと思うが、歴史学者として厳密に客観的に評価できなかったから、取り上げなかったのだろう。

このように、本郷教授の語りは歴史学者として厳密で客観的評価に基づいているので、大変信頼できるものであると私は信じている。そういう観点で、同教授の本は今後も選んで行きたいと思っている。

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