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本郷 和人・著“徳川家康という人”を読んで
先週でロシアのウクライナ侵攻が始まって1年経過した。プーチンという一人の男の狂気と妄想によって多くの人命が失われたことは、人類の歴史を無視した実に痛ましい事実ではあるまいか。ウクライナとロシアの国境は、民主主義領域と権威主義領域の境界であると言える。
問題は“永遠平和のために”を書いたカントの理想に沿って実現したはずの国連が全く機能しなかったことだ。それも戦前の国際“連盟”の失敗を改善したはずの国際“連合”での機能不全なのだ。国連の抜本的改革が必要ではあるまいか。だが、その改革案は中々難しいのではあるまいか。
バイデン大統領の改造トヨタ車によるウクライナ訪問は大成功だった。一方、中国は仲裁に入ろうとしているようだが、ロシア侵略を是認する中国案はウクライナの拒絶となるのは明らかであろう。巻き返しを図るロシア軍は実は青息吐息だという噂もあるが、ここで一気に決着を図ろうとして新型戦車の供与以外に西側の実力介入もあるのではないかとの報道もあるという。
そうした中、首相がキーウ訪問に焦っている、という。今更焦っても遅い。警備困難で、最早ほぼ不可能。
バイデン大統領の警備は、ウクライナ兵だったというが、そのウクライナ兵の軍装は米国の兵士とそっくりだったという報道があった。なるほど、ウクライナの警備は米国が訓練したものだったので、米国の方式そのままを導入したものだった、という。だから、実質米国兵が入り込んでいても部外者には全く見分けがつかないことになっていたという。
そういう芸当が日本にできるのか。そういう素地、バックグラウンドが無いところで、上っ面だけで、カッコヨクしようとしても土台無理な話なのだ。本気でウクライナを支援するというのなら、自衛隊のロケットランチャー廃棄の時にウクライナに何故供与しなかったのか。
日本以外のG7各国はNATO加盟国だし、ウクライナに近い国々だ。だからこそ、欧米首脳のウクライナ訪問は当然のことだ。
それに昨年末の駆け足での欧米訪問時に何とかウクライナ訪問を終えておけばよかったのを、何故やらなかったのか。そこで、やらないのなら訪問断念だと誰しも思うだろう。日本には日本の立場がある。だからこそ独自の外交が必要なのだ。
“皆さん、やっておられます”という日本人特有のシンドロームに首相も罹患して良いのか?
北朝鮮はミサイルを発射し日本のEEZ内に正確に落としたという。おまけに北の要人が、太平洋を「射撃場に活用する」と発言したとの報道もある。
日本はその度に、誤情報オンボロJアラートを鳴らすつもりか?情けない限りだ。何故、EEZ内に落ちると予測されるミサイルは撃墜しないのか。それをやらないから、太平洋が北の射爆場になるのだ。ということは、日本自体が射爆場になったということではないのか。
ところでようやく、これまで疑問だった機関銃で偵察気球が撃墜できないという記事が確認できた。 それまでどういう理由で機銃撃墜できないのか全く議論が聞こえてこなかった。こういう点で日本の報道人のマヌケさと解説力の無さをまざまざと思い知ったのだ。これほど、日本の報道はいい加減なので、それのみで自分の世界観を構成しているととんでもないことになるという自覚が必要なのだ、と改めて確認した次第だ。
さて、今回は本郷 和人・著“徳川家康という人”を紹介したい。前々回投稿の本郷 和人・著“真説 戦国武将の素顔”の紹介でも、“大河ドラマ『どうする家康』では、アホでノンキな印象を与えるイメージを醸成しているが、今川の人質時代に猛勉強しているので、ドラマで見たような慌てふためきオタオタするパフォーマンスは全く考えられないと思っていたが・・・”と書いたが、やっぱり大河ドラマの行方は気になる。そこで“徳川家康”に関する本郷教授の決定版と思われる“徳川家康という人”を読み切っておきたいと思った。
例によって、この本の概要情報を次に記す。
[出版社内容情報]
徳川家康とはどんな人物か? その生きざま、家臣団、軍事、政治・経済、外交、文化への関心……重要ポイントを徹底解説。頼朝、信長、秀吉とはまったく異なるリーダー像が浮かび上がる。
[内容説明]
乱世を生き抜き、最後の最後に一人勝ちした徳川家康。いったいどんな人物だったのか。その生きざま、三河家臣団の真実、軍事的手腕、政治・経済の才、外交戦略…東京大学史料編纂所教授が天下人の実像をいきいきと描く。信長にも秀吉にもなれなかった男のサバイバル術。「日本史上最強の凡人」は、なぜ強かったのか―?
[目次]
第1章 家康の生きざま―よく耐えたよ、家康
第2章 家康の家臣団―精強にして忠実な三河武士?
第3章 家康の軍事―キラリと光るものは、ない
第4章 家康の政治・経済―なぜ、江戸?
第5章 家康の外交―秀吉の尻ぬぐい?
第6章 人間・家康
[著者等紹介]本郷和人(ホンゴウカズト)
1960年、東京都生まれ。東京大学史料編纂所教授。博士(文学)。専攻は日本中世政治史、古文書学。『上皇の日本史』『壬申の乱と関ヶ原の戦い』『日本史のツボ』『新・中世王権論』など。『大日本史料』第5編の編纂にあたる(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
本郷教授の家康観。“結論!私たちは信長や秀吉にはなれない。でも、努力さえすれば、家康にはなれるかもしれない。頑張りましょう!”となる。要は、天才的ヒラメキのある“信長や秀吉にはナカナカなれない”が、我慢して努力した“家康にはなれる可能性はあるハズ”ということだ。以上、ツァン!ツァン!で終わり?
だが、その“我慢”と“努力”は超人的だった、ということ。それは従来の“家康紹介本”に尽くされているのではないか。
それとかつて、私自身は家康の生涯を俯瞰して、“長生きしたこと、それであまたあるライバルを押しのけて最終的に天下を取った”と結論した。この“長生き”がキィ・ワードだと認識していた。本郷教授はその点に言及しなかったのが、残念な感想だが、違った角度からの指摘はビックリするような結論ではないが、非常に参考になったような気がする。
勿論、家康は“長生き”するための“努力”もしていた。著者・本郷教授は“戦に負けたときの対策として馬術と水泳をやっている”とこの本で何度も指摘しているが、これも何とか“生き延びる”つまり“長生き”のための努力の二つだっためではないか。
著者は指摘していないが、“家康は、薬の専門書(『本草綱目』や『和剤局方』等)を愛読”して研究していたのは有名であり、“江戸城本丸御殿の家康の自室には、壁を埋め尽くす「薬箪笥」があり、その一つひとつに様々な薬がおさめられていた”ともいう。さらに“家康は駿河国内に「御藥園」(薬草園)を2箇所もっていたと記されています。一つが、駿府城外堀付近で、もう一つが久能山下”だったという。これもまた“長生き”のための努力の大きな要素だっためではないか。
本書は、言って悪いが著者・本郷教授の漫談に堕していて、饒舌であるが同じような内容で巡ってしまい、議論が滞っている感は否めない。だから、家康の薬草趣味を見落としていたことにも気付かなかったのではないか。否、それだからこそ著者の本音が聞こえて良かったのかも知れない。
私にとって意外な指摘だったのは、第2章の“家康の家臣団―精強にして忠実な三河武士?”であった。
それは桶狭間の戦いの後、岡崎城に一気に入城せず一旦大樹寺に入っていたが、それでも安心してはいなかったし、“実際に家康の首を狙って武士たちが襲ってきた”という。家康は何を警戒したのか。“織田の軍勢が桶狭間を通り過ぎて三河まで攻めてくるはずがない”。(桶狭間古戦場は現在の名古屋市緑区。岡崎市はそれから約20km東にある。)“では、家康が想定していた敵とは誰か?・・・これは三河武士そのものではないか。・・・そうすると主人を慕う三河武士、主従の麗しい絆なんてぜんぶ嘘だったんじゃないか”という。
要するに、家康は一般に三河の頭首とは当時思われてはいなかった、ということ。つまり、“彼のアイデンティティは、人質として幼少期から過ごした駿府にあった”。今川の本拠で最新文化の華やかな都会の駿府で育った家康は“シティボーイだった”ハズだという。
その上、“三河一向一揆でも家臣たちは裏切った”ともいう。さらに“徳川四天王”と呼ばれる家臣団(酒井忠次、本多忠勝、榊原康政、井伊直政)も全員厚遇された訳ではない。しかも井伊直政は三河ではなく遠江出身。酒井忠次は長男・信康切腹事件への関与(信長への報告でかばわなかったとされる)で、家康は生涯嫌っていた、という。譜代の石川数正も秀吉の下に走った。
それに、“はじめに”で書かれていた、家康の臨終に実際に臨んだ超側近の藤堂高虎は、元々譜代ではなく、明らかに三河出身ではない。“生まれは近江犬上郡藤堂村。・・・はじめ浅井長政に足軽として仕え、浅井家滅亡後は同家の旧臣だった阿閉貞征、次いで同じく浅井旧臣の磯野員昌、さらに近江に所領を持っていた織田信長の甥・織田信澄に仕え”たが、どれも長続きせず、秀吉の弟・秀長に仕えて秀吉に見出されて、朝鮮の役で武功を上げ大洲城1万石を得たという。つまりほぼ全くの外様であった。
要は、大久保彦左衛門が書いた『三河物語』による“三河武士は精強無比。しかも忠実で我慢強く、戦いに強かった”というイメージが広まった結果であり、“家康が天下を取ってしまってから、あとづけでつくられた物語”であるとの指摘であった。
第3章の“家康の軍事―キラリと光るものは、ない”というのも少し意外だった。もっとも大河ドラマ“真田丸”では、真田昌幸が家康に上田城築城費用を出させた上で、攻め寄せた家康の軍勢を大敗に追い込んだ話があったのを覚えていて、家康にもマヌケなところがあったんだと思っていた。
だが、“キラリと光るものは、ない”では決定的!確かに、三方ヶ原の戦いでも武田信玄にも大敗して、脱糞したというのは有名な話だ。
でも“キラリと光るものは一つある”という。それは“小牧・長久手の戦い”であるという。“両者は防御を固めて対峙するかたちになった。・・・そこで秀吉は二万人の兵士からなる別動隊を組織して、小牧城にいる家康の頭越しに三河を突く動きを見せた。”“結果として、徳川家康はその囮部隊に食らいついた。”しかし、予想外に迅速に動き攻撃後“小牧城にたてこもった”。秀吉側は“餌だけ取られるかたちで、犬山城に帰ることに”なったという。しかし、“もともと家康は、織田家の後継者は信雄であり、それをないがしろぬする秀吉は許さないということで、戦いの正統性を打ち出して”いたが、その信雄があっさり、秀吉軍に降伏した。そこで家康には戦う意義を失い、和平を結んだという。それでも毛利元就のような“小が大を呑む”話ではない。
とにかく家康は“お勉強”しており、“野戦築城もやる。兵站もきちんと整備する。行軍も大事にする。そうした工夫を取り入れて、家康は軍事をやります”という評になる。
第6章の“人間・家康”が総括として面白い。
城づくりには美的センスがないと言い、白い漆喰が、黒い漆塗りより安上がりだから、なんだか締まりのない仕上がりでも白を選んだという。
女性関係は“大名は子供をつくることが、大きな責務”として、“すでに子供がいる未亡人を狙った”。“そこにはロマンはまったくありませんが、戦国大名の営みとしては理解できる”との評。だが、“歳を取ってからはガラリと変化し、自分の好みの女性にどんどんアプローチ・・・、この人は本質的には若い女性が好みだった”。
宗教に関してはフラットだった。(この本によれば家康の宗旨は天台宗となっていて、上野・寛永寺は天台宗だが、岡崎の大樹寺は浄土宗、江戸では日蓮宗の天妙国寺も大切にしていたようで結構いい加減。それでも“はじめに”では、家康が亡くなる直前、藤堂高虎に“世話になったが宗派が違うので、来世では会えぬなあ”と言われると、高虎はすぐに別室に居た天海大僧正に頼んで宗派替えを行い、日蓮宗から天台宗に改め“これで来世でもお仕えすることができます”と応答した、という話もある。)それに、三河で歯向かってきた一向宗を弾圧する訳でもなく、ただ勢力を東西に分割して競わせて勢いを削がせた。キリスト教も向きになって弾圧しなかった。晩年には天台宗の天海大僧正を重用した。
そして、親族では娘の婿殿を大抜擢したという。
こうして結論として、家康は“お勉強”はするが“お勉強”から発想を飛躍させて、信長や秀吉のように天才的な驚くようなことはしない。結果として面白くないものが出来上がる。江戸時代は桃山時代のように面白い時代にはならなかった、という指摘になる。まぁ、それは少々言い過ぎの感はぬぐえないと思うのだが、それが著者の結論となっている。
問題は“永遠平和のために”を書いたカントの理想に沿って実現したはずの国連が全く機能しなかったことだ。それも戦前の国際“連盟”の失敗を改善したはずの国際“連合”での機能不全なのだ。国連の抜本的改革が必要ではあるまいか。だが、その改革案は中々難しいのではあるまいか。
バイデン大統領の改造トヨタ車によるウクライナ訪問は大成功だった。一方、中国は仲裁に入ろうとしているようだが、ロシア侵略を是認する中国案はウクライナの拒絶となるのは明らかであろう。巻き返しを図るロシア軍は実は青息吐息だという噂もあるが、ここで一気に決着を図ろうとして新型戦車の供与以外に西側の実力介入もあるのではないかとの報道もあるという。
そうした中、首相がキーウ訪問に焦っている、という。今更焦っても遅い。警備困難で、最早ほぼ不可能。
バイデン大統領の警備は、ウクライナ兵だったというが、そのウクライナ兵の軍装は米国の兵士とそっくりだったという報道があった。なるほど、ウクライナの警備は米国が訓練したものだったので、米国の方式そのままを導入したものだった、という。だから、実質米国兵が入り込んでいても部外者には全く見分けがつかないことになっていたという。
そういう芸当が日本にできるのか。そういう素地、バックグラウンドが無いところで、上っ面だけで、カッコヨクしようとしても土台無理な話なのだ。本気でウクライナを支援するというのなら、自衛隊のロケットランチャー廃棄の時にウクライナに何故供与しなかったのか。
日本以外のG7各国はNATO加盟国だし、ウクライナに近い国々だ。だからこそ、欧米首脳のウクライナ訪問は当然のことだ。
それに昨年末の駆け足での欧米訪問時に何とかウクライナ訪問を終えておけばよかったのを、何故やらなかったのか。そこで、やらないのなら訪問断念だと誰しも思うだろう。日本には日本の立場がある。だからこそ独自の外交が必要なのだ。
“皆さん、やっておられます”という日本人特有のシンドロームに首相も罹患して良いのか?
北朝鮮はミサイルを発射し日本のEEZ内に正確に落としたという。おまけに北の要人が、太平洋を「射撃場に活用する」と発言したとの報道もある。
日本はその度に、誤情報オンボロJアラートを鳴らすつもりか?情けない限りだ。何故、EEZ内に落ちると予測されるミサイルは撃墜しないのか。それをやらないから、太平洋が北の射爆場になるのだ。ということは、日本自体が射爆場になったということではないのか。
ところでようやく、これまで疑問だった機関銃で偵察気球が撃墜できないという記事が確認できた。 それまでどういう理由で機銃撃墜できないのか全く議論が聞こえてこなかった。こういう点で日本の報道人のマヌケさと解説力の無さをまざまざと思い知ったのだ。これほど、日本の報道はいい加減なので、それのみで自分の世界観を構成しているととんでもないことになるという自覚が必要なのだ、と改めて確認した次第だ。
さて、今回は本郷 和人・著“徳川家康という人”を紹介したい。前々回投稿の本郷 和人・著“真説 戦国武将の素顔”の紹介でも、“大河ドラマ『どうする家康』では、アホでノンキな印象を与えるイメージを醸成しているが、今川の人質時代に猛勉強しているので、ドラマで見たような慌てふためきオタオタするパフォーマンスは全く考えられないと思っていたが・・・”と書いたが、やっぱり大河ドラマの行方は気になる。そこで“徳川家康”に関する本郷教授の決定版と思われる“徳川家康という人”を読み切っておきたいと思った。
例によって、この本の概要情報を次に記す。
[出版社内容情報]
徳川家康とはどんな人物か? その生きざま、家臣団、軍事、政治・経済、外交、文化への関心……重要ポイントを徹底解説。頼朝、信長、秀吉とはまったく異なるリーダー像が浮かび上がる。
[内容説明]
乱世を生き抜き、最後の最後に一人勝ちした徳川家康。いったいどんな人物だったのか。その生きざま、三河家臣団の真実、軍事的手腕、政治・経済の才、外交戦略…東京大学史料編纂所教授が天下人の実像をいきいきと描く。信長にも秀吉にもなれなかった男のサバイバル術。「日本史上最強の凡人」は、なぜ強かったのか―?
[目次]
第1章 家康の生きざま―よく耐えたよ、家康
第2章 家康の家臣団―精強にして忠実な三河武士?
第3章 家康の軍事―キラリと光るものは、ない
第4章 家康の政治・経済―なぜ、江戸?
第5章 家康の外交―秀吉の尻ぬぐい?
第6章 人間・家康
[著者等紹介]本郷和人(ホンゴウカズト)
1960年、東京都生まれ。東京大学史料編纂所教授。博士(文学)。専攻は日本中世政治史、古文書学。『上皇の日本史』『壬申の乱と関ヶ原の戦い』『日本史のツボ』『新・中世王権論』など。『大日本史料』第5編の編纂にあたる(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
本郷教授の家康観。“結論!私たちは信長や秀吉にはなれない。でも、努力さえすれば、家康にはなれるかもしれない。頑張りましょう!”となる。要は、天才的ヒラメキのある“信長や秀吉にはナカナカなれない”が、我慢して努力した“家康にはなれる可能性はあるハズ”ということだ。以上、ツァン!ツァン!で終わり?
だが、その“我慢”と“努力”は超人的だった、ということ。それは従来の“家康紹介本”に尽くされているのではないか。
それとかつて、私自身は家康の生涯を俯瞰して、“長生きしたこと、それであまたあるライバルを押しのけて最終的に天下を取った”と結論した。この“長生き”がキィ・ワードだと認識していた。本郷教授はその点に言及しなかったのが、残念な感想だが、違った角度からの指摘はビックリするような結論ではないが、非常に参考になったような気がする。
勿論、家康は“長生き”するための“努力”もしていた。著者・本郷教授は“戦に負けたときの対策として馬術と水泳をやっている”とこの本で何度も指摘しているが、これも何とか“生き延びる”つまり“長生き”のための努力の二つだっためではないか。
著者は指摘していないが、“家康は、薬の専門書(『本草綱目』や『和剤局方』等)を愛読”して研究していたのは有名であり、“江戸城本丸御殿の家康の自室には、壁を埋め尽くす「薬箪笥」があり、その一つひとつに様々な薬がおさめられていた”ともいう。さらに“家康は駿河国内に「御藥園」(薬草園)を2箇所もっていたと記されています。一つが、駿府城外堀付近で、もう一つが久能山下”だったという。これもまた“長生き”のための努力の大きな要素だっためではないか。
本書は、言って悪いが著者・本郷教授の漫談に堕していて、饒舌であるが同じような内容で巡ってしまい、議論が滞っている感は否めない。だから、家康の薬草趣味を見落としていたことにも気付かなかったのではないか。否、それだからこそ著者の本音が聞こえて良かったのかも知れない。
私にとって意外な指摘だったのは、第2章の“家康の家臣団―精強にして忠実な三河武士?”であった。
それは桶狭間の戦いの後、岡崎城に一気に入城せず一旦大樹寺に入っていたが、それでも安心してはいなかったし、“実際に家康の首を狙って武士たちが襲ってきた”という。家康は何を警戒したのか。“織田の軍勢が桶狭間を通り過ぎて三河まで攻めてくるはずがない”。(桶狭間古戦場は現在の名古屋市緑区。岡崎市はそれから約20km東にある。)“では、家康が想定していた敵とは誰か?・・・これは三河武士そのものではないか。・・・そうすると主人を慕う三河武士、主従の麗しい絆なんてぜんぶ嘘だったんじゃないか”という。
要するに、家康は一般に三河の頭首とは当時思われてはいなかった、ということ。つまり、“彼のアイデンティティは、人質として幼少期から過ごした駿府にあった”。今川の本拠で最新文化の華やかな都会の駿府で育った家康は“シティボーイだった”ハズだという。
その上、“三河一向一揆でも家臣たちは裏切った”ともいう。さらに“徳川四天王”と呼ばれる家臣団(酒井忠次、本多忠勝、榊原康政、井伊直政)も全員厚遇された訳ではない。しかも井伊直政は三河ではなく遠江出身。酒井忠次は長男・信康切腹事件への関与(信長への報告でかばわなかったとされる)で、家康は生涯嫌っていた、という。譜代の石川数正も秀吉の下に走った。
それに、“はじめに”で書かれていた、家康の臨終に実際に臨んだ超側近の藤堂高虎は、元々譜代ではなく、明らかに三河出身ではない。“生まれは近江犬上郡藤堂村。・・・はじめ浅井長政に足軽として仕え、浅井家滅亡後は同家の旧臣だった阿閉貞征、次いで同じく浅井旧臣の磯野員昌、さらに近江に所領を持っていた織田信長の甥・織田信澄に仕え”たが、どれも長続きせず、秀吉の弟・秀長に仕えて秀吉に見出されて、朝鮮の役で武功を上げ大洲城1万石を得たという。つまりほぼ全くの外様であった。
要は、大久保彦左衛門が書いた『三河物語』による“三河武士は精強無比。しかも忠実で我慢強く、戦いに強かった”というイメージが広まった結果であり、“家康が天下を取ってしまってから、あとづけでつくられた物語”であるとの指摘であった。
第3章の“家康の軍事―キラリと光るものは、ない”というのも少し意外だった。もっとも大河ドラマ“真田丸”では、真田昌幸が家康に上田城築城費用を出させた上で、攻め寄せた家康の軍勢を大敗に追い込んだ話があったのを覚えていて、家康にもマヌケなところがあったんだと思っていた。
だが、“キラリと光るものは、ない”では決定的!確かに、三方ヶ原の戦いでも武田信玄にも大敗して、脱糞したというのは有名な話だ。
でも“キラリと光るものは一つある”という。それは“小牧・長久手の戦い”であるという。“両者は防御を固めて対峙するかたちになった。・・・そこで秀吉は二万人の兵士からなる別動隊を組織して、小牧城にいる家康の頭越しに三河を突く動きを見せた。”“結果として、徳川家康はその囮部隊に食らいついた。”しかし、予想外に迅速に動き攻撃後“小牧城にたてこもった”。秀吉側は“餌だけ取られるかたちで、犬山城に帰ることに”なったという。しかし、“もともと家康は、織田家の後継者は信雄であり、それをないがしろぬする秀吉は許さないということで、戦いの正統性を打ち出して”いたが、その信雄があっさり、秀吉軍に降伏した。そこで家康には戦う意義を失い、和平を結んだという。それでも毛利元就のような“小が大を呑む”話ではない。
とにかく家康は“お勉強”しており、“野戦築城もやる。兵站もきちんと整備する。行軍も大事にする。そうした工夫を取り入れて、家康は軍事をやります”という評になる。
第6章の“人間・家康”が総括として面白い。
城づくりには美的センスがないと言い、白い漆喰が、黒い漆塗りより安上がりだから、なんだか締まりのない仕上がりでも白を選んだという。
女性関係は“大名は子供をつくることが、大きな責務”として、“すでに子供がいる未亡人を狙った”。“そこにはロマンはまったくありませんが、戦国大名の営みとしては理解できる”との評。だが、“歳を取ってからはガラリと変化し、自分の好みの女性にどんどんアプローチ・・・、この人は本質的には若い女性が好みだった”。
宗教に関してはフラットだった。(この本によれば家康の宗旨は天台宗となっていて、上野・寛永寺は天台宗だが、岡崎の大樹寺は浄土宗、江戸では日蓮宗の天妙国寺も大切にしていたようで結構いい加減。それでも“はじめに”では、家康が亡くなる直前、藤堂高虎に“世話になったが宗派が違うので、来世では会えぬなあ”と言われると、高虎はすぐに別室に居た天海大僧正に頼んで宗派替えを行い、日蓮宗から天台宗に改め“これで来世でもお仕えすることができます”と応答した、という話もある。)それに、三河で歯向かってきた一向宗を弾圧する訳でもなく、ただ勢力を東西に分割して競わせて勢いを削がせた。キリスト教も向きになって弾圧しなかった。晩年には天台宗の天海大僧正を重用した。
そして、親族では娘の婿殿を大抜擢したという。
こうして結論として、家康は“お勉強”はするが“お勉強”から発想を飛躍させて、信長や秀吉のように天才的な驚くようなことはしない。結果として面白くないものが出来上がる。江戸時代は桃山時代のように面白い時代にはならなかった、という指摘になる。まぁ、それは少々言い過ぎの感はぬぐえないと思うのだが、それが著者の結論となっている。
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